けぶる稜線

ひいらぎのとげが語る

感情移入なのか、保身なのか、ガランドウの頭なのか

2019-08-15 08:23:52 | 小説
「少女像は・・・・・拍子抜けするような作品だった」と話した「愛知トリエンナーレ2019」の企画展に展示されていた「少女像」を見た来場者の一人のことばが新聞記事に載っていた。(2019年8月4日、朝日新聞社会31ページ)。

韓国と日本の間で政治問題化されていた少女像は、その設置場所が日本大使館前という示威行為の現場がなければ、ただの単なる、所謂、「かわいい」ということばが発せられるだけの少女像だ。像が美術館内に置かれれば、像に政治性を持たせていた精神性は剥奪され、大英博物館に展示されている神聖なる(だった)エジプト王の像と同じく単なる過去の遺物、歴史の一部、となるだけ。それに対して、けしからんとか日本人の心を踏みにじるものだなどという個人的感情をメディアに発している。そんなものが起こるとしたら、相手の呪詛にまんまと乗ってしまっている、絡め取られてしまっているのだ。その時点で、負け犬と化している。

非難する人たちの多くは実物を見ていないだろう。見たら、なんだこんなものか、と拍子抜けした感想を持つのではないか。像の顔に紙袋を被せた人や怒声を発した人もいたようだが、これらの人たちは作品を見に来たのではなく彼の心や精神の弱さを露呈させるために入場料を払ったのだろう。人間が作った宗教経典を振り回して物事を判断し示威行動する集団と同じ人々になってしまっている。

呪物に恐れおののくのはその人の精神が実体のないものに捉えられてしまっているからなのだ。美術館内での展示物に河村たかし名古屋市長が展示中止を求めたという行為は、複雑に込み入った要因を除けば、彼の保身行為と貧弱なる美意識から出ているのだ。

展示されている(される)作品に美術館員が作品の修正や撤去を求める行為は独裁国家や宗教国家と同じレベルではないだろうか。公金が投入されているから云々という乱暴な意見が目立つが、公金をくすねているのは多くの市町村都府県国会議員やそれらの蜜の味にたかる集団や受益者たちではないだろうか。

韓国の日本大使館前に置かれた少女像は現場を離れ美術館に入った時点で「こんなもの(だった)」展示物の一つとなっているに過ぎない。過去には、白い陶製便器が展示されたといって憤慨した人々もいたが、あいちトリエンナーレ展示会を非難し閉鎖に追い込んだ人たちやそれに同調した人たちは「考える」という人間ではなくて周りを見て判断を下すしか能のないコンピュータ人間なのだ。箱の中は空っぽで何もなくホコリで一杯。おっ、そうだ。この中身が空っぽの箱人間は展示物になるぜ。



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