漫画家の蛭子能収は、言う。
「俺、人が死んでも、悲しくないんだ。
数々の葬式にもいろいろ行ったけど、
ほとんど悲しいと思ったことはないんだよね」
この発言は、
多くの人を、
「不謹慎」
と言わしめているようだ。
でも俺は弁護する!
大地一人自身、
「人の死は、魂の成長の、一過程」
と思っている。
つまり死を繰り返すことによって、
人は成長するのだ。
だから亡くなった人に対しては、
「あの世に行っても、がんばってほしい」
と励ます気持ちがほとんどで、
悲しい気持ちは、あまり起きない。
そりゃ、親しい人に対しては、
悲しい気持ちも起きるが、
それは滅多にない。
そんなことを思っていたら、
あるとき、こんなことに気づいた。
「蛭子能収の出身地は、
長崎市・・・とすれば、彼は、
原爆で、多くの人が一瞬で亡くなったのを、
身をもって知っているはずだ。
そういう経験をした人は、
他人の死に対しても、冷静になれるはずだ」
そう気づいてからは、
ますます蛭子能収の発言を
弁護したくなったんだ。
原爆の重みは、
人生観を確実に変えるだろう。
そんな彼も、
妻の死のときは、
大いに泣いたと言う。
しかし数ヶ月もたつと、
恋人が欲しくなったとか。
彼は案外、一般人より、
ノーマルかもしれない。
あるいは、
思っていることを、
口に出すか出さないかの違いだけかもしれない。
彼は被爆地出身なので、
思ったままに、
心の中を吐露する思いが、
他の人よりも強いのだろう。
原爆は、チッポケな虚飾や見栄を、
確実に打ち壊す。
俺たちは日々、
実につまんないことで悩んでいることだけは
確かだ。