八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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ミステリーツアー実況中継11

2010-10-31 22:40:00 | ノンジャンル
 稲葉神社 現地説明
 稲葉神社は、因幡の名称のルーツともいえる大切な神社です。はるか昔にここに祀られている稲葉大明神が、そのすぐ近くの古苗代、大苗代というところで、稲作を人々に伝えたことにより、因幡の国中に稲作が広がったようです。苗代という地名は八上では八頭町稲荷に字(あざな)として残っています。また、国府町の酒賀神社の西隣にも楠城(なわしろ)という地名があります。それらは、その地域で初めて苗代農法によって稲作が開始された所として地名が残ったものと思われます。
 みなさん、ところでこの稲葉大明神都はどのような神様でしょうか。私はずばり伊勢神宮外宮の祭神、豊受大神であると推測しています。
 伊勢外宮は、雄略天皇の御代、西暦478年に丹後半島の真名井から現在の伊勢の山田に遷宮したのです。遷宮前のその真名井とはどこなのかをめぐっては色々な説があるのですが、私は京丹後市峰山町にある比沼麻奈為神社であると推測します。この神社のすぐ近くには豊受大神が初めて稲作をされたという場所が残っているのです。それが半月形の月の輪田なのですが、因幡の半月形の形をしていたといわれる古苗代の伝承と共通しています。后さんが古苗代の碑と月の輪田の拡大フリップを並べて披露してくれました。(この稲葉神社で、画期的なことです!!!!!)
 稲葉の地名、国名の由来は実は伊勢外宮の豊受大神のことであったということが言えるのではないでしょうか。皆さん、それでは伊勢神宮へ参拝しましょう。
 そして稲葉神社には大己貴命と八上姫を祀る特別のお社があったようです。今ではすべて稲葉神社本殿に合祀されていますが、稲葉殿も昔は上社と稲葉殿下社に分かれ、上社に大己貴命が、そして稲葉神社の現在の境内と思われますが、下社に八上姫が祀られていたのです。稲葉を代表する神社、しかも、先ほど車中で確認したように稲葉大明神と大己貴命、八上姫を祀る稲葉神社、瀬織津姫を祀る桜谷神社のある面影山、白兎神社、大江神社を通る南北のラインを中心として、そのライン上の神社から引かれる夏至冬至ライン上にさまざまな聖地が稲葉中に広がっていることを確認しました。
 稲葉の名前のルーツだけでなく、稲作のルーツ、そして稲葉の国土開発の起点ともいえる稲葉神社には重要な意義があります。そこに大己貴命と八上姫が祀られているわけですから、大己貴命と八上姫は因幡全体の守護神と言えるでしょう。



車内説明
 さあ、いかがでしたか、ミステリーツアーはまもなく終点の道の駅清流茶屋かわはらへ到着いたします。
そこで、皆さんとご一緒に食事会を催します。またご質問などありましたら、そこで承ります。また、私の本も販売いたしますので、皆さんまだお持ちでない方はぜひこの機会におそろえください。では、道の駅へ到着するまでしばらくごゆっくりお休みください。
    了

ミステリーツアー実況中継10

2010-10-31 22:28:00 | ノンジャンル
 もう一つの伝承地は用瀬町の犬山神社です。ここは八上姫と大己貴命がお住まいになっていたところという伝承が残っています。それと関連して、黒木神社の伝承があり、それは祭神御井神に関する大切なお話です。
 黒木神社と犬山神社にはこのような言い伝えがあります。犬山神社の宮司様からお聞きしました。
 八上姫は安蔵長者の娘として生まれ、この犬山神社に大己貴命としばらくお住まいになったそうです。その後、大己貴命は出雲へ向かうときに酢芹姫を怖れて、売沼神社のある河原町曳田で八上姫と別れます。
  大己貴命と八上姫の間にすでに宿っていた御子神、御井神を河原町高福の黒木神社の地でお産みになり、朽ちた桜の木にできた穴においておかれたそうです。それを見た地元の人々が、これは畏れ多い事として、御子神を大切に育てられたということです。この伝承を信じるなら、八上姫は大己貴命との間に、この八上で一人の御子神をお産みになったということです。では島根県の直江にある御井神社はどうなるのでしょうか。
 実は、八上姫と大己貴命の間には、もう一人の御子神がいて、その神が米子、出雲方面で祀られる神社がいくつかあるのです。http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2010/02/blog-post_05.html

http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-594.html

http://houki.yonago-kodaisi.com/F-Jinja-yonago-B-kamor.html

資料より
 「阿陀萱(あびだ)神社
 古事記(712年)によれば、大国主命は大勢の兄神様と一緒に八上姫へ求婚のため、因幡国への途次、因幡の白兎を助けた縁で結ばれ、出雲の直会(なおえ)で多岐喜姫(当社祭神:阿陀加夜奴志多岐喜比売命(アタガヤヌシタギキヒメノミコト))が生まれ給う、因幡国へ里帰りの途中、多岐喜姫は榎原郷橋本邑(むら)の榎の俣に指を挟まれ、此処にとどまり鎮守神として祭祀された歴史ある古社です。」


 つまり、大己貴命と八上姫は一男一女をもうけていた、長男はおそらく八上で生まれ育って、御井神を祀る神社の多い因幡・但馬を中心に活躍して、丹波や岐阜まで足を延ばしていたのかもしれません。但馬や丹波では御井神は男神として祀られているようです。また阿陀加夜奴志多岐喜比売命(アタガヤヌシタギキヒメノミコト)という名前で祭られることは、出雲、伯耆を除けば全然ありません。
 岐阜県には稲葉という地名があり、そこに御井神を祀る御井神社があります。
 京都の亀岡の御井神を祀る大井神社の伝説には、御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西松尾大社から神使の亀に乗って大堰川を逆上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りかえて、ここ大井に上陸して鎮座されたという伝承が残っているのです。
そして、出雲まで大己貴命とともにむかった八上姫は出雲の直江、三つの井戸のある御井神社で、長女、アダガヤヌシタギキヒメをお産みになり、その後、お二人で稲葉へ帰ることにしたものの、米子の宝石山で、アダガヤ姫の手が榎の木に引っ掛かった事から、アダガヤ姫は出雲・伯耆にとどまることを決意したのだと思います。
 阿陀加夜奴志多岐喜比売命はその後、出雲市周辺を中心に活躍されたことが、分布する神社祭神から推定できますが、そのうちの多伎神社のある島根県出雲市多伎町の砂原遺跡で、昨年約12万年前の中期旧石器時代の地層から、国内最古の石器20点が見つかったようです。かなり古い歴史を持つところです。
 

 またもや新説!!!!!!
 先ほど参拝した大江神社の祭神名には御井神と木俣神が挙げられていますが、おそらくこの神を祀る際には、それぞれ別々の神として祀ったものと思われます。今まで長らく木俣神と御井神は同一の神と思われていたのですが、どうやら別々の神であったことが判明してきたのです。
 つまり、大江神社は4人の八上姫ファミリーがすべて祀られている全国唯一の神社といえるのです。
 これも、今回ミステリーツアーを準備していく過程で新たに判明したことでした。昨年のミステリーツアーのときも事前に調査をして新たに5つのことが判明しました。それは、私が今年出版した「天照大神・瀬織津姫の因幡行幸」にすべて記しています。


 このように因幡各地の大己貴命、八上姫の伝承を確認しましたが、やはり各地にこのような話が断片的であっても伝わっていることから、これらが単なる神話として作り出されたのではなく、本当に大己貴命も八上姫も御井神、そして木俣神も実在していたと考えられます。
 さあ、それではいよいよ最後の訪問先、稲葉神社です。


ミステリーツアー実況中継9

2010-10-31 22:24:00 | ノンジャンル
 酒賀神社~稲葉神社 車内説明の続き 

 イナバノシロウサギの話で長くなりましたが、他に、河原町の多加牟久神社に大己貴命と八上姫の伝承があります。
 この近くに駆け上がり、という地名が残っています。これは、八上姫に結婚相手として選ばれなかった八十神に追われる大己貴命と八上姫が逃れようとして、その道を駆け上がったことからつけられた名前だということです。
 また、後の時代になりますが、武内宿禰が賊の退治のためにこの因幡を訪れたとき、部下の高牟久命が、そこが自分の祖先である大己貴命と縁の深い場所であることを知って、そこに住むようになり、おそらくそこで先祖の大己貴命と八上姫を祀るお社を建てました。多加牟久命が亡くなると、元の祭主であった多加牟久命もともに祀られるようになった、というのがこの神社の由来でしょう。

  

ミステリーツアー実況中継8

2010-10-31 22:20:00 | ノンジャンル
車内説明 酒賀神社~稲葉神社

 ではここで、因幡で、大己貴命伝承の残る他の場所について確認してみましょう。

 まずは、青谷町の血止めが池です。ここは大己貴命が八上姫と逢引していた場所という言い伝えがあります。
 ここで、大己貴命が八上姫を待っていたとき、水辺に足をつけていると、大己貴命の足にサメが噛み付いて、怪我をして出血が止まらなくなります。その血を止めるために、そこの池に足をつけたそうです。
 何やら古事記の神話を思い浮かべてしまいますね。しかし、古事記の神話と違って、この話では、サメにやられるのは白兎ではなく、大己貴命のほうです。
 この近くに大己貴命と八上姫を祀る潮津神社、そしてみなさんご存じの、青谷上寺地遺跡があります。そこはかつての気多郡であり、大己貴命はこの気多という地名をとても大事にしています。というのは大己貴命は、その後、北陸地方へも勢力圏を広げるために出かけているのですが、その北陸にも「気多」という地名をつけているのです。しかも北陸地方の「気多」とは因幡の「気多」が由来ということらしいですので、大己貴命にとってここはとても重要な場所だったということになります。
 因幡の国境近くで、日本海の海を制するためにも内陸の治安を維持するにも重要なところであったので、ここに大きな軍事的拠点を構えたのではないでしょうか。この遺跡で掘り出されたものの中にはサメのような魚の絵が描かれた木製品や古代人の脳みそが残っていた頭蓋骨などが出土しています。今では、のうみそ煎餅も売られていますが。
 また、ふとまに占いに用いられたと思われる卜骨の出土した数が、全国でナンバー1だそうです。ここで、祭政一致の様々な祀りごとが、八上姫と大己貴命によってなされていたのかもしれません。
 次に古事記に伝わる因幡の白兎伝承です。これについては、皆さんもすでにご存知かもしれませんが、2つの候補地があります。一つは、道の駅と白兎神社のある白兎海岸です。ここは浜辺から少し沖合いに、見ようによってはまるで大きな兎のような島があります。これは於岐島と呼ばれています。ちょうどこの島と、海岸の間に、あたかもワニが海面に浮かんでいるかのようにワニの背中のような黒々としてごつごつした感じの岩が飛び飛びに並んでいるのです。
 この光景は、古事記のイナバノシロウサギがワニの背中を渡ろうとするシーンを思い起こさせます。このストーリーはこの地形から生まれたのではないでしょうか。
もう一つは、大己貴命とイナバノシロウサギの出会った場所は、かつての因幡と伯耆の国境付近、先ほど紹介した青谷上寺地遺跡のあるあたりです。これは、石破洋教授が提唱されている説で、古事記の文面を読むと、気多の崎というところで出会ったとあります。崎というからには、海岸線から突き出たところです。そのような場所といえば、先ほど紹介した血止めが池のある長尾鼻がもっとも有力です。
 このように、イナバノシロウサギの舞台は2箇所の候補地があるのです。
 また、オキとははるか日本海を北上した島根県の隠岐の島であって、そこから、イナバノシロウサギが渡ってきた、と見る見方もあります。これはかなりの距離で、多くのサメにならんでもらうには無理がありそうです。兎も体力が続きませんね。石破教授も指摘されていますが、これは作り話、現実にはありえない話です。
 地元に伝わるもう一つのイナバノシロウサギの伝承として、高草の老いたウサギの話があります。昔、老いた一匹のウサギが、竹の中に住んでいたのですが、大雨による洪水で、沖の島まで流されます。ここからは話は古事記の神話とほぼ同じ内容で続いていき、やはり大己貴命に助けてもらいます。
 ワニとは文字通り、ワニをさすのか、サメをさすのかはよくわかりません。

 現実的にありえた、と思えるのは、洪水で、沖合いの島に一羽の兎が流されて、それを見た地元の人が、陸地へ戻してあげた、という話ではないかと思うのです。
 また、白兎が天照大神を伊勢ヶ平まで案内したということが現実に起こったとするならば、因幡と伯耆の国境付近、または白兎海岸で大己貴命を待ち受けて八上姫のいる八上中心部まで案内した、ということもありえます。私も白兎を飼って自宅で放し飼いにしていますが、兎はよく私の足にまとわり付いてくるのです。神の使いであればなおの事、ちゃんと道案内をしてくれたのではないでしょうか。


ミステリーツアー実況中継7

2010-10-31 21:50:00 | ノンジャンル
 酒賀神社手前 車内説明

 
 ところで皆さんは、鳥取県神社庁をご存知でしょうか。県内の神社をお世話されている役所のようなところです。次に訪れる酒賀(すが)神社はその県神社庁の役員をされている方が、宮司をしていらっしゃる神社です。それは、鳥取市国府町のずっと東端、雨滝の少し南にあります。
 八上姫といえば、まず河原町との結びつきが強く感じられます。それは、河原町のシンボルとして地元の人たちや観光客にアピールしてきた賜物です。
 しかし、ここでもう一度因幡で八上姫を祀る神社を確認してみましょう。
まず、かつての八上といわれた地域の中では、先ほど訪れた賣沼神社、そして大江神社ですね。都波只知上神社はかつての八上の総社である石が坪神社を合祀したところでした。
 ではその他はと言えば、鳥取市国府町の酒賀神社、鳥取市立川の稲葉神社、岩美町岩井の御湯神社、そして、昔の伯耆との国境付近、八上姫と大己貴命伝承が伝わる青谷町の潮津神社です。こうしてみると、八上姫を祀る神社は、昔の八上だけに祀られているのではなく、因幡全土に広がっていることがわかります。酒賀神社は因幡と但馬の国境の山にあります。御湯神社も蒲生峠の近くですから、同じく因幡と但馬の国境付近といえます。そして青谷町の潮津神社も因幡と伯耆の国境付近に鎮座しています。
稲葉神社は、国境付近ではありませんが、因幡の地名の由来と大きく関わる因幡を代表する神社です。

 酒賀神社到着 ここではこの酒賀神社の50代目の宮司にあたる長尾宮司様に詳しい御案内を頂戴しましょう。
  
 長尾宮司様のお話は、まず神社参拝に作法にはじまりました。そういえば、私も最近作法がぞんざいになっていたと、はたと気付かされました。
また、神様に捧げる神饌について、米、水、塩、米から作られた餅、米から作られた酒、魚、卵、季節の野菜、、果物で、これらは古くから日本で定められたもので、これを基準に食していれば、人は120歳くらいまで生きることができるようになっている、今は洋食で寿命を縮めている、というお話もあり、私も心の中で、小躍りしていました。ビールよりも米からできた酒のほうが断然良い、とも。確かにそうです。
神を数えるときにどうして柱と呼ぶのか、についてのお考えも興味深いものでした。神とは何か、それは私たちの祖先であり、祖先たちのおかげで現在の私たちがいる。
 一人の人に親は二人、そのまたそれぞれの親の数は2倍、、そのまた親もすべて足していけば、その計算でいくと10代もすれば、単純計算で2千人を越えることになる。だからみんな共通の先祖を持っている。 どの先祖さんも存在しなかったら、奇跡的に生まれてきたあなた方は、この世に存在しないことになる。だから先祖を大切にすることは大事なことです。
 続いて、酒賀神社がその郷の一宮であること、かつては地元のすべての酒造会社が酒賀神社に奉納していたこと、大己貴命の大きな袋の中身についての推定、本殿の構造や装飾、酒賀神社の名前の変遷と祭神の関係、歴史やその理由、祭祀されている祭神の本殿内陣の配列の状況、なぜ、この場所が神社の位置として選定されたか、その理由についての不思議なお話などが紹介されました。
 また、酒賀神社のおかげのこもったお米を参加者全員が頂戴しました。

 最後に、これは個人的に長尾宮司様から、となりの御井神を祀る大石の集落にも胞衣荒神があることを教えていただきました。(また大石に行かねば。)

 現在新版の『鳥取県神社誌』の編纂で日々忙しくされていること、もお聞きしました。