武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

まず、個人が幸福であれ

2024年03月07日 14時21分26秒 | 思想・哲学・宗教

<2002年5月に書いた以下の文を復刻します。>

1) 幸福のとらえ方は、個人によって様々な違いがある。 しかし、人間が幸福であると思う(感じる)心境はそれほど違わない。 人間は幸福を追い求めてきたし、現に追い求めているだろう。そして、幸福であるか否かということが、人間にとって最大の命題であることに変わりはないと思う。
ところが、この幸福を論じることが、往々にして軽視されているきらいがある。 幸福というものが、卑近で浅はかなものに矮小化されてきた傾向があるのではないか。 もしそうなら、それこそ不幸なことである。
人間が幸福である時、その人はおおむね他人に対して寛容であり、優しく思いやりのある態度を取ることができるだろう。 幸福であれば、おのずと機嫌が良くなり、笑いも多くなり、善意で他人に接することにもなる。 逆に不幸であると、そうはいかない。不機嫌になって他人に冷たく当たったり、敵意を抱いたり、ジェラシーを感じたりすることが多い。
ということは、幸福であるか否かということが、倫理的、人道的に最も重要な問題だということである。 しかし、現代においては、この幸福について本当に真剣に考察し、幸福を本当に我が物にしようと考えているのかと、疑いたくなってくる。

2) 古来、あらゆる哲学(思想)、あらゆる宗教は、この幸福を主題にしてきたと思う。「幸福論」がテーマであったはずだ。 人間が救われるかどうか、人間が幸せになれるかどうか、ということが最大のテーマであったはずだ。 ところが今や、「幸福論」などと真面目に言っても、冷笑されてどこかへ消えてしまうような感じさえする。 このこと自体が、不幸な現象と思わざるをえない。
人間は幸福でなければならない。 また幸福であろうとして、社会的にもあらゆる制度改革、革命が行われてきた。幸福であるということは、倫理的、人道的な面からだけでなく、社会的にも最も重要な問題なのである。 日本国憲法でも第13条で、「幸福追求の国民の権利」を最大限に尊重する必要があるとしている。
幸福ということは、生命と自由と並ぶ最も重要な個人の権利なのである。 ところが、生命と自由が極めて一般的、普遍的なものであるのに対して、幸福というものは余りに個人的な要素が大きいために、“なおざり”にされているきらいがある。 国家は、個々人の幸福のあり方にまで立ち至ることはできない。 従って、個々人は自分自身で幸福を考えていかなければならないのだ。

3) 卑近な例で言えば、金を稼ぐことも立身出世をすることも良い。 美しい女性と愛し合うことも、スポーツや音楽、ゲームを楽しむことも良い。個人の幸福観はさまざまである。 幸福であることは個人の権利である。 正当な手段で幸福を追求することは、なんら恥ずべきことではないのである。
幸福であるということは、個人の権利というだけでなく、むしろ義務だと言ってもよいのではないか。 個人の幸福は他人(社会)との関係で、最も重要な要素となるからである。 人間が不幸であれば、他人(社会)との関係は決して上手くいかないだろう。 必ずそこに軋轢(あつれき)を生じるようになるだろう。従って人間は、社会的な面からも幸福でなければならないのだ。
問題は、人間がどのようにして幸福になれるかということだ。これは大変難しい問題である。 これには一般的な正解などというものはない。なぜなら、幸福観には個人的な格差があり過ぎるからである。
しかし、人間は幸福でなければならない。 それを個々人が真剣に考え、追究しなければならない。「なんだ、幸福論か・・・」と馬鹿にしてはいけない。 個人的にも社会的にも、幸福であることは人間にとって最大の命題なのだから。

三木 清

4) 最近、私は戦前の著名な哲学者・三木清の「人生論ノート」(新潮文庫)を少し読んだことがある。 その中で最も感銘を受けたのは“幸福について”という小論であった。 余りに素晴らしい著作なので、いくつか紹介しながら「幸福」について考えてみたい。
三木清はその中で「近年現われた倫理学書で・・只の一箇所も幸福の問題を取扱っていない書物を発見することは・・甚だ容易であろう」と述べた上で、「疑いなく確かなことは、過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であった」と指摘している。
そして「現代における倫理の混乱は種々に論じられているが、倫理の本から幸福論が喪失したということはこの混乱を代表する事実である」と述べ、「幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内実において虚無主義にほかならぬ」としている。
さらに三木は「幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である」と述べ、具体的な例として「愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである」として、“幸福は力”であり“幸福は人格である”と力説している。

5) 三木は「幸福になるということは人格になるということだ」と述べているが、私はこの言葉こそ真実だと思う。 なぜ現代人は幸福を軽視するのか? 「今日ひとが幸福について考えないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相応している」と三木は言う。
現代は、価値観の恐るべき多様性によって、幸福を見失っているようである。 幸福を真面目に考えようとせず、幸福とは刹那的、享楽的なものとしか見ようとしないのではないか。 もしそうであるなら、とんでもない話だ。
三木清の著作にもあるように、ギリシャの時代から倫理学も哲学も、また仏教もキリスト教も、人間の幸福を原点に見据えて成り立ってきたのである。 また、あらゆる革命、あらゆる制度改革は人類の幸福を求めて起こされてきたのである。
現代の価値観の多様性は、皮肉にも幸福の拡大ではなく、その混迷を呼び起こしているのではないか。 正にそのために幸福を矮小化し、劣等なものと軽視しているのではないか。もしそうであるなら、これほど不幸なことはない。
幸福は徳であり、力である。 私は別稿の「金太郎アメ」の中で、「足りるを知る」ことが幸福の原点だと述べたことがある。 これも幸福論の一つであろうが、人間として生まれてきた以上、我々は何が幸福なのかということを、今こそ真剣に考え追究しなければならない。 もしそうでなければ、幸福とは単に刹那的、享楽的なものに終わってしまうだろう。 (2002年5月22日)


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2 コメント

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Unknown (おキヨ)
2020-06-25 13:29:45
幸福論は難しいですね。
端的に言って、その日によって自分が幸福であるかどうかが違うし、時間によっても違う場合があります。つまり幸福感は考え方に左右されると思うのです。ですからゆるぎない幸福感を得るためにはある程度の知力が必要でそこから物事を判断しないとそれは浅薄なものになると考えます。
しかし、浅薄であれ何であれ、個人が絶対的な幸福感があればそれはそれでいいのではと思ったりします。
幸福感も不幸感もピンからキリがありますね。
幸福論 (矢嶋武弘)
2020-06-26 14:25:39
ずいぶん理屈っぽく書きましたが、要は幸福と感じることが大切なのでしょう。
三木清の「幸福は徳であり、力である」という説に今でも賛成です。
ある人が言っていましたが、「幸福な人はみんな同じように見えるが、不幸な人はそれぞれ“理由”が違うようだ」と。
この見方にも賛成です。
幸福になると、みんな一様に徳や力が湧いてくるのでしょうか。

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