それにしてもあの闘牛というのはスポーツなのだろうか。宇和島や沖縄で行われている牛同士の相撲ならスポーツだ。しかしスペインなどの闘牛は単なるショーではないか。闘牛士が負けることはない(と言うか、ドンクサイ闘牛士がやられそうになると助けが入る)。必ず牛は殺される。闘牛士も牛と「闘う」と言うなら、剣など持つな。牛の方は丸腰なんだから。しかしもっと分からないのは、観客だ。自分はなんのリスクも負わずに、結末の分かっている「勝負」を何のために金を払って見物するのか。それなら大晦日の曙のK-1の試合の方がましだろう。
牛の虐殺をサカナに喜んでビールなどあおっている愚かな観客に、一矢を報いた勇気ある牛の物語がメキシコから届いた。<メキシコ市の闘牛場「プラサ・メヒコ」で29日、牛が柵を乗り越えて観客席に乱入し、観客7人が骨折などのけがをする騒ぎがあった。 >(共同通信1月31日)。もちろん闘牛場の柵は牛が飛び越えない高さに設定されているので、まさしく想定外のことが起こったということだ(上の写真)。牛は観客席にやってきた闘牛士に殺された。
この牛は"Pajaritos"(小鳥)と可愛い名前がつけられていた(でも体重530kgもあった)ことから推測すると、大人しい人なつこい性格だったのだろう。しかし自分をなぶり者にして喜ぶ観客にキレて、馬術競技の馬のようにひらりと柵を飛び越えて観客席に死の抗議をした。「牛生」の最後の最後に彼が見せた「超牛」的なワザこそ、彼の矜持であり人間への警告だったのだ。
ラテン系の民族の間では闘牛は人気の「スポーツ」だ。このメキシコの闘牛場も四万八千人収容というから、甲子園球場くらいだ。しかし国によって若干作法は異なっていて、例えばポルトガル人に言わせると「スペイン人って残酷だね。闘牛場で牛殺すんだから」。ポルトガルでは殺戮は禁止。でも闘牛場で剣(槍というのか)を牛に刺すところは同じ。「競技」後、結局牛は殺されるのだから、ポルトガル人の「人道的」な声もあまり信用できない。
闘牛は野蛮だねというと、すぐに訳知り顔の文化人の先生が登場して、「よその国の風習を簡単に決めつけてはいけない」とお説教される。しかし実は最近はスペインでも世論調査をやると闘牛に反対する人の方が多数派だという。実際、2004年にバルセロナ市は「闘牛反対」を市議会で決議している。
スペインで闘牛で殺される牛の数は年間3万頭という(「練習用」の殺戮を含む)。殺された牛はどうなるのか。闘牛で”元気さ”を証明した後、保健省の監督のもとに解体されて牛肉になるというから、いわば二重の「全頭検査」だ。アメリカ農務省も少しは見習うがいい。スペインにはこの闘牛での犠牲牛だけを食わせるレストランがあるという。闘牛で目を楽しませ、今度は舌で味わう、まさに「一頭で二度おいしい」ということだ。
◆イラクで「闘牛士作戦」を実施
フライドチキンになるニワトリの殺戮さえ反対する動きが拡がって、またしてもカーネルおじさんが道頓堀川に投げ捨てられるという危機が迫っている。。闘牛さえ残酷と感じ始めたこの時世に、人間の殺戮を「闘牛」と称して楽しんでいる集団があるのはご存じだろうか。
昨年の5月のことだ。「非戦闘地域」イラクで先頭に立って戦闘を行っている米軍は自ら"Operation Matador"と名付けた作戦を展開した。Matadorというのはスペイン語で闘牛士。「闘牛士」は米軍だ。確かに立派な衣装立派な「剣」を持っている。「牛」は?米軍によるとシリア国境にいる"insurgents"(日本の報道では「武装勢力」と訳されている)だ。
その「作戦」の”戦果”はCNNのMay 14, 2005記事によると、125人の「武装勢力」(つまり「牛」ですね)を殺戮し、「闘牛士」の海兵隊9人が亡くなったという。これまでのアメリカの作戦の様子から判断すると、「牛」の125人の大半は無辜の市民(つまり女性や子供)であったと断言してよい。あの闘牛好きのスペイン人さえ、「ついていけんわ」とイラクから兵隊を引いたわけが分かるだろう。
事情通の人なら完全に「想定内」だが、アメリカ政府の言うことを鵜呑みにしている今や少数派のお人好しアメリカ人や、”ポチ”と呼ばれる某国の首相なら仰天する報道が最新のNewsweekに掲載された。米当局者が、スンニ派のイラク武装勢力の指導部と直接交渉したというのである。多数派のシーア派が強くなりすぎては、イランの影響力が強くなって米国には好ましくないからという。
しかしスンニ派武装勢力と言うと、「闘牛士作戦」の「牛」役ですよ。「敵の敵は味方」といういつもながらのアメリカのご都合主義とは言え、これでは亡くなった「闘牛士」も浮かばれまい。
「牛」を見くびってはならない。いつあのメキシコの「小鳥ちゃん」のように思いがけない報復をするとは限らないのだから。日本人だって、いつまでも安全な「観客」ではいられないはずだ。
牛の虐殺をサカナに喜んでビールなどあおっている愚かな観客に、一矢を報いた勇気ある牛の物語がメキシコから届いた。<メキシコ市の闘牛場「プラサ・メヒコ」で29日、牛が柵を乗り越えて観客席に乱入し、観客7人が骨折などのけがをする騒ぎがあった。 >(共同通信1月31日)。もちろん闘牛場の柵は牛が飛び越えない高さに設定されているので、まさしく想定外のことが起こったということだ(上の写真)。牛は観客席にやってきた闘牛士に殺された。
この牛は"Pajaritos"(小鳥)と可愛い名前がつけられていた(でも体重530kgもあった)ことから推測すると、大人しい人なつこい性格だったのだろう。しかし自分をなぶり者にして喜ぶ観客にキレて、馬術競技の馬のようにひらりと柵を飛び越えて観客席に死の抗議をした。「牛生」の最後の最後に彼が見せた「超牛」的なワザこそ、彼の矜持であり人間への警告だったのだ。
ラテン系の民族の間では闘牛は人気の「スポーツ」だ。このメキシコの闘牛場も四万八千人収容というから、甲子園球場くらいだ。しかし国によって若干作法は異なっていて、例えばポルトガル人に言わせると「スペイン人って残酷だね。闘牛場で牛殺すんだから」。ポルトガルでは殺戮は禁止。でも闘牛場で剣(槍というのか)を牛に刺すところは同じ。「競技」後、結局牛は殺されるのだから、ポルトガル人の「人道的」な声もあまり信用できない。
闘牛は野蛮だねというと、すぐに訳知り顔の文化人の先生が登場して、「よその国の風習を簡単に決めつけてはいけない」とお説教される。しかし実は最近はスペインでも世論調査をやると闘牛に反対する人の方が多数派だという。実際、2004年にバルセロナ市は「闘牛反対」を市議会で決議している。
スペインで闘牛で殺される牛の数は年間3万頭という(「練習用」の殺戮を含む)。殺された牛はどうなるのか。闘牛で”元気さ”を証明した後、保健省の監督のもとに解体されて牛肉になるというから、いわば二重の「全頭検査」だ。アメリカ農務省も少しは見習うがいい。スペインにはこの闘牛での犠牲牛だけを食わせるレストランがあるという。闘牛で目を楽しませ、今度は舌で味わう、まさに「一頭で二度おいしい」ということだ。
◆イラクで「闘牛士作戦」を実施
フライドチキンになるニワトリの殺戮さえ反対する動きが拡がって、またしてもカーネルおじさんが道頓堀川に投げ捨てられるという危機が迫っている。。闘牛さえ残酷と感じ始めたこの時世に、人間の殺戮を「闘牛」と称して楽しんでいる集団があるのはご存じだろうか。
昨年の5月のことだ。「非戦闘地域」イラクで先頭に立って戦闘を行っている米軍は自ら"Operation Matador"と名付けた作戦を展開した。Matadorというのはスペイン語で闘牛士。「闘牛士」は米軍だ。確かに立派な衣装立派な「剣」を持っている。「牛」は?米軍によるとシリア国境にいる"insurgents"(日本の報道では「武装勢力」と訳されている)だ。
その「作戦」の”戦果”はCNNのMay 14, 2005記事によると、125人の「武装勢力」(つまり「牛」ですね)を殺戮し、「闘牛士」の海兵隊9人が亡くなったという。これまでのアメリカの作戦の様子から判断すると、「牛」の125人の大半は無辜の市民(つまり女性や子供)であったと断言してよい。あの闘牛好きのスペイン人さえ、「ついていけんわ」とイラクから兵隊を引いたわけが分かるだろう。
事情通の人なら完全に「想定内」だが、アメリカ政府の言うことを鵜呑みにしている今や少数派のお人好しアメリカ人や、”ポチ”と呼ばれる某国の首相なら仰天する報道が最新のNewsweekに掲載された。米当局者が、スンニ派のイラク武装勢力の指導部と直接交渉したというのである。多数派のシーア派が強くなりすぎては、イランの影響力が強くなって米国には好ましくないからという。
しかしスンニ派武装勢力と言うと、「闘牛士作戦」の「牛」役ですよ。「敵の敵は味方」といういつもながらのアメリカのご都合主義とは言え、これでは亡くなった「闘牛士」も浮かばれまい。
「牛」を見くびってはならない。いつあのメキシコの「小鳥ちゃん」のように思いがけない報復をするとは限らないのだから。日本人だって、いつまでも安全な「観客」ではいられないはずだ。