フランス人観察記録

日本人から見て解ってきたフランス人の考え方、行動についての覚書

アルザスの3人組

2011年05月24日 | アルザス

彼らとはアヴィニョン近くのシャンブルドットで初めて出会った。
ムッシュとマダムと、ご主人のお母さんの3人連れだった。

勿論車で来ていて、昼間は自由に出かけるし、夕食は外食してから宿に帰って来る。
朝食はいつも一緒になる。

アルルに行くためシャンブルドットのムシュに車で送ってもらい、ゴッホがいた精神
病院に行く途中でこの3人とすれ違った。お互いにっこり挨拶したがうれしい気分にな
った。

アルル市街の古代劇場跡などを見物し、ゴッホの有名な「跳ね橋」を尋ね郊外に行ったのち、電話をかけて迎えに来てもらった。

なお我々の学校の美術の教科書に出てきたこのゴッホの描いた「跳ね橋」のことは、シャンブルドットのムッシュも、この3人連れも知らなかった。
これは意外だった。
また現在の「跳ね橋」はオリジナルではなく、新しく作ったもので、ゴッホの描いた場所から少し離れているようだ。

日本人だけが見に行く場所になっているようで、現に私が「跳ね橋」に着いた時、バスで日本人が見物にぞろぞろやってきて、写真をパチリパチリと撮ったのち、あっとい間に引き上げて行った。

さてアルルまで迎えに来てくれたのはマダムの方だった。帰る途中とある修道院がよいと言うので、そこで降ろしてもらった。

この修道院から帰りかけると、また例の3人連れと入れ違いみたいにすれ違った。
2回目だから、「やあやあ」というわけである。

レ・ボーを見ることにして、また車から降ろしてもらった。昔、難攻不落の城塞だったそうだが、今は廃墟となっている。遠い昔は海だったのか岩石に貝殻が混じっているのが不思議だった。
それをみて駐車場に戻るとき、また3人連れとすれ違った。
当日これで3度目である。おばあさんは大喜びだった。

シャンブルドットに戻り庭で夕食をしていると、3人連れが戻ってきた。
「4度目だね。」と彼らが笑った。
ちょうどデザートになっていたので分け合って、ワインも飲んで話をした。

彼らはアルザスからやってきたという。
おばあさんはこの時80歳近くだったはずだか、どうしてどうしてなかなかしっかりしていて、シャンブルドットのムッシュと政治の議論をしていた。
おばあさんが腕組みをして、胸を張って堂々とムッシュと対等に話す姿は、政治好きのフランス人そのものだった。

あくる日朝彼らと朝食をともにし、出発する彼らと別れることになったが、それまで控えめだった奥さんが、ご主人にアドレスの交換をするように促した。
おかげで私は帰国後も、彼らとメールの交換を続けることになった。

最後に別れる前の5分間ほど、おばあさんは私に盛んに話しかけた。まるで私が日本人であることを忘れたかのように普通にどんどん話すのである。
しかし何を言っているのか、さっぱり分からない。

仕方がないのでウイウイと合わせ、おばさんが笑えばこちらも笑い、ふんふんと聞い
た。
最後の最後まで、おばあさんは私が全く内容がわかっていないことに気づくことなく車中の人となり、手を振りながら去って行った。

人柄の良さは3人共通していたが、おばあさんは一番心に残った。


そしてやがて私は彼らの誘いを受けて、次回渡仏の時にアルザスの彼らの家に行くことになる。
行ってみて、想像していたことと実際は大きく違うことが二つあった。

その一つは、私は彼らはてっきり農家だと思い込んでいた。送られてきた写真の家も大きく、「アルザス」という語感もその想像を後押ししていたようだ。
さらに告白すれば、実は奥さんの体格が大変良かったことが最大の原因であった。

しかし実際に行ってみると、農家ではなくご主人はエンジニアであり、奥さんはパリのIBMのプログラマーだったとのことではないか。
人はみかけによらないというか、外見で判断してはいけないという典型だった。

二つ目に想像と違っていたのは、私はてっきり3人同居していると思い込んでいたが、おばあさんは車で1時間以上走ったところのある町のアパルトマン一人で暮らしていた。

先に亡くなったおじいさんの、想い出の詰まった家を離れる気にはならないとのことであった。

2世代同居はフランスではまだ見たことがない。ましてや3世代同居をやである。
しかしながら、決して親子の絆が弱いということではない。


このアルザスの3人組を思い出すたびそれを強く感じ、胸が温かくなるのである。
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そして、この二年後、アルザスを訪ねることになる。



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