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一般社団法人山口県バスケットボール協会公式ブログ

故和佐本生男氏 追悼文

2016-12-27 22:07:16 | 読み物
(一社)山口県バスケットボール協会顧問の和佐本生男氏が11月に逝去されました。
佐浦益子氏の追悼文を掲載します。

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「故 和佐本生男先生を偲んで」 佐浦益子

去る11月17日、和佐本生男先生(享年94歳)のご葬儀に参列させていただきました。和佐本家の後継者である甥ご家族に見送られ、晩秋の静かなお別れとなりました。
ことし2月、法子夫人の七回忌法要を済まされたばかりで、寂しい7年余りだったと思うと胸が痛みます。今でも忘れられない一言があります。法子夫人のご葬儀のとき、「僕は独りになってしまった。時々遊びに来てほしい・・・」と。
折をみて、お声をかけにお伺いをしておりましたが、何時伺ってもダンディな和佐本先生でした。きちんとした身だしなみは、男性の独り暮らしの優等生。将に、九州男児を地でいくお姿でした。
亡き法子夫人の伝授か、朝食には「イリコだし」からはじまる特製の味噌汁を作っておられ、和佐本流の健康食メニューのようでした。このところ歯を弱くしておられ、お届けの一品は、おぼろトーフ、いちごなど季節の品々でした。

和佐本先生と私のご縁は、高校2年(S29年4月)のとき、福岡県の県立八幡中央高校から熊毛南高校へのご着任からはじまりました。前任校を九州大会優勝に導かれた若さいっぱいの先生でした。熊毛南高校も県新人大会で大津高校との激戦の末何とか優勝チームとなり有能な指導者を待っていたところでしたので、和佐本先生をお迎えしたことを、部員のひとりとしてとてもよろこびました。
九州でご長男を亡くされ、ご次男とともに祖母方の関係で山口県への転居と伺いました。心機一転の和佐本先生とバスケットボールの指導者を求めていた私共部員は、S29秋田インターハイへ出場となり、思い出多い高校生活でした。
当時日本公認審判は、水島哲夫先生(大津高)とお二人だけでした。県外大会では、帯同審判を受けられ、先生の審判姿はいつもチームの誇りでした。
先生は運動能力が高く、教員大会・陸上競技(走り高跳び)でも、ものすごい身体バネを発揮し、軽々1位の方でした。
私の進学先についても心に残るアドバイスをいただきました。高校時代の師とのご縁が後々の進路の決定づけたわけです。教職に就いてからも何かとご指導を求めることがありました。

先生は、チームの指導のみならず、県全体のバスケット振興にもご尽力なさり、その功績は語り尽くせません。高体連専門委員長(S40~48)のほか、県協会の常任理事(S29~50)、顧問(S50~)も長らくつとめられ、ご多忙の日々が続きました。

顧みれば、優秀だった息子さんの急逝により思いもかけないご家族の離別という悲しみに必死に耐えながらの生活だったことと思いますが、退職後は法子夫人と自然に恵まれた静かなたたずまいのご自宅でお過ごしでした。
一方、地元のミニバスケットボールのヘッドコーチも引き受けられ、次代の少年団教育に尽力されておりました。ご会葬のときには、当時のスタッフの方々がご活躍をたたえておられました。大切な書籍箱の中に全関西ミニバスケ大会のフォトブックが入れてあり、若い子供たちとの縁を懐かしく思い出しておられたのかも知れません。
二人の娘もバスケ部員としてご指導いただき、先生とは本当にご縁の深い我が家です。

94歳とは思えないかくしゃくとしたお姿で、NBAのテレビ観戦など一日のスケジュールに入っておられたようです。
今頃は、奥様との7年ぶりの再会を喜び、息子さんと抱き合っておられることと思うことに決めました。
心からご冥福をお祈りいたします。
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