2月22日以来の更新です。2週間ぶりの復活です。
ハイ、ご想像の通り、2月24日~3月4日まで、レバノンでの調査に行って参りました。
レバノン共和国Tyreの都市遺跡、アルバスサイト、シテイーサイト、そして墓域ラマリサイトの測量のための基礎調査に出かけておりました。今回は測量の専門家も交え6人の体制で出かけました。毎日がとても充実していたのと、現地のネット事情が今一つだったためにレポートを送ることが出来ませんでした。そこでこれからしばらく断続的にアップしていきます。
残念だったのは新雨男!の出現によって、大事な行程の大半が雨に祟られてしまったために目的のかなりの部分が不十分に終わったことです。
誰だ新雨男とは?
済みません私です。
土砂降りのバールベックで執念の写真撮影を続ける橋本さん!!さすがの彼も諦めた大雨。
皆さんの指摘によると去年からだ!!といわれました。本人は全く自覚がないのですが、実は去年もある世界遺産の見学を予定したのに、大雪で道路が閉鎖され行けなかったというのである。そう言えば今回も訪ねたフェニキア時代以来の古跡Byblosは昨年も今年も大雨で十分に見ることができなかった。
新ではなく、私はれっきとした
真の雨男
だったのである。
その真の雨男の10日間の軌跡をこれからしばらく紹介することにする。ただし、帰国早々溜まりに溜まった原稿の催促が何本も飛んできたのでこれまた途切れ途切れのレポートになることをお許し頂きたい。
レポ-トン第1回は虐殺の村です。
ラマリサイトの発掘現場。
帰国前日の3月2日、私たちは午前中ラマリ遺跡での発掘調査に参加し、どんどん広がり全く新しい型式になっていくらしい2世紀前後の墓の全容解明にあたった。とはいっても私は単なる一輪車の土運びにあたっただけで、陣頭指揮を執ったのは私のたくましい後輩辻村純代さんであった。その詳細はいずれ担当者から公表されることだろうが、Tyreの歴史に新しい1ページが加わったことだけは間違いなかろう。公表が楽しみ!!
ラマリサイトからシテイーサイト方向を見る。
十字軍が築いた城塞
久しぶりの土方にへろへろになった私はその午後予定通り、Tyre南方の丘の上にある十字軍(クルセダー)の築いた城塞(Tibnine城)を見学に行った。レバノン南部が全貌出来るその遺跡は、悲しいかなイズラエル国境に近く、常に攻撃の矢面に立たされてきたらしい。特に近年行われた空爆は全く卑劣なもので、レバノン人の歴史的証人であるこの城塞を徹底的に破壊したのである。
橋本さんがこのトゲの犠牲に。3日経っても痛みが引かなかったと言うから恐ろしい。それにしてもレバノンにはサボテンがあるんだ!びっくり。ついでに言うとサソリもいるし、バナナも栽培されているから一般的には日本より少し温かいらしい。ただし私が行ったために雨で寒かった!!
かつて明治政府は大名の象徴である城の破却を命じ、太平洋戦争に於いてアメリカ軍は日本人の志気を断つため、その象徴とも言える各地の名城を集中的に攻撃した。戦争が考古学や歴史学の敵である典型的事実である。イスラエルの目的が戦果とは無関係な爆撃を行うことで、レバノン人の志気を萎えさせようとしたのだろうことは想像に難くない。つい数年前、イスラム原理主義のタリバーンがバーミヤンの石像を破壊したのも同様の目的であろう。宗教戦争のより悲惨な側面である。
イスラエル国境がこの山の頂だ。
そんな遺跡を見た後訪れたのは国連軍が全面展開する国境に近い南部の町であった。1972年以来常にイスラエルの侵攻に晒されてきたこの地域には数え切れないくらいの虐殺の歴史が眠っていた。子供が、婦人が、老人が避難していた家屋は集中的に爆撃された。イスラエルに対する恐怖心を植え付けるための爆撃であろう。かつての日本軍がそうであったように、戦争は人間から良心のかけらも奪ってしまう。
悲しい、悲しい、虐殺記念碑。この直ぐ横に既に「記念博物館」の建物は建っていた。
そんな村には悲しい記念碑が建てられている。来年6月には「記念博物館」がオープンするという。攻撃したイスラエルの大半を構成するユダヤの人々はかつてヒットラーによるアウシュビッツの虐殺を経験した。しかし、その人々がパレスチナで、同じ虐殺を繰り返している。爆撃された家屋はそのまま残されていた。そしてそれを見学した私たちに老人が悲しい写真を手にして語りかけてきた。
百余人の子供達や女性、老人が犠牲になった家屋跡。
何人もの子どもたちの遺体、血まみれの婦人の姿。いつもいつも戦争の犠牲になるのはこういう人達である。私たち歴史学こそが人類の戦争の虚しさをもっともっと伝えていかなければならないことを実感した日であった。
レバノンへ調査にいくことの意味は何か?
戦争が豊かな国をいかに蝕んできたかを明示することだと改めて思った瞬間であった。これからしばらく、かつて決して豊かな国土ではないこの地にあって、交易という手段でもって、豊かで内容の濃い文化を維持してきたこの地の人々の残したものを少ずづつお伝えしていこうと思う。
フェニキア、ローマ、ビザンチン、十字軍どの時代の遺跡も豊かな当地の歴史を伝えてくれる。一度訪れてみよう!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
ハイ、ご想像の通り、2月24日~3月4日まで、レバノンでの調査に行って参りました。
レバノン共和国Tyreの都市遺跡、アルバスサイト、シテイーサイト、そして墓域ラマリサイトの測量のための基礎調査に出かけておりました。今回は測量の専門家も交え6人の体制で出かけました。毎日がとても充実していたのと、現地のネット事情が今一つだったためにレポートを送ることが出来ませんでした。そこでこれからしばらく断続的にアップしていきます。
残念だったのは新雨男!の出現によって、大事な行程の大半が雨に祟られてしまったために目的のかなりの部分が不十分に終わったことです。
誰だ新雨男とは?
済みません私です。
土砂降りのバールベックで執念の写真撮影を続ける橋本さん!!さすがの彼も諦めた大雨。
皆さんの指摘によると去年からだ!!といわれました。本人は全く自覚がないのですが、実は去年もある世界遺産の見学を予定したのに、大雪で道路が閉鎖され行けなかったというのである。そう言えば今回も訪ねたフェニキア時代以来の古跡Byblosは昨年も今年も大雨で十分に見ることができなかった。
新ではなく、私はれっきとした
真の雨男
だったのである。
その真の雨男の10日間の軌跡をこれからしばらく紹介することにする。ただし、帰国早々溜まりに溜まった原稿の催促が何本も飛んできたのでこれまた途切れ途切れのレポートになることをお許し頂きたい。
レポ-トン第1回は虐殺の村です。
ラマリサイトの発掘現場。
帰国前日の3月2日、私たちは午前中ラマリ遺跡での発掘調査に参加し、どんどん広がり全く新しい型式になっていくらしい2世紀前後の墓の全容解明にあたった。とはいっても私は単なる一輪車の土運びにあたっただけで、陣頭指揮を執ったのは私のたくましい後輩辻村純代さんであった。その詳細はいずれ担当者から公表されることだろうが、Tyreの歴史に新しい1ページが加わったことだけは間違いなかろう。公表が楽しみ!!
ラマリサイトからシテイーサイト方向を見る。
十字軍が築いた城塞
久しぶりの土方にへろへろになった私はその午後予定通り、Tyre南方の丘の上にある十字軍(クルセダー)の築いた城塞(Tibnine城)を見学に行った。レバノン南部が全貌出来るその遺跡は、悲しいかなイズラエル国境に近く、常に攻撃の矢面に立たされてきたらしい。特に近年行われた空爆は全く卑劣なもので、レバノン人の歴史的証人であるこの城塞を徹底的に破壊したのである。
橋本さんがこのトゲの犠牲に。3日経っても痛みが引かなかったと言うから恐ろしい。それにしてもレバノンにはサボテンがあるんだ!びっくり。ついでに言うとサソリもいるし、バナナも栽培されているから一般的には日本より少し温かいらしい。ただし私が行ったために雨で寒かった!!
かつて明治政府は大名の象徴である城の破却を命じ、太平洋戦争に於いてアメリカ軍は日本人の志気を断つため、その象徴とも言える各地の名城を集中的に攻撃した。戦争が考古学や歴史学の敵である典型的事実である。イスラエルの目的が戦果とは無関係な爆撃を行うことで、レバノン人の志気を萎えさせようとしたのだろうことは想像に難くない。つい数年前、イスラム原理主義のタリバーンがバーミヤンの石像を破壊したのも同様の目的であろう。宗教戦争のより悲惨な側面である。
イスラエル国境がこの山の頂だ。
そんな遺跡を見た後訪れたのは国連軍が全面展開する国境に近い南部の町であった。1972年以来常にイスラエルの侵攻に晒されてきたこの地域には数え切れないくらいの虐殺の歴史が眠っていた。子供が、婦人が、老人が避難していた家屋は集中的に爆撃された。イスラエルに対する恐怖心を植え付けるための爆撃であろう。かつての日本軍がそうであったように、戦争は人間から良心のかけらも奪ってしまう。
悲しい、悲しい、虐殺記念碑。この直ぐ横に既に「記念博物館」の建物は建っていた。
そんな村には悲しい記念碑が建てられている。来年6月には「記念博物館」がオープンするという。攻撃したイスラエルの大半を構成するユダヤの人々はかつてヒットラーによるアウシュビッツの虐殺を経験した。しかし、その人々がパレスチナで、同じ虐殺を繰り返している。爆撃された家屋はそのまま残されていた。そしてそれを見学した私たちに老人が悲しい写真を手にして語りかけてきた。
百余人の子供達や女性、老人が犠牲になった家屋跡。
何人もの子どもたちの遺体、血まみれの婦人の姿。いつもいつも戦争の犠牲になるのはこういう人達である。私たち歴史学こそが人類の戦争の虚しさをもっともっと伝えていかなければならないことを実感した日であった。
レバノンへ調査にいくことの意味は何か?
戦争が豊かな国をいかに蝕んできたかを明示することだと改めて思った瞬間であった。これからしばらく、かつて決して豊かな国土ではないこの地にあって、交易という手段でもって、豊かで内容の濃い文化を維持してきたこの地の人々の残したものを少ずづつお伝えしていこうと思う。
フェニキア、ローマ、ビザンチン、十字軍どの時代の遺跡も豊かな当地の歴史を伝えてくれる。一度訪れてみよう!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→