yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

平城京の南を歩くの条

2011-07-07 14:56:21 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ここのところ原発はいらない記事ばかりなので、活動家に返信したかとお思いかも知れませんが、もちろん研究もそれなりにやっています。もちろん、原発廃棄の運動は、別に日常生活の中で国民一人一人が普通に考えれば当然の結果として出てくる思いであり、行動なのですから、全国民が、マスコミの流す偽情報に惑わされることなく、自分で判断し、普通に行動すればいいことではあります。

 もっとも大学の先生方を筆頭に、「インテリ」と呼ばれる方々こそこの普通ができない!!普通でない非人間的な存在であることが一番の悲劇ではあります。



このメンバー六人で歩きました。

 さて金、土曜日の二日間、「比較史的観点からみた日本と東アジア諸国における都城制と都城に関する総括的研究」の研究会の現地踏査の一つとして平城京の南を歩きました。



 まずは平城京の南東隅にまるで唐長安の曲江池のように所在する五徳池を歩きました。

 南辺の通りはほぼ京南辺特殊条里と呼ばれる条里地割りの北から三列目のラインに当たります。

 もっとも、近年発見された九条以南の条坊の存在によって、南東隅ではないことになりました。



 そもそもこの池がいつできたのかもよく判っていないのです。



 これについては以前にも発掘調査中の下三橋遺跡の現地を見学し、何度かその後も遺跡を訪れ、私の考えを述べたことがありますので、大いに関心のあるテーマでした。

 幸いなことに、金曜日は曇り時々小雨という天気で、とても涼しく、雨もそんなに激しく降ることもなく、じっくりと遺跡・地形・遺存地割りを見ることができました。

 テーマは

� 平城京の羅城はいつどこまで設置されたのか。
� 下三橋遺跡で発見された平城京九条以南に広がる遺構群は、いつ、どこまで形成され、どの様な機能を持っていたのか。
� 平城京の南に展開する京南特殊条里や一般条里はいつ形成されたのか。

でした。

 もちろんこれらについては奈良文化財研究所のIKさんがそれぞれ仮説を出されているのですが、どうも世間ではこれが確定説であるかの如き誤解が生まれていることが大いに気になっておりました。

 どうも学問の世界も、国家機関の所属研究者が見解を出すとそれに従う変な傾向があるようで不気味です。しかし、一昨日はそうした仮説に果敢に挑戦しようという意欲ある方々が集まりましたので、とても有意義な見学会とすることができました。

 �については下三橋遺跡の発掘調査によって全く想像もされていなかった事実が明らかにされ、これを巡って、従来の説を基本に分析しようとする研究者と新しい事実に沿って全体を組み直そうとする研究者の二つに分かれました。

 もちろんどの様な資料であれ、新たな資料が出ればこうした方法で再分析を加えることは普通であり、その事自体はどちらが正しいとも言えないのであります。ただこの時に余り旧説(自説)を無理に引っ張ると結構な落とし穴が幾つもあくということです。

 一昨日、昨日の研究会で再確認された実は、1)羅城