とこのへや

とこの雑貨と、とこのお洒落着。とこは樺太に住んでいたことがあります。とこの嫁の体験談、日記、備忘など。

「ため」にならない

2018-09-27 21:02:21 | 日記

高校の国語の授業で、私は、「蛇がヌルヌルしている、かどうかは触ってみなければわからないと思う」
といって「意外性の壁」を私は既に乗り越えているんだと主張した。

そのことを担当の先生が、皆の前で読み上げよ、というので、
半ば怒ったように早口で読み上げたら、周囲の反応は「やっぱりすごい」的なものだったので、
私は恐縮し、それが担当の先生の狙いなのか?と思ったものだった。

褒められた、のかもしれない。のだが、
今これを思い出しているのは、実は最近の日経に掲載されていた、某シャンプーの広告のせいだ。


その広告は、近年は通年で見かける「リクルートスタイル」に徹している若い女性の、
ポニーテール姿の頭部部分を斜め後ろの角度から映し、
細かい文字の行の連なりで表現しているもの。

文字はなんとか読み取れるが、読みたいと思わないほど、女性のカタチ以外のところでは
薄いグレーで、太くなっているのは、女性のストレートな黒髪の部分や、
リクルートスーツと呼ばれる、黒いジャケットの襟あたりの部分なのだ。
当然、読んでいて、ふと文字が薄いグレーになったり、はたまた、女性の肌のピンクに変わったりする。

ずらずらと羅列されるのは、若い女性たちの、愚痴やストレートな感想、こうだったらいいのにという
淡い想い、なのだが。

内定式に、普通のスタイルで参加したら、内定取り消しになるのかどうか。
なぜ黒髪で、黒いリクルートスーツでなければならないのか。

その某シャンプーがまるで、彼女たちを解放するためにここで世に問う、みたいな。

でも、そこに何の、意味もない。そして、ここでくだくだこれを説明する私は、
その広告の後押しもしくは加担すらしていることになるのだけれど。

この広告には反対だ。若い女性がリクルートスタイルを強要されてる社会の中でかわいそうだという主張のもとにある表現だから。

本当に「ためになる」ようにするなら、違うアプローチじゃなきゃ。
だって、すでに、彼女たちは自分で選んだ結果、そのスタイルをすることにしたのだから。

その理由は。
まず前提として、就職活動に際し、受かりたい、内定欲しいために彼女たちは調べて、そうしているのだ。
目的がハッキリしている、受かりたいのだ。
じゃあ、個性的なスタイルで臨んでも、受かった例をたくさん集めた方が、女性は某シャンプーのメーカーが望むように、若い女性が堂々と色々なスタイルで出かけ、面接にも同様に臨むのではないのか?

そこに並べられた愚痴のうち、世間のステレオタイプ「女はこうあるべきという型」から外れないようにしなければいけないことが苦痛だという主張、これは内定と関係ない。お金のために働いた経験がない人が言うコト。
「よく見られたい」は「実力よりよく見られることが必要」と思っているということ、
「悪目立ちして受からなかったら嫌だから」は単純に戦略だもの。

どれもこれも、別に強制された、かわいそうな若い女性じゃない。

街で見かけるリクルーターは、女性たちは本当によくこのリクルートスタイルをこなして見せている。
自分に似合うように、微妙に調整している。
高校の制服も、高校生になる=高校の制服を着ることが成長の一歩であって、そのための服なの。
リクルートスタイルをすることが通過儀礼になっている。
彼女たちは本当に、形を上手く利用している。
外国の人に言わせると、どれも同じ顔をしている、となるのだろうが、
要するにそれは武道や茶道のように「型」である。
調べてそうする、つまり型を一通り習うことで、一定の水準にやすやすと到達するのだ。

ここには能動的にそれを行う人と、みんながそうしているからなんとなく、または仕方なくする人との間に
ギャップを生むだろう。
だって、こなしている人にとっては、目的がハッキリしていて、割り切れる。
仕方なくしている人はこの広告に小さい字であるように、愚痴を言う。
私の顔は丸くてコンプレックスなのに、強制的にこういうスタイルにしなくちゃならなくて云々。

…やめれば? いやなら。

(いっそ就活もしなきゃいいのにね。って言われちゃうよ?)

だからかわいそうな若い女性、ではないのだ。
したがって、女性解放でもない。

何の役にもたたない主張なのだ。

蛇はヌルヌルしている、みたいな実際、触ったこともないのに決めつけるかのように、
そういうことを土台にして、変なガスや山の霧のように、まるでイジメがあるように
この主張が正しいかのように、ちょっと訴求力がある絵を使ってみたに過ぎないのだ。

「意外性の壁」を乗り越えないと、新しい発見はないし、
色々妨げになり、また人々を不自由にさせる。

私は常々、大勢の人が向かう方向と逆の方向を目指し、蛮勇を行う人間なのだった。
それはあらゆる人が、居る場所があってほしいと願う気持ちからだ。
みんなと変わってる、そう、だってみんな一人ひとり違うから意味があるでしょ?

なのに、みんなと同じであらねばならないなんて、窮屈すぎる。
変わっていることが嫌かどうかよりも、それが何の役に立つのか考えてみてよ。

みんなと同じにしたい人はそうすればいいよ。
命に関わらない限り、自分で選んでそうしてるなら、(別にどうだって)いいよね。


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