とこのへや

とこの雑貨と、とこのお洒落着。とこは樺太に住んでいたことがあります。とこの嫁の体験談、日記、備忘など。

母の日に

2018-05-13 16:39:22 | 日記

こんにちは。

母、と聞いて連想するもの。

よりどころ。
大切な かえるところ。

私にとっては、遠いもの、うすいもの、だった。
今も、遠いかなと思う。
私が4才の時に出て行ってしまった母。
夕闇に、溶けこむようなワンピースのシルエット、
タクシーのトランクへ荷物を入れている。
それが母だと分かって、私は「あ、そうなんだ」と思った。
ついに出て行くんだ、と。

あとは喪失感だけが残ったのだった。


今振り返ると、あの時自分は冷静だったと思う。
冷静で居られて、良かった、のだろう。

カメラを扱える人なんて、あのころ、田舎では珍しかったそうだけれど、祖母が私たちの母のことを語る時、
「写真が上手だった」とか「洋服を作れたし、美容師の免許持ってらった、お前たちの髪はいつも切ってくれていた、上手だった」とか、
「お店の接客は好きだったみたいで」と、いいところだけを言ってくれたのは、私たちの気持ちを考えてのことだったのか。
カメラやそのネガフィルムと母自身が写っているプリントはすべて持っていったそうだ。
姉とそろいの、胸のところに真っ赤なリンゴのアップリケのついた黒地のワンピースは、引っ越しの時だろう、処分されたと記憶している。
切りそろえてきれいに伸ばしていた髪は、姉が短くしたいと言ったのをきっかけに、段カットになり、
私の前髪はヘルメットのツバみたいになってしまった。

中学のころだったろうか。父に尋ねた母のこと、返ってきた答えは、
「結婚してから、聞いた、はくちだずって」
母は昔、特殊学級にいたようだが、まるで自分に言われたかのような爆弾級の衝撃であった。
白痴(はくち)なんだってと言った父の表情は、落ちていた。
まさかのこの俺の妻がね、とでも言いたげな。
ちなみに、叔母たちに話をきくと、普通の人だと思った、白痴だなんて、という答えだった。

母はお台所のことが苦手だったらしい。2つのことを同時進行できなかったのだろう。
お昼はうどんにしよう、と台所に立つが、いつまでたっても出来たと言ってこない。
様子を見に行くと、お湯を沸かすために鍋に水を張って火にかけるが、沸くのをじっと待っていたのだそうだ。

父のしてくれた話に対して、別に病気じゃないのではと私は思った。
料理などやったことがなければ、そうなってしまうものだ。
「前のお母さんはさ、お料理あまり上手じゃなかったんだよね」と、姉と話したことがある。


しかし、かといって、私は今の継母と一緒に何かを作ったことはない。
姉と二人で作ってみなさいと言われ、カレーを作ったことはある。

彼女はとても手際がいいから、私のノロいのを見ていられないのだ。
継母は、食事の準備など本当に手早くって、美味しいものを用意してくれた。
父の嗜好に合うようにと、注文に応えているわけで、
上手くできたとなると、父は何度も「うまい!」を連発していた。

継母は気のいい人でよく笑いよくしゃべるのだが、気性が荒いところがあって、カッとなりやすい。
父はそういうはっきりとしたところを、好んでいるように思う。
それはそれで、私にとっては悲しいのだけれども。
そういう反発があったけれども、私も子を持つようになって、父に詫びる手紙を書いた。
息子に父のこと、そして母を喪失した想いを響かせたくない一心で。
すると、その手紙を読んだ継母とは普通に話せるようになった。

これはこれで、血がつながっていなくても、「母」なのだろう。
母の日と近い彼女の誕生日には、今年は特に何も送らなかったけれど、お祝いメールを送った。
すぐ返信あり、「いつ来るの?」と短い中にも待っている空気感があった。
帰省の際には虎屋の羊羹を買っていくことにしよう。


「母」といえば夫の母、姑 とこ にも、とてもお世話になっている。
私たちの息子の世話も、安心してどんと任せてしまえる大きさは、他のひとではありえなかった。

そういう、「いいのよ、言っても」という本当に大きな愛情、それがお母さん、だと思う。

私は誰かのそういう存在に成ることが出来ているのだろうかとふと思う今日。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 激通勤、激務 | トップ | 妄想。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事