御鏡壱眞右往左往

繰言独言、謂いたい放題・・・

誰か、教えてくれないか

2006-10-04 00:07:04 | 環境・農業
先月の長雨による寡照と低温、加えて先日の台風で今年の作況はやや不良のようだ。
我が方は西南団地であるので台風の影響をもろに受けたかたちだが
東北信越は秋冷による穂いもちの発生がやや多いとも聞く。
そしていもち病といえば…
そう、イネにおけるディフェンシン発現遺伝子組み込みの問題である。
現地試験栽培について裁判沙汰にまでなっているわけだが
こんな年こそいい試験データが取れるだろう。


さて、件のGMイネ裁判については、
どうもそれぞれの主張するポイントが微妙にずれているように思えてならない。
栽培試験の実施者である試験場側は、
食品安全性の面から問題が無く
狙いどおりの効果が屋内レベルで確認され
栽培上の問題点も無いこと
交雑等に対して国の基準に則った防止措置を講じていることを主張している。
これに対し反対を叫ぶ原告らは、
ディフェンシンが常時放出されることで耐性菌が出現する懸念があり
生物界全体の環境に悪影響を与えかねないと主張する。
また、交雑防止に対し基準が曖昧であり実効性の面で対策が不十分であるともしており、
風評被害の可能性も付け加えている。

さて、整理をしてみよう。
試験場の主張としては、
既に数年をかけて試験をしてきた新品種開発の最終コーナーとして現地試験を行おうとしている。
農作物として考えられる一通りの試験をクリアして、
ある程度の自信を持ってお披露目に臨んだわけだ。
すなわち、GMOイネを農作物としての観点から農作物としての機能を評価してきたわけである。
これに対し、反対の立場に立つ人々は、GMOであるというまさにその点に拘っている。
不自然であり、環境に破壊的に作用する恐れがある、と。

まあ確かに、科学の先端部に関してはブラックボックス化が進行している。
一般社会において「科学の最先端」という言葉は「魔法」の類義語であり、
「魔法」と同程度に胡散臭いイメージが付き纏うことは、ある程度止むを得ないのかもしれない。
(私が科学の最先端について十分に理解しているという意味ではないので念のため。)
なので、調和した無為自然を良しとし、人為不自然を嫌う風潮がある。
まあ科学万能主義の科学教信者よりは良いかも知れないが、
GMOであるから否定するという脊髄反射的なものは如何なものか。

今回の反対側が主張する内容について、交雑防止策を検討するというのはいいだろう。
それぞれがデータを持ち寄り、より有効な方策について検討するというのは有意義かもしれない。
問題は他方の主張についてだ。
試験を実施する側がディフェンシン耐性菌の出現という問題提起に対して
十分な説明をしていないのは、まずいなぁと思う。
おそらく想定外であったのだろう。
まあ、普通はイネの遺伝子組換で人類が滅亡する、
いもち病抵抗性からのドミノ倒しで人を含む自然界と生態系に大変な脅威がもたらされる、
という発想は、研究者からは出て来ないのではないか…
これを想像力の欠如と言うのは酷だとは思うが。

実際、私などが見てもこの論は
(もちろん可能性は0では無いだろうが、)いささか飛躍が大きすぎるように思う。
そもそもいもち病だの白葉枯れ病だのといった稲の病気の原因は
「糸状菌」、すなわちカビの類であり、
ヒトをはじめ多くの動物に疾病を起こす「細菌」とは
感染の経路も、生体反応も、その生活環も大きく異なる。
ヒトに感染する糸状菌が存在しないわけではないが(馴染みのところでは白癬菌あたりか)、
あまりメジャーではないし、生存を直接左右するようなものは無いと思っているが。
今回イネに導入されたカラシナディフェンシンとは、細菌に対しても有効な物質なのだろうか。

耐性菌が問題となるのは、その性質が遺伝的に継承されるからである。
すなわち、耐性は後天的なものではなく、
変異のひとつの型として先天的に存在するわけだ。
外的な環境要因に対しその変異が有意に作用するとき初めて顕在化することになる。
問題のディフェンシン耐性についても基本的には同様である。
すなわちどんな環境下にも耐性菌は存在し得る。
実際に天然のディフェンシン発現の場面においても、耐性菌は存在している筈であるが、
問題にはなっていない。
常時ディフェンシンが存在する環境下では、
淘汰圧が高いことは間違いないがそのことが即耐性菌の爆発的増殖に直結するものではない。
糸状菌であれ細菌であれ、増殖するためにはそれなりの条件(栄養)が必要だ。
多くの病原菌は寄生的(または半寄生的)生活環を持つ以上、増殖可能な条件は限られる。
さらに言えば、ディフェンシンという物質は無差別的に菌を攻撃するものでもないようだ。


石けんには殺菌効果がある。
そして現代において手洗いは躾として幼い頃から徹底されている。
また、少なくとも国内においては入浴の習慣は普遍的なものであり、
入浴の際には殆どの場合石けんが使用される。
すなわち石けんの殺菌力は日常的に発揮されているといっていいだろう。
さて、では石けんの殺菌力に抵抗性を持つ疾病原性の細菌または糸状菌というのがどの程度あるのだろう。
まあ、抗生物質耐性黄色ブドウ球菌などの例は確かにあるが、これは特殊な例だろう。


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10 コメント

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文科系の意見 (エヌ氏)
2006-10-06 23:55:05
 科学者さんの悪い癖だが・・・



 「人工的に、イネにディフェンシン発現遺伝子(以下、単に「ディフェンシン」と記す)を持たせたらどうなるか」という検証はやっても、「自然がイネにディフェンシンを持たせていないのはなぜなのか」という検証はやらない。

 イネとて馬鹿ではないから、イモチ病などにやられないよう、進化の過程で「自然ディフェンシン」とでも言うべきものを獲得していてもおかしくない。それがないのは、なぜなのか?外敵にやられないよう、毒をもつ生物はたくさんいるのに、なぜイネにはないのか?

 もしかすると、イネはディフェンシンを持つべきではないから、持っていないのかもしれない。持っていないほうが、実は自然の中で生存に有利なのかもしれない。



 さあ、この答えは、理科で出せるかな?

 ここから先は、理科の領分ではないだろう。



 理科系の貴兄から見れば、禅問答のように思えるかもしれないが。
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ふむ。 (壱眞)
2006-10-07 21:22:09
> もしかすると、イネはディフェンシンを持つべきではないから、持っていないのかもしれない。持っていないほうが、実は自然の中で生存に有利なのかもしれない。



このような考え方も禅問答も嫌いではない。物事は可能な限り多面的に見るべきだと思っている。

ただ、イネがいもち病に有効なディフェンシン蛋白を持っていない理由なら、科学的に説明できるのではないかな。

すなわち、イネという種が成立したときに、その周囲の環境にいもち病菌というものが存在しなかったから(あるいは問題にならなかったから)持っていない。

ご存知かもしれないがイネ(Oryza)は熱帯原産である。これに対しいもち病、特に問題となる穂いもちの発生は出穂期である7月下旬から8月が低温,多雨の年に発生が多いとされる。すなわち、いもち病菌(Pyricularia oyzae)にとって好適な温度は25℃~28℃あたりで、これは温帯域に相当する。

さらに言えば、ディフェンシンは抗微生物活性を示す塩基性ペプチドの総称であり、単一の物質ではないし、まして万能薬のようなものでもない。イネにおいても独自のディフェンシンを有していると思われる。それがPyricularia oyzaeに対して有効でないということである。

予断だが、イネはこのPyricularia oyzaeという難敵に対しただ手を拱いていたわけではなく、抵抗性というものも存在しているし、それを利用した育種研究も進められている。



最後に、何が何でもディフェンシン遺伝子を組み込めと言っているわけではないので誤解無きように。反対の理由がおかしいのではないかという事だ。
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理系の意見 ()
2006-10-07 21:56:10
壱眞氏も書いている通り、自然淘汰で発現する性質というのは、元々その生物に変異の一つの型として、先天的に存在する物である。

また、自然には”意図”は存在しない。

つまり、稲にディフェンシン発現遺伝子が存在しないのは”たまたま”そう言う変異が起きなかったに過ぎない。



しかし、実は、過去に発現遺伝子を持った稲が有ったが、現在までに淘汰されてしまった可能性も確かに否定は出来ない。

ただ、もしそうだとするならば、今回の稲も(人間が保護しない限り)同じように淘汰される物と考える。





また、壱眞氏の”即耐性菌の爆発的増殖に直結するものではない。

”との考えにも賛同は出来ない。

他の菌がいない環境で、”競争相手”の居なくなった耐性菌が、爆発的に増える可能性は否定できない。

病院内でのMRSAやVRSAによる大量感染の発生が、それを証明している。

まあ、限定された環境であるのは確かだが。



なお、石けんは化学的(アルカリ性の薬品)に細菌の細胞を破壊する物であって、今回の話とは違うと思うぞ。

耐性菌がいないとはいえないが・・。
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氏はやめとくれ (壱眞)
2006-10-07 22:41:24
なんかコソバユイから



後半について、

>限定された環境であるのは確かだが。

まさにそこが重要なポイントであって、極めて不自然な条件下の話であるということだ。

抗生物質は無菌状態のもとで治療の目的で投入される。

すなわち投入されるのは前提として無菌状態なので耐性が問題になる。

免疫や抵抗性が発現する以前の生態防御機構であるディフェンシンとは条件が根本的に違う。

生態組織内で栄養関係が成立してしまえば増殖の恐れはあるが、問題としているのは生体組織外での話だ。



石けんの喩えは不適切であったな。適当な例が思いつかなかったので、目的のみに絞って書いてみたのだが

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文科系の発想 (エヌ氏)
2006-10-09 11:55:51
 考古学でも、縄文人はインフルエンザへの耐性を持っていなかったため、大陸から進入してきた弥生人の持ち込んだインフルエンザ(中国奥地が原産)にやられ、縄文時代が終わり、弥生時代が始まったとの説もあるから、貴兄の触れられた、イネといもち病の歴史については大いに理解できる。



 イネが、ディフェンシンを持たなかった「科学的な」理由については、貴兄や昴氏の言うとおりだと、私も思う。歴史や風土をひもとけば、そうしたヒントから、答えは見つかるだろう。



 ただ、昴氏の「自然に意図は存在しない」というのが、まさに理科系の発想であって、我々文科系は、そこに意図を見出して、人類、生物、地球や宇宙の行く末を検討しようとする。小は遺伝子の意図(よりよい遺伝子を残す)から、大は全宇宙の意図まで。

 我々人類は、なぜ、すべての伝染病への耐性を獲得し得ないのか?もしかすると、伝染病によって適当に淘汰されることが、人類や生物、地球や宇宙の目的に適っているのではないのか?イネも然り。

 (「意図」という言い方は、ちょっと適当ではないかな)



 これを論理的に検証しないで、直感的にやろうとすると、「神の意思です」ってな、危ない領域に入り込んでしまうんだが。



 やっぱり禅問答かな?

 まあ、貴兄には、もし反対派と話をする機会があったら、こういう発想もあるということを、頭の片隅にでも置いていていただきたい。平行線を、少しでも近づける役には立つと思う。
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近づける努力はしていきたいが (壱眞)
2006-10-09 22:44:15
まあ、文系理系は一先ず置いておこう。

奴我とてSF読みの端くれ、貴兄の謂われ様に共感する部分が無いではない。だが、それはロマンティシズムだ。秩序と論理に反逆する自我尊重、感性の解放の欲求の主情的表現だ。それは時として人の心を強く動かすが、科学の評価には適当でないと思える。

倫理についても、物差しとしては少々役不足ではないだろうか。価値基準は案外簡単に変わるものだし、ある意味物事を一面的にしてしまうような気がする。倫理というものに対して私の理解が誤っていなければ、だが。

こういうと頑なに平行線のままにあろうとしているように思われてしまうかもしれないが、例えば他方が展開する論理は完全に拒絶して、尚且つ己が絶対的に正しいとする態度は何とかならないものだろうか。不足する部分はあるにしても説明はしようとしている。それに対し反証不能な悪魔の証明を以って対抗するというのはあまりにも不当だろう。

例えば今回の件にしても、遺伝子組み換えなどせずに、慣行の農薬を適正に用いた栽培が望ましいというなら支持もしよう。それを言わず、非論理的で情緒的な理由での反対に終始する様はどうにもいただけない。
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理解は出来る。 ()
2006-10-10 09:58:56
まあ、物事を擬人化して(自分に近づけて)、理解しようとするのは、人としての”本能”みたいな物だからね。

理解は出来るし、そう言う考えも決して嫌いでは無いぞ。

実際、地球そのものを一つの生命体として考える「ガイア理論」や、生物は遺伝子の入れ物に過ぎないって考えの「セントラル・ドグマ理論」ってのも有るし。



ただ、自然の中で、淘汰を繰り返して来た結果が、後から見ると”意志”が働いているかのように見えるのに過ぎない、とおれは思ってる。



そう、「まるで意志が有るみたいだ。」と、感動はしても、「自然の意志が働いているからこうなった。」とは考えない。

でないと、壱眞も言っているように、情緒に押し流されて、物事の本質を見誤る可能性が高い。



エヌ氏の言っている事は、どちらかというと、「哲学」に近いと思う。

ま、どちらも大切な考え方だとは思うぞ。

片方だけが暴走したら、ろくな事にならん気がするし。
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よくぞ (エヌ氏)
2006-10-10 23:53:52
 気がついてくれました。

 はい、哲学です。



 科学者の中でも、特に宇宙理論を展開している人の中には、もはや科学を通り越して哲学の領域に入り込んでいる者もいる。

 科学と哲学の融合を、ちょっと試みてみたけれど、いかがかな?



 それから、自然の意思とか意図といった言葉は、擬人化してしまい、どうしても「神」を連想し、適切でなかった。

 方向性とか志向性と言ったほうがいいかもしれない。

 つまり、イネだけの問題に限らず、植物や動物、生物全体の示す方向から、イネやヒトを考える、帰納法による思考も、必要だということで、決してロマンティシズムではないので、念のため。

 論理とロマンティシズムが(通常は)相容れないことぐらいは、私とて「なんでも反対派」ではないので、分かっているつもりです。
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失敬 (壱眞)
2006-10-11 22:30:10
読み返してみると、少しばかりいらぬ方向にヒートアップしてしまったようだ。

ロマンティシズム云々についてもし不興をかったなら

不適切であったと陳謝させていただくとともに

とりあえず回収させていただく。



その上で、科学と哲学の融合というのが

両方に足場を持つという意味であるのならば同感。

だが科学と哲学は同じ地平に立つことは無いと思う。

何故なら、科学は人の外にあり、哲学は人の内にあると思うから。



哲学はそれぞれ個々の価値基準、というか価値観に根ざすもので、

公約数のようなものではないだろうか。

他者にシンパシーを感じることはあっても情動が完全にシンクロすることはあるまい。

それが個であるということではないだろうか。





科学は原則数値である。

実験と観測により得られた数値を以って真実に近づこうとする。

この手法はまさに「帰納」そのものだ。

だが「帰納」では前提が真であっても結論が必ずしも真であることは保証されないね。

故に科学は常に推論でしかない。

最終的に辿り着いた結論が本当に真実であるかは実は誰にも判定できない、

その意味では両者に本質的な差は無いかも知れないが、少なくともアプローチの仕方は違う。



ただ、科学と哲学の両方を持ち合わせるべきだということは判る話だし

常に意識しておかなければならないだろうと思う。



彼の人々に望むことは、

疑問を呈し批評することは良いことだけれど

その傍らで、科学に対しても謙虚なアプローチをしてほしいと思う。

心ない科学は無意味であるし、危険でさえある。その認識は正しいかもしれない。

同様に、

ロジックの無い、レトリックだけのイデオロギーはヒステリーでしかない。

不毛な「悪魔の証明」からは、そろそろ脱却して欲しい。





蛇足ながら、貴見がそうだということではないので念のため

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そうそう (エヌ氏)
2006-10-11 23:23:51
>最終的に辿り着いた結論が本当に真実であるかは実は誰にも判定できない



という貴兄の意見は、まことに正しい。科学においても哲学においても。



 哲学者には科学の目を持ってほしいし、科学者にも哲学の目を持ってほしい。

 世の中は科学で動いているけれど、科学を用いるのは人間だから。



 貴兄の言う「彼の人々」は、ちょっと、片方に傾きすぎていると思う。が、もう片方に傾きすぎた意見を、揺り戻す役ぐらいには立っているかもしれない。
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