そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

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『嘘のやう影のやう』を読む

2008-05-03 20:09:52 | Weblog
生きた日をたまに数へる落花生

 本当に好きだなあ、と思える句に出会うと、なんだか身悶えしてしまう。見た瞬間にいいなあ、と思うと、そのままその句がじんわりと自分の体に沁み渡ってゆくのをじっと待つ。全身にいきわたってしまうと、句の持っているエネルギーにあてられてしまったようになり、それが自分の体だけに収まりきらなくなってしまって、変に身悶えしてしまうのだと思う。この句集では、そういう貴重な出会いがたくさん見つけられた。

多喜二忌の樹影つぎつぎぶつかり来
花吹雪壺に入らぬ骨砕く
屈むたび地中の冷気まむし草

 歩いている自分に「つぎつぎぶつか」って来る樹影の物質感、「壺に入らぬ骨砕く」という所作から否応もなく浮かんでくる人骨の手ごたえ、「地中の冷気」を「屈むたび」に感じる確かな皮膚感覚…。

 彼女の句には、何かに触れてしまったような生身の手触りがある。読んだ瞬間、思わず手を引っ込めてしまうような、思いもよらぬほどはっきりした触覚。驚くべきことに、もはや言葉が概念を超えて物質化している。

顔洗ふ水に目覚めて卒業子
ずぶ濡れの欅の並ぶ大試験

 そんな彼女の句の世界に人物が登場すると、皮膚感覚のレベルでの共感が生まれる。ああ、眠いな、今日もいつもの一日が始まるのだな、そんなこと意識することすらなしにただぼんやりと顔を洗う、徐々に意識がはっきりしてくる、ああ、そうだ、今日は卒業式だったのだな、と気が付く。タオルで顔を拭いて鏡の中の自分を見る。いつもと同じ朝、同じ目覚め方、顔を洗う動作も同じ、それでも、今日という一日の感傷的な気分は、こんな型どおりの朝から始まってしまっている。顔を洗って初めてそのことに気づく。

 生理的な感覚と意識的な感情とが、こんなに自分に身近な人生の中で生々しく交差していたのだと気づく。そんなとき、身悶えする以外僕にできることがあろうか。

羅の手足を長く去りゆけり
夏めくと腰にぶつかる布鞄
三角は涼しき鶴の折りはじめ
雫する水着絞れば小鳥ほど
回遊の魚の鳴かない大暑かな
むかうから猫の覗きし水中花
夏果てや抛りし小石落ちてくる

 あんまり引用しているとキリがないのだが、どれもこれも素敵な句だ。そうして、彼女の句の魅力は手ごたえと言うにとどまらない。この世界に存在しているものの確かな手触りをベースにして、自在なイメージがくるくると空中を飛びまわるのを感じる。それは、「鶴の折りはじめ」を涼しい三角だ、と言ったり、絞って硬く小さくなった水着に小鳥をイメージしたり、魚が鳴かないと言ってみたりするところに特に顕著だ。どれも、単に言葉の上での新奇な取り合わせなどではなく、ある種の生々しさを感じさせてくれるのは、「三角」「雫する」「大暑」と言った個々の言葉が、物質の存在感を保証してくれているからに他ならない。

鶏頭は雨に濡れない花らしき
芒原眼吹かれてゐたりけり
花芒急げば雨に飛びつかれ
運命のやうにかしぐや空の鷹
饅頭のうすむらさきも霜日和
日陰から影の飛び出す師走かな
枯野原とんびの影が拾へさう

 「雨に濡れない花」という奇妙な断定は、逆に他の花が雨に濡れたら花びらがしっとりするだろうということを想起させ、それとは異なる鶏頭の花のありようを巧みに思い浮かべさせる。「急げば雨に飛びつかれ」のやるせなさ、「運命のやうにかしぐ」という言い回しそのものにある、どきっとさせる何か、「饅頭のうすむらさき」がしっとりしている様子、「日陰から影の飛び出す」単純な驚き、「影が拾へさう」な枯れ切った野原…。どの句も、目を閉じているだけで体の中を通り過ぎる何かに身震いが出そうに思う。

末枯や抽出しにある絵蝋燭

 この句の地味さも、しみじみと思われてならない。

 そんな中でも、冒頭に挙げた句は大好きな一句。落花生などぽりぽりとかじってしまうような秋の夜長だからこそ、来し方を振り返るような気にもなるのであろう。「たまに」が泣かせどころ。もしもいつもいつも数えているような人なら、その人はこの人生に全く満足していない、悲しい人であろう。もしも全く数えないような人なら、その人は楽観的であまりにお気楽な人であろう。「たまに」、生きた日を数えてみるような気分になる人、というのは、これまでに辛いことも楽しいこともきっと数多く経験してきた人であろう。そうして、おそらくはもう若くない。

 落花生の、あの、ちょっと出っ張った部分を親指で強く押したら、パリッと乾いた音をたてて殻が割れて、中に二粒とか時には三粒入っていたりする豆を取り出し、一気に口に放り込む。そんな一連の動作も人生の一部なんだなあ、と当たり前なことを思うのは、柄にもなくつらつらと自分の過去のことなど考えてしまったからだった。

 もはや、身悶えどころではない。なぜか、嘆息が漏れてしまうような、そんな句。

作者は岩淵喜代子(1936-)
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2 コメント

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嘘のやう影のやう (岩淵喜代子)
2008-05-11 11:24:08
先日「週刊俳句」でお目にかかった岩淵喜代子です。
じっくり読んでいただいて、そのうえ、過分なおことばを頂いて、ほんとうにありがとうございました。

一句でも感動してもらえる句があれば、句集を作った者には、こんな嬉しいことはありません。
こちらこそありがとうございました (ゆうむ)
2008-05-13 02:46:06
先日はお世話になりました。
素敵な句集をいただきまして、本当にありがとうございます。読んでいるとはっと立ち止まる句が多い句集でした。こんな句集に出会えて、すごくうれしかったです。

また何か御縁がありましたら、よろしくお願いします。

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