そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

『檻』を読む

2008-03-17 20:56:17 | Weblog
髭剃つて坐りて秋の風待てり

 朝、髭を剃る。鼻の下、頬、顎の線、首筋、丁寧に髭剃りを這わせる。剃り終わって、鏡を見る。剃り残しがないか確認する。

 髭を剃る、という所作は、男の身だしなみの一つだ。外に出て、どこかへ行って、誰かと会う、という社会的な行動の最初の一歩として、まずは身だしなみを整える、という行動がある。

 ところが、この句では髭を剃ったあと、「坐りて」さらに「秋の風待てり」となってしまう。もちろん、現実にそういうこともあるだろうが、折角髭を剃ってさっぱりしたのに、ただ座ったまんま秋風を待っている、というのではどうにも身だしなみを整えた甲斐がない。

 さてこれはどういうことだろう、と思って見てみると、その前後にはこのような句が並んでいる。

一一三号とわが名を呼ばれ夜の秋
そこにあるすすきが遠し檻の中
秋澄むや十歩に余る運動場
獄中の畳を歩く秋遍路

 つまり、この句集の作者は投獄されているのだということが分かる。身だしなみを整えて行くところなど、そもそもありはしないのだ。

 それにしても、彼は一体どうして捕らえられているのだろう?この句集を読む限りではそれは分からない。

イカロスのごとく地に落つ晩夏光

 投獄された折に詠まれたと思われるこの句の前に並んでいるのは、

越後いま刈田に水の音ばかり
曲り屋の鴨居も艶の時雨かな

 このように、日本各地を旅してその中でできたような、風土性の強い句ばかりである。これらのどこにも罪のにおいはない。罪は描かれていないのだ。

 作者は、あとがきでこう書いている。

「刑務所は、徹底的に人間の心や魂を痛めつけるシステムである。陰湿な「いじめ」や精神的な虐待は常に黙認されているからである。
 刑務所の中で、私の精神が崩壊しなかった理由は三つある。一つは自分の獄中体験を俳句として表現したこと。二つには宗教書を熟読することによって魂の浄化に勉めたこと。三つには膨大な量の読書である。特に読書は、刑務所の中で、唯一の娯楽であった。」

 お分かりになるだろうか?ここには罪がなくて罰のみが存在している。あるいは、罪を犯したという意識がなくて、罰を受けている意識だけが存在している。僕は首を捻る。彼は冤罪だったのだろうか?

 彼は「獄中体験」を俳句に表現したと言っている。僕は、投獄されるという、個人的のみならず社会的に見ても大きな出来事であるはずのことが「獄中体験」などという軽い言葉で表されていることに疑問を感じる。それは「体験」などという一歩後ろに引いて物事を見ているような言葉遣いで表されるものではないはずだ。

 犯罪であれば被害者がいる。被害者に悔い、自分自身の来し方を振り返り、更生に努めるのが、刑務者の一番にやらなくてはならないことではないのか。彼の言葉にはそのような態度は少しも表れていない。宗教書による魂の浄化すら、彼自身が自分の精神を崩壊させないために行なっていることで、罪を悔いるためのものでは、どうやらないらしい。

 なぜ、今回は俳句そのものではなく、あとがきに対して批判を行なっているかというと、ここで言った批判はそのまま彼の俳句にもあてはまることだからである。

 たとえば、「イカロス」は、背に翼をつけて飛び立つが、太陽に近づきすぎたためにその熱で翼を貼り付けていたロウが解け、まっさかさまに墜ちてしまう。注目すべきは、「イカロス」はなんの罪もおかしていない、ということだ。

 落ちたイカロスに、投獄された自分自身を重ねてみているというこの時点で、既に彼の関心は自分の罪による被害者ではなく、栄光から墜ちてしまった自分自身を嘆くことにあるということが分かる。

短日や囚徒かたまり黙しをり
悴みて囚徒に髪を刈られけり

 あるいは、自分も囚徒であるにも関わらず、「囚徒」という言葉でほかの囚人を表すという、一歩距離を置いた言葉遣い。この二句のどちらの「囚徒」も、彼自身を含んでいないのだ。自分のことを「イカロス」になぞらえるような高いプライドが、自分自身はほかの囚徒とは違うものだという意識を生むのだろうか。

 俳句というのは、あるいは言葉というのは、こわいな、とこの句集を読むと思う。人は自分の感じた以上のことを伝えることはできないのだ。何も取り繕うことはできない。

そこにあるすすきが遠し檻の中

 確かに、彼が刑務所の中で精神的に辛い生活を送ってきたのだろうということは伝わる。すすきをこういうふうに詠んだ人もいないだろう。あるいは、これは刑務所ということを抜きにして考えれば、動物園の景色を想像することもできる。その解釈のほうが個人的には感情移入しやすくて好きだ。

膝抱いてをり秋晴の日だまりに
笑ひたるあとのとぎれて夜の秋
獄中の畳に日脚伸びにけり

 彼の句には、獄中における自分の辛さを訴えるものが多い。そんな句を読むたび、僕は素直にそれを可哀そうだと同情することはできない。ただ、だからと言って彼が辛い経験をしたのだということを否定することはできない。

 問題なのは、俳句形式には一体どこまで吹き込むことができるのか、ということである。少なくともこの句集には思想性の欠片も見ることはできない。俳句に詠むことのできるのが本当に「いま・ここ・われ」だけなのだとしたら、多面的な視点から物事を捉え、誰かの心を思いやるということはできない、ということになる。

 自分にとっての真実しか描けない文学。誰かにとっての真実を忖度することのできない文学。果たしてそうなのだろうか?俳句という形式は。この句集を読むとやや暗い気持ちになる。

 あるいは、それはウソをつかないという意味では素晴らしい態度なのかもしれない。つまり、下手に分かったふりをして、実際に思っている以上に罪を悔いるような句を作ったとしたら、それはもはや文学ではない。

 俳句という形式にはもはや手に負えないことがこの世にはあるのだろうか?俳句は詠めることだけ詠んでいればいいのだろうか?そうは思いたくない。唯一、「髭剃つて」の句のみが、この句の持つしずかな矜持のみが、「いま・ここ・われ」をしずかに越えてゆく力を持っているように、僕には感じられた。

作者は角川春樹(1942-)

※角川春樹氏は、1993年8月29日、いわゆる「コカイン密輸」事件で麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で千葉県警察本部により逮捕され、その後、千葉刑務所に勾留された。(Wikipedia)