由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その6

2011年07月25日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

サブテキスト: 石光真清『石光真清の手記三 望郷の歌』(中公文庫昭和54年初版 平成10年第11版)

 日露戦争の前提について、一番大雑把なところをまとめておこう。
(1)幕末以来、対外問題に多少とも関心のある日本人が例外なく、一番気にしたのは、北の超大国、ロシアのことであった。
 この国はその後ソビエト連邦と名を変え、現在は、いくつかの周辺国が独立してロシア共和国となったが、依然として日本にとって脅威であり続けている。
 ただし明治時代には、脅威ももっと切迫したものだった。戦争が今よりずっと簡単に起こる、帝国主義の時代である。クリミア戦争での敗北の結果、ロシアが領土拡張の野心を東方に転じたのは国際的に知られた事実であった。放っておけばやがて中国東北部、即ち満州と、朝鮮半島はその支配下に入るだろう。
 果たしてそうなれば、日本の独立もまた、決定的に脅かされる。これは、共通認識というよりは、常識に近いものとしてあった。
(2)明治三十年代の政府高官の大部分には、もう一つの共通認識があった。ロシアと戦争をしても勝てっこないない、ということである。国力に差があり過ぎる。しかし戦争以外に、上の状況を打開する手だてはない。それで明治三十七年(1904)には戦争になった。
 似たような事情は、大東亜戦争の開始時にもあった。ロシアを相手にしたときには、運良く勝った。厳しい見方をしても、負けはしなかった。アメリカを相手にしたときには、そうはいかなかった。すべては運、などと言うつもりはないが、その要素は確かにある。
 しかし、国政を預かる政府要人は、こんな言い訳を口にすることは許されない。想定外のことが起きても、想定しなかったことに責任を負わねばならない。それが人の世の習いである。
 それはそうと、日本の近代初頭の、この厳しい時代を生きた一般の日本人の意識は、例えばどのようなものであったか。私の関心事はそういうところにある。

 石光真清の手記は、一時埋もれかけたが、近年NHKがドラマ化するなどして、一般にも知られるようになった。そこですべて事実のみが語られているとは思わない。真清の手稿を整理して現行の形にした息子の真人が、どれくらい筆を入れたかも測り難い。それをも含めて、ここには、明治元年に生まれ、近代日本の動乱に密着して、数奇な運命をたどった一個人の生の息吹が感じ取れる。貴重な記録と言うべきであろう。
 日露戦争時の記録は、三巻目『望郷の歌』の前半部分にある。ここまでのところで、真清は、陸軍幼年学校を出て、日清戦争では台湾に出征した後、ロシア研究の必要を痛感して留学。やがて軍を休職してハルピンで諜報活動に従事する。日露戦争が始まると、予備役も召集されたので、実質的に日本の主力部隊となった第二軍の、司令部付副官となる。おかげで、日本軍の指揮とはどういうものだったのか、具に見聞することができた。
 大日本帝国陸軍の主な戦い方は、白兵戦だった。ロシア軍がべトン(コンクリート)で塗り固めた要塞の中に立て籠もっているときも、三十年式歩兵銃という小型ライフルを主力武器とした歩兵が突っ込んでいくのである。もちろん戦車などない時代だから、むき出しの、生身のままで。誰しもこのムチャクチャさには気づかざるを得なかった。真清は書いている。

 南山は大連、旅順に至る途上の最大拠点であった。見渡したところ、なだらかな丘陵であるが、山麓には幾重にも厳重な鉄条網が張りめぐらされ、中腹には強固な堡塁が二十数カ所も見られる。しかも山頂は要塞化されて、砲七十余門がわれわれに砲口を向けていた。十分に砲撃を加えてからでなければ到底手をつけられないと思われたが、わが軍には敵を沈黙させ進撃路をひらき得るほどの砲兵隊もなかったし、それほどの砲弾もなかった。

 それでも一応援護砲撃はあったものの、気休めにもならなかったようだ。強行突破を期して突撃する日本兵たちは、瞬く間にロシア軍の機関銃による一斉掃射で薙ぎ倒されていく。日本軍が機関銃というものを実際体験したのもこれが初めてだそうで、装備からして、近代戦争を戦うにしてはあまりにも危ういものがあったことは明らかであろう。
 この日、真清は、第二軍参謀本部から、旗下の第一師団にくだした命令を口達する任務を受ける。その命令とは「全滅を期して攻撃を実行せよ」。
 こういうのを作戦とは言わないであろう。しかし、命令された下士官たちは、不条理は感じても口には出さず、黙々と攻撃を続行した。ために、明治三十七年五月二十六日払暁に始まったこの戦闘での戦死者は夕方の六時までに四千人を超えた。これまたそれまでの日本軍の常識を越えることで、他所の軍首脳からは「四百のまちがいではないか」と言われたというエピソードが残っている。
 第二軍司令官の奥保鞏(おく やすかた)は、やむを得ず、進軍を暫時止めて、夜になってから再度の突撃を試みる。すると意外なことに、南山は簡単に陥落した。ロシア軍は、このとき既に旅順方面に退却していたのである(以上P.15~18)。
 このようなことは、この後も何度か起きた。ロシア軍としては、日本軍の、兵士の命などなんとも思っていないような肉弾戦は、全く常識はずれであり、度肝を抜かれたのは事実であるようだ。そこで、そんなやつらはいずれ自滅するだろうから、常にまともに戦うことはない、捨てられる場所はさっさと捨てたほうが得策だ、という判断が働いたろう、と、これは真清の推測である。
 そうかも知れない。そうだとしたら、白兵戦も、無謀ではあっても、このときは無意味ではなかったことになる。西洋合理主義が、日本の非合理と初めてまともにぶつかって、独特の化学変化を起こしたようなもの、とでも言えるだろうか。
 もちろんいつもそうなったわけではない。旅順の場合のように、ロシア側も徹底抗戦に出たら、日本軍の犠牲はさらに飛躍的に大きくなる。この過程で、日本も、要塞近くまで塹壕を掘り進めて、その中から攻撃する「正攻法」を学び、実行するのだが、それまでは、白兵による一斉攻撃を繰り返すしかなかった。
 これに当たった第三軍司令官乃木希典は、戦後神格化されたが、近年では司馬遼太郎から、「殉死」や「坂の上の雲」などで、参謀長伊地知幸介とともに、軍人としては無知無能であると、さんざんこきおろされることになった。が、この無策さは彼らだけではなく、日本軍全体の問題だったことは、上に見た通りである。

 旅順が日露戦争中第一の激戦地になった理由は、現在、歴史好きの間では周知であろう。
 旅順湾内には、ロシア太平洋艦隊の主力が停泊していた。やがて日本海へ出てくるバルチック艦隊(正確には太平洋第二、第三艦隊)とこれが合流したら、その戦力は日本の艦隊の倍以上になり、勝ち目がなくなる。負ければ、日本海の制海権はロシア側に奪われ、大陸の陸軍に補給がつかず、正しく戦わずして立ち枯れとなり、日本の敗戦はもう必須である。バルチック艦隊が来る前に、なんとかしておかなくてはならない。
 海軍からのこの要請を受けて、乃木以下の第三軍による、最終的には七割の戦死傷者(のべ十三万人の兵力のうち、戦死だけでも一万五千人以上)を出す壮烈な戦いが展開された。
 しかし、上の事情からすると、極論すれば旅順要塞などはどうでもいい、旅順湾を一望に見渡せる場所、例えば二百三高地を占拠して、そこに大砲を据えて、太平洋艦隊を撃破すればそれで済む。しかし旅順攻略戦開始当初、日露双方ともにこの認識はなかったようだ。海軍は、自前で実行した、三度にわたる旅順湾口閉鎖作戦などに失敗してから、陸軍にこの作戦を依頼するのである。
 そのための最適な場所として二百三高地に目をつけたのは、参謀総長児玉源太郎か、海軍参謀の秋山真之(両者とも「坂の上の雲」で称えられている人物だ)か、定かではない。ともかく、日本海海戦(明治三十八年五月二十七日~二十九日)が近づいた三十七年末までには、海軍では焦眉の問題であるとされた。
 加藤葉子は、三十七年十一月三十日付けの、秋山が乃木に出した手紙を引用している(P.148)。「実に二〇三高地の占領いかんは大局より打算して、帝国の存亡に関し候えば、ぜひぜひ決行を望む」「旅順の攻略に四,五万の勇士を損するも、さほど大なる犠牲にあらず」
 加藤は、このようなことを実例として、日本には早くから陸海軍の緊密な連携があったとするロシア軍人の見方を紹介し、賛意を示している。う~ん、どうですかね?
 たぶん確かなのは、乃木希典個人が、海軍をどう思っていようと、大本営など、日本軍の中枢が決めたことなら、黙ってそれに従うしかないと感じたことだ。さらにその下には、「さほど大きな犠牲ではない」などと言われているのを知ってか知らずか、文字通り必死(必ず死ぬ)で戦う兵士たちがいた。

 日本軍のこのようなやり方への批判は、当時もなかったわけではない。石光真清の従兄弟で、早稲田大学の法学博士浮田和民(うきた かずたみ)は、いわゆる有識者として生前有名だった人だが、遼陽会戦の後で、以下のような評論を『時事新報』に載せたという(『望郷の歌』P.49~50)。

 遼陽の戦いは犠牲が多過ぎる。徒に前途有為の将卒を喪ってはいないか。(中略)日本の軍人は責任観念を誤解してはいないか。官吏なら辞職、軍人なら戦死によって最高の責任が果たされるように思っているのは誤りである。自分の職分、地位によって、責任の限度があることを知るべきである。その限度において、全力を尽したら、それでよいのである。負傷者、病者は、直ちに後方に送るべし、而して健全なる戦友に職務を譲るべきである。こうして初めて国家としての戦闘能力が発揮されるのであって、無理に死ぬまで戦わせるようなことは、名誉でもなければ、国家として奨励すべきでことでもない。

 戦地にあってたまたまこれを読んだ真清は、「誰が死にたくって死んでるものか!」と激怒する。そして、筆者が自分の従兄弟であることは隠して、同僚の副官連に回覧させると、意外と賛成者も多かったそうだ。日本でも、合理的な思考が完全に排除されていたわけではなかった証拠であろう。
 真清自身は反対の立場で、浮田を難詰する手紙を書き送っている。曰く、兵力でも兵器でもはるかに立ち勝っているロシアを相手に、日本がこれまで辛くも勝ち進んでこれたのは、司令官から一兵卒に至るまで、死力を尽くして戦ってきたからである。この兵士たちに、「自分の責任としてはこれくらいでよかろう」などと考えている余裕はない。それを、自分の職分を越えた余計なことをするから死んだんだ、とも取れる言い方は、まことに非人道的である、と。
 これに対する浮田の返事には、「自分等をして、このような、のんきな議論をなさしめる余裕を与えられたのは、全く責任感念の強い、誠忠なる軍人の賜であって、(中略)貴下は銃後の国民に、これだけの余裕のあることを知って満足してください」とあった。真清はこれを、怒っていいのか、笑っていいのかわからず、朝日新聞の従軍記者上野岩太郎(靺羯)に見せたら、「君の負けだよ……」と笑われて、返書を細かく引きちぎって屑籠に捨てただけで終わった、という。
 日本人が合理的な判断を最上としていたら、日露戦争も、大東亜戦争も起きなかったであろう。その結果歴史はどうなったか、それこそ想像を超える。現実に、悲惨きわまりない戦争を経て、現在の日本の平和と繁栄があるのは確かだが、かつての兵士たちの同時代人でもないのだから、「満足してください」とも言いかねる。このように呑気に議論を展開していても、かれらとどのような道でならつながれるのか、迷うばかりである。
コメント (4)
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