三陸ワカメのブログ

東日本大震災から11年過ぎました。お世話になった大勢の皆様へ感謝いたします。

深夜バス

2014年10月25日 | 捜索
 母を探して何度も帰郷した際、大勢の方に親切にしていただき、これまでもその話をブログで紹介させていただきましたが、もう一人大変お世話になった方を思い出しましたので書かせていただきます。私の恥さらしな話でもあるのですが・・・。

 震災後に走り始めた深夜バスは、大槌のマスト跡地近くにあるローソン(私の友人が経営している)前から、釜石経由池袋行きであった。今は「山田の道の駅」と池袋をつないでいる。

 ある日、遺体安置所を廻った後、バスの出発までかなり時間があったので一人で釜石駅近くの居酒屋で飲み、さらにその後駅の待合室でまた酒を買って飲んでいた。待合室には外人の新聞記者らしき人が居て、ちゃんと英語も話せないのに話かけたら、英語は解らないとフランス語らしき言葉で答えてくれた(酔っ払いに話しかけられて、ワカラン!と言っただけかもしれない)。その頃、某DTS合唱団で「アヴェヴェルム・コルプス」を練習していたので、フランス語の発音を教えてもらおうと、カバンの中に入っているはずの楽譜を探しているうちに、私の記憶がフェード・アウトしてしまった。

 ふと目が覚めたら、既に東京・池袋行きのバスは出発した後であった。長距離バスだし、釜石駅はこのあたりではメインターミナルなんだから、乗客に声ぐらいかけるだろうと勝手に思っていた。でもサラッと来てサラッと出発してしまったらしい。ジェジェジェと驚きつつ、自分勝手な酔っぱらいの我儘とダメ元でバス会社に電話してみたところ、なんと迎えに行くと言ってくれた。
 すぐに釜石駅に普通の乗用車が乗り付け「乗れ」と言う。運転手の方はいかにもプロという感じで、深夜とはいえ恐るべきスピードでバスを追いかけ始め、花巻の「道の駅」でバスに追いついた。釜石と花巻の間は50㎞ぐらいある。そしてサラッと私をバスに引き渡して帰って行った。別料金は無しである。
 こんな勝手な酔っぱらいをここまで面倒を見てくれていいのだろうか?大変大変、感謝はしているのですが。
 朝になって池袋駅に到着したときもまだ酔っぱらっていた。

仮換地(かりかんち)

2014年10月07日 | 積日
 2014年10月2日、「大槌町吉里吉里地区震災復興区画整理事業・仮換地(案)個別説明会」が東京地区では神田の旧今川中学校で開催されました。
長いタイトルですが、要は被災地を盛土などし再開発して、再度元の所有者に割り振る新しい区画を説明するものです。その新しく割り当てられる土地を「仮換地」と言うのだそうです。我が家があった場所は、盛土して再度住宅地になるのですが、居住禁止地区になった土地の所有者はどうするのでしょう?
おそらく町や県が買い上げて新しい住宅地を買う、または交換することになるのでしょうか。

 本日、私に提示された仮換地は元の場所でした。元々角地だったのでほとんど移動もありませんでした。以前はびっしり住宅が連なっていましたが、今度は1ブロック5~6軒単位ぐらいに区切られた感じになるようです。しかも私の土地の北西と北東は公園になります。さらに同ブロックの南東も緑地です。三方を公園に囲まれた感じになるのでしょうか。海は北東に見通すことができそうです。

しかし海までの間に高さ13.2mまでかさ上げした国道45号線と、同じぐらいの高さに再度築く堤防があります。つまり堤防と国道の2重の防壁で津波に備えようというものです。私の土地も13.6mまで嵩上げされるとのことです。私が仕事で通っている東京・新橋の標高は海抜2~3mなのでその高さはかなりの感じがするでしょう。海に行くにはトンネルと階段になるのでしょうか。お年寄りには厳しいかもしれません。

 仮換地の面積は元より狭くなると言われておりましたが、結果ほぼ同じ面積でした。ただし、元は長方形でしたが、今度は正方形に近い形になるようです。また、今後の造成工事後に若干は提示の面積が変わる可能性があり、その場合は金銭で調整だそうです。(広くなったら私がお金を払い、狭くなったらもらう)。場所は同じですが住所表示は変わるようです。今は大槌町吉里吉里2丁目6番10号ですが。
 
 さて、実際には下水道などのインフラ整備を行い、予定では家を建てることができるようになるには後1年後だそうです。ご存知のように東北の復興工事は資材と人手の不足で、遅れに遅れております。一年後はどうなっているでしょう。

 そして私はどうしているでしょう。もう大勢の家族と住むことはあり得ないし、小さな小屋でも建てましょうか。晴耕雨読、飼犬釣魚、朝歌夕飲、献郷守墓もいいかもしれない。時々は誰か訪ねてくれるでしょう。