三陸ワカメのブログ

東日本大震災から11年過ぎました。お世話になった大勢の皆様へ感謝いたします。

再会

2014年08月10日 | 惜日
 2011年の暮れ近くになって岩手県警から連絡があった。「貴方との親子関係を否定できないDNAを持つ女性の情報がある。」とのことであった。但し、確認は年明けにしてもらいたいとの連絡であったので相談をして2012年の1月10日に釜石警察署を盛岡の叔母さんと訪ねた。釜石警察署も流されたので、仮設であった。
 母の登録番号は「東門46号」であった。最初に安置されたのが釜石製鐵所東門の遺体安置所であったからのようである。検案書によると、発見されたのは3月24日、場所は吉里吉里から船越湾を挟んだ対岸のあたりの海上で、家からは5~6Km離れているだろうか。
 母が身に着けていたのは紺地に白の水玉模様のスカーフ1枚であったそうである。遺体安置所の写真集にあったあのスカーフである。気になったはずだ。母の物だった。自宅で被災した場合、大抵の人は楽な格好をしており、それが洗濯機でかき回されるような津波に巻き込まれると、衣服を剥ぎ取られる。スカーフは結んであったので唯一体に残っていた。写真もあった。見せてもらい確認したが、ただしその写真は貰えないということであった。やむを得ない対応と思う。目に焼き付いてしまったが、また同じ写真は見たくない。
 母はすでに火葬されており、遺骨は釜石の日蓮宗千寿院に預かってもらっていた。役場の方に案内してもらい受け取った。この頃には身元が判る頻度がだいぶ落ちてきており、今年になって遺骨を受け取りに来たのは、あなた方が最初ですと言われた。「東門46号」という札が付いた骨壺があった。
 千寿院には母の遺骨以外にもまだ10個ぐらいの身元不明の遺骨が安置されていた。その後引き取ってもらえたであろうか。
 10ヶ月の間、お経をあげていただき守っていただいた和尚にお礼を言って、母の遺骨を頂き、妻やT叔父さん、盛岡の叔母さん、F・剛と自宅跡地に向かった。流されてから10ヶ月経っていたが、母はやっと家に帰ることができた。その後、吉祥寺(きっしょうじ)の和尚は不在だったので家族だけでお墓を開け、家族だけで納骨した。
 家を何十年も守り続け、家と一緒に流されながら、あの時母は誰の名前を呼んだろうかと思う。


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