アイリス あいりす 

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山本太郎の退席棄権について<1021>

2015-02-11 21:20:59 | 社会問題 日々雑感
世に倦む日々より転載しました。

http://critic20.exblog.jp/23464218/

山本太郎の棄権退場を支持する - 国会のテロ非難決議は拙速だ。】
先週(2/6)、参院でのテロ非難決議の採決のとき、山本太郎が一人だけ退席して棄権した。ネット上では大きなニュースになり、反響が轟々と沸き起こったが、テレビは夜のニュースで紹介せず、週末の報道番組でも一言も触れなかった。テレビに出演してギャラを稼いでいるキャスターやコメンテーターが、視聴者の前でこの問題について意見する場面は一度もなかった。翌日(2/7)の朝日の紙面(4面)を確認すると、驚くことに次のように書かれている。「参院は6日の本会議で、過激派組織『イスラム国』による邦人人質事件を受けた非難決議を全会一致で採択した」。政治面の隅の小さなベタ記事だ。「全会一致で採択した」とあり、山本太郎が棄権した事実を報じていない。これはまさに、撤退を転進と報じた戦中の新聞と全く同じではないか。テレビと新聞だけしか見てない者は、この重大な政治事件を何も知らないままでいる。ここでわれわれが想起するのは、2001年の9.11テロの直後、米連邦議会下院においてテロ報復の軍事行動を認める決議が採択された際、たった一人だけ、加洲選出の黒人女性議員バーバラ・リーが敢然と反対の投票をした歴史的な事実だ。420対1。罵声が浴びせられる中、報復反対の孤高の演説を発し、米国の良心と民主主義を守った。歴史は、彼女の選択が正しく勇気ある行動だったことを証明している。

今回の山本太郎の行動は、14年前のバーバラ・リーの文脈に即して顧みられるべき問題であり、日本の民主主義にとって重大で画期的な事件だ。本来、賛成であれ、反対であれ、マスコミの論者はこの山本太郎の行動について論評し、国民の前に自らの認識を示さなくてはいけない。マスコミはこの始終を大きく取り上げ、国民の中に議論を喚起しなくてはいけない。当然のことだ。米国での9.11テロ後の経緯があり、バーバラ・リーのモニュメンタルな功績があるのに、山本太郎の事件を報道しない日本のマスコミはどういうことか。2/6の参院決議で大事なことは、全会一致でそれが採択されたことではなく、一人の議員が退席棄権したことだ。直後にTwで発信したように、私は今回の山本太郎の行動を支持する。山本太郎が棄権の理由として挙げている論点は、基本的に合理的で妥当なものだ。正論である。特に重要なのは、このイスラム国人質事件なる事件が、現時点で全く検証されておらず、真相が藪の中であり、日毎に政権側の捏造工作によって真実が隠蔽されている中での非難決議であるという点だ。米国によるイラク戦争が、「大量破壊兵器の存在」という虚偽を口実にして発動された誤りであったことは万人の常識だが、そこから考えたとき、われわれは、国会で非難決議を上げる前に、このテロ事件を検証して真相を知る必要はないのか。

政府はあまりにも多くのことを隠している。後藤健二のイスラム国潜入も、湯川遥菜の中東渡航も、謎ばかり多く、疑惑はつのるばかりで、誰がバックで資金を提供していたのか、二人の背景の闇については何も解明されていない。また、11月に後藤健二の身柄が拘束されて以降の政府の対応も、秘匿され、嘘のアリバイ工作ばかりで上塗りされ、国民は真相から遠ざけられている。もし仮に、私が推測するように、後藤健二のイスラム国潜入が外務省から委託されたミッションであり、政府が関与した隠密工作であったなら、また、湯川遥菜の行動が自衛隊と繋がる右翼から資金提供を受けたもので、将来の自衛隊の中東作戦を睨んだ偵察任務を帯びた特務工作であったなら、それでも、この「テロ非難」の国会決議は有効で、全会一致で採択されるべきものになるのだろうか。後から、この人質事件の全貌が関係者の証言で判明したとき、深慮と熟考なく国会決議を逸ったことを後悔するということはないだろうか。参議院は「良識の府」と言われている。「再考の府」とも呼ばれている。衆議院が性急に決議したり可決させたものを、慎重に検討して総合的に判断するのが参議院の役割であり使命だ。決議の前に検証が先だという山本太郎の主張は正当であり、われわれは、イラク戦争突入の大義であった「大量破壊兵器」の偽計を思い出さなくてはならない。

思い出すべきことは他にもある。2008年にアフガンでペシャワール会の青年がタリバンに拉致殺害されたとき、国会はテロ非難決議を上げなかった。一昨年、アルジェリアの砂漠のプラントで、日揮関連の技術者が人質にされ10人が殺害される事件が起きたとき、国会はテロ非難決議を上げなかった。アルジェリアのテロ事件は1/16から1/21にかけて起きていて、ちょうど今回と同じカレンダーとタイミングになる。2013年の1/28に召集され開会された通常国会は、冒頭、全員が起立し、「アルジェリアで発生したイスラム武装勢力による人質事件の犠牲者の冥福を祈り、黙祷を捧げた」が、非難決議は上げていない。10人の日本人の命が奪われたこの事件は、悲劇の規模からしても今回よりも大きく、また、事件の内実と性格という点でも、被害者たちに何の不審も疑念もないストレートなもので、国会で何か決議を上げるとすれば、むしろ今回よりも言わば筋のいい事件と言うことができよう。だが、テロ非難決議は上がらなかった。ちなみに、このときも、いわゆる和装振興議員連盟なる集団が国会前で晴れ着姿の記念撮影会を催している。10人の犠牲者の霊を弔う追悼の場での彼らのドレスコードは、結婚披露宴のときに着用する色鮮やかな振り袖と紋付羽織袴だった。2年前のマスコミ報道で、彼らの作法に疑問の声が寄せられた記憶はない。

2年前のアルジェリア人質事件のとき、国会で非難決議が上がってないのに、どうして今回は全会一致のテロ非難決議が採択されたのだろう。また、決議案の文面に対して、どの党派からも慎重と自制を言う躊躇の声が上がらなかったのだろう。社民と共産さえもが、唯々諾々とこの決議を了承し、率先して全会一致の束(fascio)に入ったことは衝撃だ。山本太郎が棄権した一報がネットに流れたとき、右翼による悪罵と誹謗の嵐と同じほど多くTwで見かけたのは、共産シンパによる山本太郎への憎悪と袋叩きの声だった。右翼と左翼の草の根が、声を合わせて山本太郎に汚いヘイトスピーチを合唱していた。現在のところ、山本太郎を擁護する声は小沢シンパの一部に止まっていて、いわゆる左翼リベラルの代表選手と目される諸論者からは発信されていない。山本太郎の判断に賛成か反対か、その態度表明さえされておらず、黙って傍観している者ばかりだ。自分の持論を提起し、論点を提出し、市民の論議に供しようという者がいない。朝日新聞と同じである。本当にこの決議でいいのか。内容に問題はなかったのか。共産系の左翼は、この決議は軍事報復を容認するものではなく、単にテロを非難するものだから採択は問題ないと言って正当化している。だが、あの9.11テロ後の歴史でわれわれが学んだものは何だったのか。「テロと戦い」の大義名分の下で何が遂行され、何が結果し、何が禍根として残ったのか。
政府は今、「テロとの戦い」と「対テロの国際連帯」を錦の御旗にして、自衛隊海外派遣の恒久化法の制定に踏み出し、またスパイ防止法の検討を表明し、さらにJ-CIAの創設へ向けて疾走する構えを見せている。それだけでなく、まるで火事場泥棒的に、このテロ事件の余波と動揺が続く中、改憲の発議と国民投票の政治日程を安倍晋三が堂々と国民の前に宣告した。まさしく、9.11後の米国を彷彿とさせるショック・ドクトリンの政治の波が、この国に出現して猛威をふるっている。こうした状況で、護憲派(社民・共産)も含めた国会の全会一致でテロ非難決議を採択するという政治家の行動が、どれほど危険で平和を脅かす契機の媒介であることか。まさに、市民が最も恐れる戦争への道の一里塚であり、大政翼賛会の姿であり、ファシズムの現実そのものではないか。憲法9条を守ろうとする平和主義者ならば、ここは自制し、テロに憤激する感情的濁流に流されず、政権と右翼勢力がこのテロ事件をどう悪用しようとしているか、その政治こそを正視して踏み止まらないといけない。警戒を呼びかけ、あくまで断固たる平和主義を貫徹しなくてはいけない。それこそが、本来、護憲派たる社民・共産が示さなくてはならない立場であり、強引で拙速な決議への相乗りは自重し、賛成投票は留保するべきだった。よしんばマスコミに叩かれ大衆の支持を損ねても、バーバラ・リーの勇気と信念を見倣うべきだった。

この決議の文面に対して、政治学者が注意と留保を指摘する点があるとすれば、それは、「このようなテロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されないものである。我が国及び我が国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する」の部分だろう。「このような」という一語の前提はあるものの、このフレーズはテロリズム一般を悪として決めつけて完全に否定している。言うまでもなく、テロリズムとは、政治目的の達成のために暴力を使うことだ。それは、権力の側が弱者を攻撃する場合もあれば、その逆の弱者による蜂の一刺しの場合もある。歴史を振り返ったとき、わが国の明治維新はテロリズムの積み重ねで成就したこと、否定する者はあるまい。テロである桜田門外の変の成功により、志士の倒幕の気運は一気に高まった。龍馬はテロリストである。西郷もテロリストである。寺田屋事件のとき、遭難した龍馬は脱出のために奉行所の捕吏を2名射殺する。この刑事事件のため、龍馬は幕府手配の容疑者となり、近江屋事件の非業の運命を招く一因となった。小御所会議で慶喜側の巻き返しを受けた薩摩が、政局打開と革命断行のため、江戸の市中で放火・略奪・暴行の騒乱を惹き起こし、幕府を挑発して三田の薩摩藩邸を焼き討ちさせる事件があった。このテロを指示したのは西郷と大久保である。挑発は思惑どおり奏功し、鳥羽伏見の戦いへと流れ込んだ。

風は蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復還らず - 風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還 - 有名な史記の刺客列伝の一節。自刎した樊於期の首を手に下げ、割譲する燕の領土を描き込んだ地図を携え、その地図を巻いた中に匕首をひそませた荊軻が、秦王政の宮廷に単身赴く場面で、この悲壮な詩句が詠まれる。荊軻こそ、まさに東アジアの歴史世界における古典的なテロリストだった。高橋和巳が、テロリズム論で荊軻について書いていた記憶がある。荊軻の物語とそれを描いた司馬遷の筆が、中国古代史をどれほど感動的なドラマに仕上げていることか。荊軻の美学とヒロイズムへの哀惜と共感があり、テロリストの理念型の思想があり、それが遠く時空を超えて桜田門外の変にまで繋がっている。明治維新が成功し、それが近代日本の国家建設の原点となり基礎となったため、桜田門外や京での天誅のテロリズムは正義の美挙となった。意味が変わった。こうした歴史を視野に入れて考察したとき、テロリズム一般を否定する言説を国会決議で宣告すること、全会一致の束(fascio)に入ることが、本当に有意味で普遍的な政治であると言えるのだろうか。韓国の独立運動で顕彰される建国の英雄たちは、ほぼ例外なくテロリストの群像に他ならない。韓国の光復は、日本の明治維新と同じく、テロリズムの積み重ねで達成されている。テロとの戦いとか、テロの根絶とか、今、疑問なく言われている言葉が、歴史のパースペクティブからは、どれほど矛盾に満ちたナンセンスなものか。

決議にあっさり賛成票を投じる前に、国権の最高機関で国民の将来を決める者として、良識の府に選ばれた者として、せめてそのテロリズム論の内省は必要ではなかったのか。思考と抵抗が必要ではなかったのか。


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圧倒される記事ですね。
そのとおりだと思いました。

心底まことの政治家は山本太郎だけだったという
お粗末さを露呈したのに、
このブログの記事は、私たちのこころを、揺さぶっています。

気が付きなさいと、警告を発しているのです。
このような記事を書いてくれるブログは
めったにありません。

私たちはぜひ、共有すべきだと思います。

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