アイリス あいりす 

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徳川埋蔵金について

2017-06-24 12:48:23 | 歴史

http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%ef%bd%a220%e5%85%86%e5%86%86%ef%bd%a4%e5%be%b3%e5%b7%9d%e5%9f%8b%e8%94%b5%e9%87%91%ef%bd%a3%e3%81%af%e6%9c%ac%e5%bd%93%e3%81%ab%e5%ae%9f%e5%9c%a8%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b-%e9%9a%a0%e3%81%97%e5%a0%b4%e6%89%80%e3%81%af%ef%bd%a2%e8%b5%a4%e5%9f%8e%e5%b1%b1%ef%bd%a3%e3%81%8b%ef%bd%a2%e3%81%82%e3%81%ae%e5%a0%b4%e6%89%80%ef%bd%a3%e3%81%8b%ef%bc%9f/ar-BBD68FL?ocid=spartandhp#page=2    2017・6・24

「20兆円、徳川埋蔵金」は本当に実在するのか 隠し場所は「赤城山」か「あの場所」か?

徳川埋蔵金」が再び注目されている。

 その額は「当時の貨幣単位で約400万両、現在の価値で20兆円」ともいわれており、埋蔵金の存在を信じる愛好家らによって、いまでも群馬県の赤城山麓等で探索が続けられている。

 現在のところ、まだ発見には至っていないが、そもそも埋蔵金は「本当に存在」するのだろうか。

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「徳川埋蔵金」を解説する。

江戸城からこつ然と消えた幕府御用金

 大政奉還で江戸幕府が政権を朝廷に返上した翌年の慶応4(1868)年3月、官軍は東海道を下り、まさに江戸に攻め込もうとしていました。

 そんな中で、江戸薩摩藩邸で行われた「西郷隆盛(官軍)」と「勝海舟(旧幕府)」との交渉によって「江戸城の明け渡し」が決定され、翌4月11日、徳川慶喜の江戸退去をもって、城は官軍に接収されました。

 江戸城に入った官軍は、蔵の扉を次々と開け、そこから鉄砲など武器弾薬多数を発見します。しかし、肝心の「幕府御用金」があるはずの金蔵は、もぬけの殻。必死の捜索にもかかわらず、どこを探しても金銀は見つかりませんでした。

 官軍は蔵番の役人25人を厳しく尋問したものの、誰ひとりそのありかを白状しなかったため、彼らは全員処罰されました。

 そのわずか5日後の夜のこと。「ブルガリア国旗」を掲げ、甲板を外国人船員が行き交う「ある1隻の蒸気船」が、中国の上海に向け、人知れず横浜港を出航します。

 実は「その船に『幕府御用金400万両』が積まれており、ひそかに江戸を脱出した」という説が存在するのです。

 今回は「徳川埋蔵金」をテーマに、かねてより話題の赤城山麓ではない、「もうひとつの埋蔵金伝説」について解説します。

 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

徳川だけでない「埋蔵金」伝説

 Q1. そもそも「埋蔵金」なんて本当にあるのですか?

 今回の「徳川幕府御用金」をはじめ、その真偽はともかく、日本国内だけを見ても、いわゆる「埋蔵金伝説」は数多く存在します。代表的なのは、下記の4つでしょうか。

 【1】豊臣秀吉の埋蔵金(兵庫県川辺郡猪名川町)

 豊臣秀吉は最晩年、幼い息子秀頼の将来を案じ、自らが蓄えた4億5000万両と金塊3万貫(112.5トン)を大坂城からひそかに多田銀山へ運び、坑道の奥深くに隠して閉山したといわれます。

 そのありかを示すとされる巻物や絵図は、数多く伝わっています。

 【2】武田信玄の埋蔵金(山梨県南巨摩郡身延町)

 武田信玄は領国内に数多くの金山を所有し、これを「棒道(ぼうみち)」と呼ばれる軍用道路の各所に隠すよう、娘婿である腹心の部下、穴山梅雪に命じました。

 武田家が滅んだあと、穴山梅雪は「本能寺の変」の混乱時に、一揆に襲われ命を落としますが、「このとき梅雪が所持していた書付(かきつけ)にその埋蔵場所が記されており、一揆の者たちがその幾分かを手に入れた」といわれています。

 【3】明智光秀の埋蔵金(京都府亀岡市、滋賀県琵琶湖など)

 「本能寺の変」で織田信長を倒した明智光秀は、信長の居城である安土城に蓄えられた莫大な黄金を手に入れると、この一部を朝廷や貴族、味方の諸将へと配り、さらに味方を募るつもりでした。

 しかし、豊臣秀吉の素早い帰還によって明智光秀は破れ、「一族の明智秀満が、これを明智光秀の居城である亀山城ほか琵琶湖などに隠した」とする言い伝えや古文書が残されています。

 【4】帰雲城の埋蔵金(岐阜県大野郡白川村)

 世界遺産で知られる岐阜県白川郷の付近に、戦国大名内ヶ島(うちがしま)氏の居城である「帰雲(かえりくも)城」がかつて存在していました。

 内ヶ島氏は近郊に点在する金山経営で栄華を誇っていましたが、天正13年(1586年)11月29日の深夜に、この地域をマグニチュード8.1の大地震が襲います。

 その際、大規模な山崩れがあり、帰雲城は城下、住民もろとも跡形なく埋没してしまいましたが、一説にはそこに「5000億~2兆円の黄金が眠っている」ともいわれています。

 Q2. これらの埋蔵金は、すでに発見されたのですか?

 上記の例ではまだ見つかっていませんが、近年の都市開発等の工事現場で、掘り出された甕(かめ)から偶然、「大量の金銀貨幣」が見つかってニュースになるなど、実際の発見例はいくつもあります。

「赤城山」が有力な隠し場所?

 Q3. ズバリ、徳川埋蔵金はあるのですか?

 おそらくは存在したでしょう。

 確かに江戸後期には、幕府は度重なる財政危機に見舞われ、そのつど改革が行われるなど、非常に厳しい財政状況だったことは事実です。

 しかし、江戸城が明け渡された際に金蔵がまったくのからっぽだったというのはいかにも不自然で、その額はともかく、幾分かの備蓄が幕府にないわけがありません。

 Q4. では、有力な「隠し場所」の候補は?

 しばしば「群馬県の赤城山麓」という説がテレビなどでは取り上げられています。ただ、信憑性には疑問符がつき、いまだに埋蔵金の発見には至っていないのが現状です。

 Q5. なぜ「赤城山説」が取り上げられるのですか?

 赤城山麓説の根拠は、「幕末期に勘定奉行を歴任した小栗忠順(ただまさ)が、ひそかに自分の領国の赤城山付近に運んだから」といわれています。

 小栗は、開国後に幕府側でフランスと協力して「横須賀製鉄所」(後の横須賀造船所、現在は米軍横須賀基地になっている)を建設した人物です。

 勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介らと並ぶ開明的な幕臣で、官軍側が最も警戒した人物でした。そのため、このような説が流布されたようです。

 ただし、このほかに「もうひとつ有力な候補地」が存在します。それが、冒頭に挙げた「蒸気船」に関する、「ある不可解なエピソード」なのです。

 Q6. その蒸気船の「正体」は?

 仙台伊達藩の所有する「早丸」という軍船です。全長46メートル、2本マスト、418トン、当時最新鋭だったスクリュー動力の鉄製蒸気船でした。

 1858年にイギリスで建造され、アメリカの南北戦争で使用されたこともありました。1867年に仙台伊達藩がアメリカから12万ドルで購入し、「早丸」(宮城丸とも)として兵員、武器、物資輸送に活用しました。

徳川御用金は「早丸」の中に?

 Q7. その「早丸」が「幕府御用金」を積んでいたのですか?

 そう考えられる根拠は十分あります。

 「早丸」は、江戸無血開城が行われた5日後の、慶応4年4月16日夕刻(新暦では1868年5月8日)に、横浜を出港します。

 目的は「中国の上海で貿易を行うため」でしたが、実はそれらはすべて真っ赤なウソで、本当の使命は「徳川幕府御用金400万両の密送」だったといわれているのです。

 Q8. 具体的な根拠はあるのですか?

 決定的なものはありませんが、早丸の行動には不審な点が見られます。

 出航にあたり、早丸は仙台藩所属の日本船であるにもかかわらず、なぜか「ブルガリア国旗」を掲げ、外国人を多数乗船させて、外国船を装いました。

 さらには、わざわざ見通しの悪い夜に、水先案内人も手配せずに出発しています。

 Q9. でも戊辰戦争では「仙台藩は当初は官軍側」だったのでは?

 はい。仙台藩は当初の所属は官軍でした。

 ただし、実際には倒幕への意識は希薄で、旧幕府側との全面対決を回避していました。そしてその後、旧幕府側として奥羽越列藩同盟を結成し、官軍と激戦を繰り広げて敗北します。

 実は仙台藩主、伊達慶邦の妻(継室)は、15代将軍徳川慶喜の実妹で、慶邦と慶喜は義理の兄弟という間柄でした。

 Q10. そうなると、仙台藩は幕府側にとって「絶好の隠れ蓑(みの)」になりえますね。

 幕府御用金のような重要品を「一時的に預ける相手」としては最適です。

 官軍が江戸に入城しても、味方である仙台藩の江戸屋敷には詮索の手は及びません。さらに、仙台藩は大藩のため江戸市中に多数の上中下屋敷を保有しており、その上屋敷は江戸城から約4キロメートルの芝口(現在の港区東新橋、日本テレビのある旧汐留操車場のあたり)にありました。汐留川に面した屋敷内の石垣造りの船着き場から、直に東京湾への水運ルートに通じる絶好のロケーションです。

 ちなみにこの場所からは、汐留再開発工事の発掘調査で、堅牢な石垣の船着き場が発見されています。

 Q11. 「早丸」は、江戸の伊達屋敷ではなく、横浜から出航していますが?

 当時の東京湾は水深が浅く、大きな蒸気船は江戸城近くまで入れません。

 しかも、蒸気船は非常に目立つうえ、江戸一帯は官軍の監視が厳しくて迂闊(うかつ)な接近は危険です。横浜までの御用金の運搬は「一般の荷船や漁船を装ったもの」と考えられます。

 Q12. 「早丸」はその後どうなったのですか?

 三浦半島付近で遭難、沈没してしまいます。

 横浜を無事出発した「早丸」は、外洋に向かうため浦賀水道に入り、三浦半島の観音崎を経由して久里浜沖にさしかかりました。

 ところが、夜間で見通しがきかなかったことに加え、当時は目印となる灯台もなく、水先案内人を同乗させていなかったことから、「海獺島(あしかしま)と笠島の間にある暗礁」に乗り上げ、まもなく笠島の南方数百メートルの地点で沈没しました。このときの死者は約60人にも上り、39人が沖に出ていた漁船に救助されています。

 Q13. では「早丸」の積み荷の行方は? 海底のままですか?

 はい。いまも多くは海底に眠ったままです。この地域で漁を営む人々の話では、海獺島の南方約300メートルの場所に船が1隻沈んでおり、いまも網がよく引っ掛かるとのことで、これが「早丸」だという説もあります。

 事故当時、早丸には幕府御用金400万両のほか、メキシコ銀貨(当時の国際通貨)6万ドル、伊予別子銅山産の銅104斤、欧州産青銅製の器物40万斤、毛織物・生糸・小銃弾薬等の雑貨200箱、越前藩が作らせた黄金の灯籠、仙台藩の黄金53万両が一緒に積まれていたとされ、沈没後、付近の海岸には唐糸、生糸といった積み荷がいくつか漂着したようですが、金銀についての報告はありません。

 その後、明治から太平洋戦争中にかけて何度か探索されたものの積み荷は見つかりませんでしたが、昭和57(1982)年1月27日、天野富太氏による調査で、1個の重さが22キログラムある地金(インゴット)らしき銅21個が引き揚げられ、「早丸」のものではないかと注目を集めました。

 近年では、NHKの協力のもとで本格的な水中探査も行われましたが、「早丸」と同じ蒸気船らしき船体が発見されただけで、金銀のたぐいは発見されていません。

明治維新が遅れた可能性もあった

 もし、「早丸」に幕府御用金が積まれていたのが事実で、さらに不幸な遭難を逃れていたらどうなっていたでしょう。

 おそらく、船の行き先が上海というのは偽装で、旧幕府はこれらを軍資金にフランスやアメリカから軍艦や大量の武器を購入し、官軍に向けて反撃に転じていた可能性もあります。その場合、明治維新は実際よりも遅れるか、もしくは明治そのものが訪れなかったかもしれません。

 歴史には、まだ史実として認められていない不確かな伝承や事柄が数多く存在します。

 そうした一つひとつが具体的証拠の発見や研究の成果により事実として立証され、その成果を現代の私たちは「歴史」として学んでいます。近年も歴史の研究は進んでおり、ここ数十年で日本史もまた大きく進化を遂げています。

 歴史には、知れば知るほど、こうした「ロマン」がいくつも隠されています。歴史を学ぶことは、「教養」を高めると同時に、それ自体が「知的な楽しみ」でもあります。

 ぜひ歴史を学び直すことで、学生時代には味わいきれなかった「大人の知的な楽しみ」を実感してください

~~~~~~~~~~

♬ ということですね。

まだまだ金塊が日本にはありそうです。

権力者は誰もが同じことを考えるものですね。

いずれ、発掘されるかもしれませんね。笑

ピラミッドの内部を知る方法だって、あるのですから。


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