プラムディヤ・アナンタ・トゥール,『ガラスの家』の構造についてのコメントとして、〈ビッグ・ブラザー〉の訳語について。
オーウェルの『1984』(「一九八四年」"Nineteen Eighty-fore")の〈ビッグ・ブラザー〉の訳語についての話だが、山形浩生が書いてる記事があった。
cruel.org/jindex.html
≪オーウェル『一九八四年』をはじめた。やってみると、ビッグブラザーがカタカナなのがちょっとかんに障る。これは「兄貴」と訳すとか(あーっ!版)、「お兄さま」と訳すとか(萌え版)したいところだが、まあこれはいずれ。(2006/9/25) ≫
このジョークは、すでにアンソニー・バージェスの小説に原型があるのだが、山形浩生さんは、これを読んでいるのか?(あの人だから、読んでいそうだが……)
「お兄ちゃんが見てるぞー!」というと、なんか萌え系のセリフみたいだが、これはバージェスの小説中では、
Si-Abang Memandang Awak
というマレー語として登場する(小説の時代ですでにマレー語に翻訳されていたわけではないだろう)。マレー語のニュアンスでは、「お兄ちゃんが見てるぞー」にしかならない。独裁者のスローガン「ビッグ・ブラザー・イズ・ウォッチング・ユー」も、マレー語にするとこうなってしまう、というジョーク。(このバージェスの小説は、全編ブラック・ユーモアとパロディでマレー半島の架空の州を舞台に、独立直前のドタバタを描いたもの。)
マレー半島の架空の州の長官、スルタンに次ぐ位にあるアバンは、国中に自分のスローガンを載せたポスターが貼られる状況を夢見る。
しかし、彼の住民は、ポスターの意味を理解できないだろう。国民意識がない状態では、独裁者になる意味はない。スローガンは、マヌケな意味しかもたないだろう。
オーウェルが監視する側を人格のない無色透明の存在にしたことは、この作品『1984』を、なんにでも適用できる、普遍的な作品にする結果になった。そういう意味ではみごとだ。
一方、プラムディヤの『ガラスの家』は、監視する側を語り手にし、その葛藤を描く。
付録としてはさまれているしおりに、白石隆による「パンゲマナンとは誰か」という小文が載っている。
白石隆によれば、小説の時代である1910年代に、パンゲマナンのような存在、思想調査、政治警察のような組織は存在しなかったという。つまり、この『ガラスの家』のパンゲマナンという人格はフィクションである。ミンケの存在が早すぎた民族主義者であるように、パンゲマナンも早すぎる監視者である。
このように、フィクションとしての思想警察・政治警察のトップに、ミナハサ出身でフランスのソルボンヌ大学へ留学した〈混血児〉を設定した、というのがこの作品の視野をどーんと深く、広い世界へひろげる。
この監視者は、無人格の血の通っていない冷血漢ではない。単純な倫理主義者でも啓蒙主義を信奉する人物でもない。自身のコンプレックスを隠すため、暴力行為にはしるテロリストでもない。
それどころか、プリブミの覚醒を呼びかけるミンケを師とあおぐ。ミンケのまわりのイスラム同盟のプリブミや東インド協会のオランダ人よりもずっと深くミンケを理解する人間。
そのパンゲマナンは、開明的な政策を宣伝する東インド政庁の内部で、汚れた仕事を担う。
政庁にとって危険な民族主義、ジャーナリズム、労働運動を監視し、しかるべき手段を講ずるのが彼の任務である。
タイトル『ガラスの家』とは、植民地権力による監視の網、透明なガラスの中を示す。
植民地政庁の内部のパンゲマナンの上司たち、彼らはさまざまな意味でプリブミに理解を示すヨーロッパ人である。その中でパンゲマナンはひとり卑しい汚い仕事を受持つ。しかしまた、彼こそが一番パンゲマナンを理解しようとし尊敬している。内心の葛藤がこの第4部の焦点である。
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バージェスの小説は邦訳なし。1956年から59年に発表された。
Anthony Burgess, The Long Day Wanes A Malayan Trilogy, Norton Paperbacks, 1992
『ザ・ロング・デイ・ウェインズ』というタイトルで、三作がひとつにまとまっている(まだ全部読んでいないので詳細はそのうちに)