東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

萩原修子,「ベトナムのカトリック」,2002

2008-08-15 21:27:39 | フィールド・ワーカーたちの物語

『東南アジアのキリスト教』,めこん 所収

ベトナムのカトリックに関しては従来、植民地宗主国フランスとの結びつき、アメリカ合衆国の関与、社会主義政権とカトリック弾圧、という政治との関連の中で語られることが多かった。
著者のねらいは、その政治的側面ではなく、村の中で非カトリックとカトリックがどのように共存しているか、というオーラル・ヒストリー構築の試み。都市ではなく、農村の話です。

著者のまとめからすると、過去は圧倒的に時の権力に翻弄されているようにみえる。
しかし、村落レベルで聞き取り調査を行った印象は別だ。

わたしが特に興味をもったのは、次の点。

非カトリックはカトリックに対し「カトリックは忌日祭りをしないからお金がたまる」「祖先を拝まないとか、祖父母の命日も覚えていないなんて考えられない」と言う。
あれー!!
これって、古くは一向宗(浄土真宗)門徒がいわれていたこと、さらに外来のキリスト教や新宗教が言われていたことと同じじゃないか。

さらに著者の指摘するところによれば、非カトリックはそれでもカトリックを忌日祭りによんでいたし、カトリックも参加していた。
カトリックと非カトリックの婚姻で問題になるのは、祖先供養の儀礼であった、ということ。

カトリック側の忌日祭りや祖先供養へ対する態度は、しかし、近年急速に変化していて、カトリックでも積極的に参与する傾向がある。
これは、ここが重要なのだが、第2次バチカン公会議(1962-65年)での祖先祭祀の認可によるものではない、ということ。
(バチカンの決定によるものか否かはわからないが、お盆の頃、クリスチャンも墓参りしてますね。)
また、共産党政権による村落の儀礼の簡素化・廃止によって(戦後日本の政府や地方自治体による冠婚葬祭の簡素化に似ているように思えるが)、非カトリックが忌日祭りや祖先供養を止める、という成果はなかった、ということ。

カトリックも非カトリックも市場経済で豊かになると同時に祭祀が盛んになってきた、という傾向がみられる(これも日本やマレーシアと同じだな)。

あまり早とちりに結論を出すのもなんだが、少なくとも、政府の介入や共産党の方針とは別のモーメントがある、ということだ。(各自、読んでみてください。)

さらにわたしが興味をもつのは、フィリピンのカトリックと違い、東アジア・東南アジアの儒教圏のカトリックは、脱神秘・世俗化という面で、まったく違った傾向をもつものだ、ということ。

*****

そして、本稿の問題とはまったく別の方向の話であるが、儒教圏のカトリックは、なぜか支配者層に浸透していて、それと村落の民衆のカトリックはどう違うのか、という疑問。東アジア・東南アジアでは、吉田茂も李登輝も(蒋介石はプロテスタント系)、本論に登場するゴ・ディエン・ジェムもカトリックだ。


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