(この先。「アイヌ」ではじまるある映画を見ようとしている人には、ネタバレになります。また、「おらおらでひとりいぐも」の最後の1分の伏線回収内容も書いてしまいますので、これらのネタバレされたくない人は、見ないでください)
っていう映画「アイヌモシㇼ」をシネマチュプキ田端で土曜日(11月28日)見て来た!つまり、「おらおらでひとりいぐも」の後で、田端に行ってみて来たというわけ。
どういう映画かというと・・・ごめん、実は表題でネタバレしている。「イヨマンテ」をやるかどうかのお話。表面的には、それに尽きる。
映画を見ない人のためにイヨマンテを説明すると(映画の中でさんざんやるので、映画を見る人は予習不要)、イヨマンテは要するに熊祭りなんだけど、
手順
(1)子熊を育てる
(2)大きくなったら、その熊をいけにえにしてお祭りする
=それがイヨマンテ
(2-1)まず、クマを殺す→殺す矢をはなやというらしい
(2-2)その熊の頭をささげもの?にして
(2-3)飲めや歌えの大騒ぎ(宴会)をする
(2-4)その熊を送り出す(遠くに矢を放つ)
実施する理由:
小熊さんを育てることにより、小熊さんが、「人間の社会はいい社会だ」と思ってくれて、その小熊が死んで天国に行くことにより「人間のところはいいよ」と使えてくれて、クマやそのほか動物が生まれ変わって地上に(人間のところに)来てくれる→豊作になる
いやいやいやいや、勝手な論理でしょう。普通、クマ捕まえてとらえてそれを殺したら、クマは恨むわけで、その熊が天国に行っても、いいところだと伝えてくれるわけ名がない。もし、ほかのクマが来るとしたら、そりゃ、復讐に来ているんですよ!
というわけで、今の人には、到底受け入れられるお祭りではない。でも、それこそ、アイヌの人の中にあるものであり、「イヨマンテをやるべきだ!」という意見の衝突。結局やることになる物語・・・なんだけど、こう書くと、大した話ではなさそうに聞こえるけど、自分は好きな映画だった。
「おらおらでひとりいぐも」の最後の1分でいうことは、結局、人間の生きる意義は「命をつなげていくこと」(ビッグバンから孫へと)であり、それが親子愛となる。
で、その先、「つなげていく」ときに命だけでなく、文化や思いもつなげていくんだけど、そのうち、何をつなげていくかが問題になる。イヨマンテをつなげていくべきものか、たしかにそれがアイヌ文化の中心なんだけど・・・で観光としてそこでお金を取っているんだけど。
(ちなみに、「おらおらでひとりいぐも」では、この「何をつなげていくか」という問題を、最後の1分でヒントだけ与えて、見る人が解く形になっている。田中裕子さんは「ひらひらの服をきせる」という価値観を子供に押し付けてしまった。それを悔やんでいた。娘は「絵を描かせる」という価値観を押し付けようとした。それを偶然否定されたので(価値観の問題ではなく、多分お金がなかったんだと思う)、はじめはなじったが、多分、家でその間違いに気づいた。だから、孫を一人で送ったんだっていう流れが思いつくようになっている)
ちなみに、個人的なこのことに関する考えは以下の通り
・若い人は(アイヌに限らず)自分の土地の文化に心酔してもいいけど、
できれば、主人公のように、洋楽とか、ほかの文化、都会の文化に
触れたほうがいい
→他の文化に触れることにより、自分たちの文化の特徴がわかる
50とか60とか、そのくらいになって、自分たちの文化を守った
ほうがいいかどうかを考えればよい
・でも、文化の内容は、もっと早く(できるだけ早く)から教えた
ほうがいい。若いころにしか体験できないこともあるから。
ただ、わかっていない人に取り返しのつかないことをやらせる
べきではない
・文化が同化するべきか、アイデンティティを保つべきかは、
保ちたいグループと同化すべきというグループが分かれて、
緩やかにつながるという形がいい。
多くの人が強制的にやらせられて、純度が減るよりも、
小集団に分かれて、アイデンティティを守るグループと
そうでないグループができたほうがいい。ただ、そのグループ
間でエンパシー(他人の靴をはいてみる)を持ちながら、
緩くつながるのがいいのではないかな?
・同化することは悪くない。古い文化を捨てない限り、
新しいものは生まれてこないから。
っていう映画「アイヌモシㇼ」をシネマチュプキ田端で土曜日(11月28日)見て来た!つまり、「おらおらでひとりいぐも」の後で、田端に行ってみて来たというわけ。
どういう映画かというと・・・ごめん、実は表題でネタバレしている。「イヨマンテ」をやるかどうかのお話。表面的には、それに尽きる。
映画を見ない人のためにイヨマンテを説明すると(映画の中でさんざんやるので、映画を見る人は予習不要)、イヨマンテは要するに熊祭りなんだけど、
手順
(1)子熊を育てる
(2)大きくなったら、その熊をいけにえにしてお祭りする
=それがイヨマンテ
(2-1)まず、クマを殺す→殺す矢をはなやというらしい
(2-2)その熊の頭をささげもの?にして
(2-3)飲めや歌えの大騒ぎ(宴会)をする
(2-4)その熊を送り出す(遠くに矢を放つ)
実施する理由:
小熊さんを育てることにより、小熊さんが、「人間の社会はいい社会だ」と思ってくれて、その小熊が死んで天国に行くことにより「人間のところはいいよ」と使えてくれて、クマやそのほか動物が生まれ変わって地上に(人間のところに)来てくれる→豊作になる
いやいやいやいや、勝手な論理でしょう。普通、クマ捕まえてとらえてそれを殺したら、クマは恨むわけで、その熊が天国に行っても、いいところだと伝えてくれるわけ名がない。もし、ほかのクマが来るとしたら、そりゃ、復讐に来ているんですよ!
というわけで、今の人には、到底受け入れられるお祭りではない。でも、それこそ、アイヌの人の中にあるものであり、「イヨマンテをやるべきだ!」という意見の衝突。結局やることになる物語・・・なんだけど、こう書くと、大した話ではなさそうに聞こえるけど、自分は好きな映画だった。
「おらおらでひとりいぐも」の最後の1分でいうことは、結局、人間の生きる意義は「命をつなげていくこと」(ビッグバンから孫へと)であり、それが親子愛となる。
で、その先、「つなげていく」ときに命だけでなく、文化や思いもつなげていくんだけど、そのうち、何をつなげていくかが問題になる。イヨマンテをつなげていくべきものか、たしかにそれがアイヌ文化の中心なんだけど・・・で観光としてそこでお金を取っているんだけど。
(ちなみに、「おらおらでひとりいぐも」では、この「何をつなげていくか」という問題を、最後の1分でヒントだけ与えて、見る人が解く形になっている。田中裕子さんは「ひらひらの服をきせる」という価値観を子供に押し付けてしまった。それを悔やんでいた。娘は「絵を描かせる」という価値観を押し付けようとした。それを偶然否定されたので(価値観の問題ではなく、多分お金がなかったんだと思う)、はじめはなじったが、多分、家でその間違いに気づいた。だから、孫を一人で送ったんだっていう流れが思いつくようになっている)
ちなみに、個人的なこのことに関する考えは以下の通り
・若い人は(アイヌに限らず)自分の土地の文化に心酔してもいいけど、
できれば、主人公のように、洋楽とか、ほかの文化、都会の文化に
触れたほうがいい
→他の文化に触れることにより、自分たちの文化の特徴がわかる
50とか60とか、そのくらいになって、自分たちの文化を守った
ほうがいいかどうかを考えればよい
・でも、文化の内容は、もっと早く(できるだけ早く)から教えた
ほうがいい。若いころにしか体験できないこともあるから。
ただ、わかっていない人に取り返しのつかないことをやらせる
べきではない
・文化が同化するべきか、アイデンティティを保つべきかは、
保ちたいグループと同化すべきというグループが分かれて、
緩やかにつながるという形がいい。
多くの人が強制的にやらせられて、純度が減るよりも、
小集団に分かれて、アイデンティティを守るグループと
そうでないグループができたほうがいい。ただ、そのグループ
間でエンパシー(他人の靴をはいてみる)を持ちながら、
緩くつながるのがいいのではないかな?
・同化することは悪くない。古い文化を捨てない限り、
新しいものは生まれてこないから。