Takepuのブログ

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烏坎 困窮する民主自治への道

2013-02-21 09:32:02 | 時事

2011年9月に村幹部の不正が露呈、12月に抗議の大規模な村民デモがあった広東省汕尾市烏坎村。村幹部は農民が耕していた農地を無断で開発業者に売り渡し、不正な利益を得ていた。土地を取り返そうと抗議デモを起こし、村民自治組織を作って抵抗した。村幹部は私的な警備部隊を使って彼らを鎮圧しようとし、住民運動リーダーは暴力を受けて死亡した。汕尾市と広東省の党指導部は収束に乗り出し、この村幹部を罷免、村民たちの直接選挙による村自治委員会選出を認めた。2012年3月、村民抗議活動リーダーの林祖恋氏が新村長(村委員会主任)に選出され、「民主の村」と注目され、海外メディアも村を訪れて取材した。住民の不満を革命歌を歌って平等主義を思い起こさせようとした重慶市の薄熙来に対して、自治選挙を認めたのは当時の広東省党委書記の汪洋だといわれている。汪洋は村民自治の動きが共産党を批判、打倒するものではないと判断して、共産党が自治を与える(恩賜)ことで、共産党への尊敬はそのままに、混乱を解消しようとの道を選んだ、と見られている。1989年の天安門事件のように暴力で鎮圧するのではなく、共青団系の民主主義に対する考え方を反映したものだ、ともいわれた。

その中国民主化の萌芽の動きから1年、上海の東方衛視(衛星テレビ)が現地報告した番組を見た。
新執行部は土地の回収に手間取っていたが、一部は回収済み。今年いっぱいですべて回収できそうだ、と番組は伝えていたが、「烏坎村がすでにこの土地を改修した。2012.8.12」と、ペンキで殴り書きした塀に囲まれた土地は更地のままだ。

開発業者からの投資も呼べず、2年前に前執行部が開発業者と結託して作ったと見られる、形だけ高級別荘地も雑草が生え、ゴーストタウンとなっている。映し出された帳簿に書かれた土地収益はゼロ。

前執行部に息のかかった業者だろうから、民主選挙で選ばれた新執行部に非協力的なのは当たり前。投資をしないようにあちこちに手を回して、村を兵糧攻めする魂胆だろう。
村民は、民主選挙が実施されたときは熱狂的に新村長を支持する様子だったが、熱しやすく冷めやすいかの国らしく、土地や土地収益金の分け前がなかなかもらえないとなると、すでに現執行部に対して文句をいうなど、不平不満もつのっているようだ。

林村長は弱りきっている。病気で長期間休養していた、との外電情報もあったが、この東方衛視の報告には出演していて、「自分が村長になってもならなくても、自分自身に利益はないし、玄関をノックされたり、電話が鳴ったりするとビクビクする。今は後悔している。若手で能力がある人がいれば、出来れば代わってほしい」と弱音を吐いている。

広東省の研究者が番組でコメントする。「新執行部は行政経験がほとんどない。善人といえば善人だが、必ずしも能力があるとはいえない。共産党と政府の機関は、民主選挙で選ばれた執行部を放任することなく、具体的な指導をするべきだろう」と。
この辺が番組の、というか中国指導部の本音だろう。西側諸国はカンボジアだったりアフガニスタンだったり、イラクもそうだが、国連が治安維持、監視するなどして民主選挙を実施する。それは有権者に民主主義の考えが成熟していようがいまいが、民主選挙ができれば民主主義国家の仲間入りが出来たとして、一定の評価をしめす。
おそらく当局の意を受けた東方衛視の番組作りはこの辺を勘案して、識者に「民主選挙で選ばれても行政経験が乏しく、結局われわれ共産党が指導しなければならない」と、共産党独裁から離れて村民自治を進めようとする動きを牽制しているのだろう。


烏坎事件が動いていた一昨年末から昨年上旬にかけては、西側メディアもどんどん現地に入り、選挙の様子をリポートしていたが、西側、特に米国が重視する「民主選挙」の結果が、東方衛視の報告どおりとすれば、民主主義の成熟にはまだまだ時間がかかるということだ。
今後、もし、せっかちな村民たちが急いで結果を求めようとすると、あるいは村長がその圧力に負けて民主選挙で得られた地位を放棄し、早々に共産党に返上したとすれば、せっかく手にいれた民主主義を自ら手放すことになる。

あるいは村の収益が得られず村が路頭に迷い、結局共産党の力を借りなければならないように、当局自身が開発業者らに烏坎に手を出さないように声をかけているのかもしれない。

おかれている状況は違うが、ワイマール憲法下で自由・民主を享受していたはずのドイツ国民が、多額の賠償金支払いに苦しみ国内経済が疲弊し、結果としてナショナリズムが高揚、ナチス政権を自ら選び、ファシズムの台頭を招いた、悲しい歴史を思い出す。

烏坎村より西、広州に近い側にある汕尾市の汕尾港付近に行ったことがある。山が迫り平地が少なく耕地に乏しく、あとは海だけ。ほとんどが漁で生計を立てている街だ。汕尾からは多くの密航者が香港を目指し、成功すると単純労働者不足ということもあり首尾よく香港で正規の労働者として登録され一定期間の7年を過ぎると香港居住権を得られた。妻や子供を香港に呼び寄せたが、父親が香港居住権獲得前に生まれた子供は香港居住権を得られない規定があった。香港返還直前、兄弟姉妹でいつ生まれたかで香港にいられない子供がいる家族がクローズアップされ、姉だけ大陸に戻り、祖父母に育てられていた。その子供が汕尾出身だった。その辺の事情を知りたくて深センからタクシーをぶっ飛ばして一時間ほど、汕尾で取材した。

伝統的に出稼ぎ者の多い町、密航者の多い町で、パラボラアンテナを設置し海外のテレビ放送を見られる3階建ての大きな家は、出稼ぎでひと稼ぎして帰ってから建てたものだった。それを見ればまた住民たちは密航して海外で稼ぎたいと欲望に駆られる。失敗して摘発されても懲りずに何度も密航を企てるものもいた。海外とのつながりが多いことから出稼ぎ先で民主的な考え方も体に染み付き、烏坎の民主化運動もそういう人々が思想的にバックアップしたという。


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