Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

人民日報論文2題

2010-10-27 19:13:16 | 時事
26日、西南部の大都市・重慶でデモが発生したという。新華社は英語版だけで、このデモを報じたという。ここにおいて、中国共産党内部の権力闘争の余波に端を発したと見られる官製デモが、当局のコントロールを超えた形のデモに変遷して、当局は全力でデモを抑える段階に入っていると見られる。

27日付「人民日報」は、1面に「正確な政治方向に沿って、政治体制改革を積極的に緩やかに推進しよう」と題する鄭青原氏の署名論文を掲載した。

つまるところ、1979年から社会主義中国に即した政治改革を進めてきており、共産党の指導のもと、市場経済運営のための管理機構改革を進め、指導幹部の終身制を廃止することから国家公務員制度を打ちたて、末端の住民自治から町や村レベルの選挙制度改革を行うなど住民の参政権を拡大し、権力監視機能を強化し腐敗予防のためのシステムを整えた・・・などの政治体制改革を進めている、とこれまでの政治改革の成果を紹介している。
そして現在の非常時を乗り越えるためにも政治体制改革には客観的な規律が必要だ、としている。そのために党の指導、党の全体掌握、党が中心となって協調する作用が必要であり、社会主義制度のもとでの生産力発展、人民民主と国家の安全を維持し、中国的特色のある社会主義政治発展の道を堅持することが必要であり、決して西側の政治体制モデルに照らした多党制、三権分立のようなものとは一緒にしてはいけない、としている。

尖閣諸島を実効支配する日本に対するデモの形を借りて実際は中国の民主化、政治改革を求めている、とデモの性格をみて「我々は政治改革を進めてきているし、今後も進めていく。それは西側諸国のようなシステムの民主化ではない」との中国指導部の覚悟と決意を示し、デモを行おうとする不満分子に理解を求めているのではないか。この論文は26日夜から「翌日の人民日報に掲載される」として新華社のサイトに掲載されており、より広範囲に読んでもらいたい、との意図があるのではないか。

この前日、26日付「人民日報」の3面では、「法に基づいて理性をもって愛国の情熱を示そう」とする論文を掲載、中国各地で発生している反日デモについて「一部の群集が、一部の日本人の誤った発言に対する義憤の表現として、愛国の熱情の表現としてのデモを起こしたことは完全に理解できる。ただ、中国外務省のスポークスマンが数日前に『我々の主張は法に合う形で理性的に愛国の情熱を表現するものでなければならない。非理性的、違法的な行為には賛成できない。多くの人々が愛国の情熱を自らの本分である仕事や勉学という実際の行動に転化して改革を安定的に進めていくことを信じる』と指摘しているように、簡単ではあるが皆の考えをあらわしていると思う」としている。
そして「日本は重要な隣国であり、両国間には敏感で複雑な問題があるが、戦略的互恵関係を維持し国家や人民の利益を守ることが重要だ。改革開放政策から30余年、四川大地震、北京五輪の成功、青海の土石流などの自然災害のなか、心を合わせて困難に立ち向かうことが必要だ」と若者の愛国心をくすぐっている。

これまで成都、綿陽、徳陽など四川省、陝西省西安、河南省鄭州など反日デモが発生した地域の指導者を見ると、実はいずれも共産党青年団出身など、胡錦濤総書記に近い、と見られる人々だ。彼らの動静を追ったわけでもなく共青団出身というだけで、必ずしも胡錦濤系列の団派に属しているとは単純にはいえないとは思うが、あくまでも想像の範囲で考えると、トップが胡錦濤系列で、五中全会に出席するため地元を離れて北京に行っている間にデモを起こされたとは考えられないか。地方権力にねじれが生じ、団派の省委書記を突き上げ、その結果として胡錦濤総書記らを窮地に追い込めるため、団派系指導者の都市で当初デモが発生した、という見方だ。
公安部門はかつて全人代常務委員長を務めた喬石が握り、喬が引退する際、曽慶紅・前国家副主席に継承されたといわれる。いうまでもなく江沢民前国家主席の懐刀で、父親に紅軍幹部・曽山を持つ太子党のまとめ役だ。曽慶紅引退後は公安部門のリーダーシップは太子党に引き継がれたと見てよい。

ところが26日にデモが起きた重慶トップの党市委書記は薄熙来。大連市長、遼寧省長などを経て重慶に来た。八大元老(八老)の一人、薄一波・元副首相の次男。つまり太子党だ。反日デモがついに太子党のお膝元に波及してしまったということで、重慶でのデモ発生は他地域とは性格が違う。重慶から管理外デモになったというのではなく、その兆しはすでに徐々にあって、重慶が象徴的な地域だということだ。中国当局が人民日報に論文を連日掲載し、必死になってデモの火消しをする理由はここにあるのではないか。