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そのひとことは

2016-09-19 11:59:47 | 日記



 不思議なささやき声はベルガラス、シルク、ガリオンがマロリーの海岸に到着したときから始まった。最初はガリオンの頭の中のざわめきよりもわずかに聞き取れる程度だったが、南に近づくにつれ、しだいにはっきりとした言葉があらわれるようになった。それは、家、母、愛、死などといった意味の言葉だった。それが聞こえるやいなや、ガリオンの注意はたちどころに引きつけられるのだった。
 かれらが後にしてきたモリンド人の土地とは違い、北マロリーは起伏の多い、一面の茎の太い濃緑色の草で覆われた土地だった。それらの起伏を縫うようにして流れる名前のない川が、鉛色の空の下でうねりくねっていた。三人が太陽を見なくなってからもう数週間がたっていた。乾いた曇天は〈東の海〉に去り、極氷の香りを含んだ凍えるような烈風が、南へむかう一行の背中に激しく吹き続けていた。
 ベルガラスはいまやすみずみまで注意力を働かせていた。馬にゆられながら居眠りする、これまでの旅でおなじみの姿はもう跡形もなかった。ガリオンはときおり、隠れた危険を探し求める老人の微妙な気配を感じることさえあった。魔術師の探索はごくひそやかで、ゆっくりとした吐息のように軽くためらいがちだった。それは草のあいだを吹きわたる風の音にたくみに隠されていた。
 一方シルクもまた油断なく馬を進め、耳をすますために立ち止まっては、ときおり空気の匂いを嗅いでいるようだった。ときおりかれは馬をおりて、ほんのわずかなひづめの音でも聞き逃すまいとばかりに草地に耳をあてさえした。
「まったく面倒くさいことですな」小男はふたたび馬にまたがりながら言った。
「うっかり何かに足を突っ込むよりは、少し注意過剰ぎみくらいの方がいい」ベルガラスは答えた。「ところで何か聞こえたかね」
「ミミズが土の中で這いまわっている音が聞こえたようでしたが」シルクは快活な口調で言った。「何せ、やっこさんときたら無口なもんでね」
「それがどうだというんだ」


「別に聞かれたから答えたまでですよ」
「まったく、いいかげんにしてくれ」
「でもわたしは確かにそう聞かれたよな、ガリオン」
「まったくおまえさんの性癖ときたら、わしがこれまで出会ったなかで一番悪質だぞ」
「わかってますよ」シルクは答えた。「だからこそやめられないんじゃありませんか。まったくわれながらどうしようもない性癖でね。ところでいつ頃になったら森らしきものに出会えるんですか?」
「あと数日はかかるだろう。われわれはまだ森林限界から離れたところにおるのでな。この場所は木が育つには夏が短く、冬が長すぎるのだ」
「それにしても恐ろしく退屈な場所じゃありませんか」シルクはどこまでも同じように続く草の起伏を眺めながら言った。
「このような情況なら多少の退屈さには耐える方をわしは選ぶな。もう一方の可能性はさほど愉快なものでもないぞ」
「確かにそうですね」
 一行はなおもひざ丈ほどもある灰緑色の草を踏み分けるようにして進んだ。
 再びガリオンの内部でささやきが始まった。「わが声を聞くがいい。〈光の子〉よ」、これまでのはっきりしないざわめきの中でひときわ鮮明に聞こえた。そこには有無をいわせないような一種の強制力があった。ガリオンはさらによく聞くために耳をすました。
(やめておいた方がいい)おなじみの乾いた声がした。
(何だって?)
(やつの言うことなど聞く必要はない)
(やつって誰だ?)
(むろん、トラクだ。いったい誰だと思っていたのかね)
(それじゃ、もう目覚めたのかい?)
(まだだ。完全に目覚めたわけではない――だが、もう眠っているわけでもない)
(いったいかれは何をしようというんだろう)
(おまえに働きかけて、やつを殺すのをやめさせようとしているのだ)
(でもトラクはぼくのことなんか恐れちゃいないはずだ)
(むろんやつだって恐ろしいのさ。トラクといえど、これから何が起こるのかまったくわからないのだ。おまえがやつを恐れているのと同じくらい、やつも恐れているのだ)
 そのひとことでガリオンの心はたちまち軽くなった。(今度あれが聞こえてきたらどうすればいい?)
(別にたいしたことはできん。ただやつの命令に従うことだけは避けた方がいい)
 三人はいつものように、二つの丘に囲まれた人目につきにくい窪地に野営した。そしていつものように居場所を知られないために、火を焚かなかった。
「そろそろ冷たい夕食は飽きてきたな」シルクは干し肉のひと切れを噛みしめ、ぐちをこぼした。「この牛肉ときたら、おんぼろの革を噛んでいるみたいだ」
「あごを丈夫にするにはうってつけだろうが」ベルガラスが言った。


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