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日本製反日運動

2012年10月06日 15時53分19秒 | 日記
九月十日に尖閣諸島の国有化が閣議決定されると、中国ではぽつぽつと反日デモが起こり、十五・十六日には、七二年の国交正常化以来最悪の、打ち壊し・略奪・焼き討ちが発生した。デモの参加者は、八十年代以後に生まれた二十代・三十代の若者が多数を占め、「打倒日本帝国主義」と書かれた横断幕を掲げ、また、日本人が尖閣に上陸していないにも関わらず、「釣魚島から出て行け」と口々に叫んでいた。それは、彼等がある種の情報操作の下にある事を示している。この様な運動は、建国以来たびたび行われた反日教育の成果である事は言うまでもないが、その責任は、中共政府だけにあるのではない。

今から二十年前の平成四年(九二年)十月二十三日~二十八日、天皇陛下が中国を訪問された。天安門事件(八九年)で欧米諸国から非難を受けていた中国に、日本が手を差しのべた形での御訪中で、その前後、中国国内では、NHKドラマの「おしん」や、テレビアニメの「一休さん」が放送され、ちょっとした日本ブームが起きていた。北京建国門外には、ニューオータニ系列のホテル「長富宮飯店」の列びに、高級品や日本食を扱う「ヤオハンデパート」もできて、その一角は「日中友好」の象徴のようだった。

天皇陛下の御訪中が、中国国内で大々的に報じられた事もあり、また、バブル経済が弾けたばかりで、はまだまだ裕福であった事もあり、日本人はたいていの場所で好意的な対応を受けた。私はこの頃、ちょうど中国に住んでいて、フィールドワークに出かけた先々で、図書館や博物館で、とても親切に応対して貰ったのを覚えている。恐らく、当時中国にいた日本人は、皆、同様の幸せを享受していたはずだ。但し、共産党にとって、日本人が人民から笑顔で迎えられる事が、歓迎すべき状況であったかは、また別の話だ。

その後、九三年 江沢民が国家主席となり、九四年村山内閣成立。
九五年五月三日、村山首相が江沢民国家主席と中南海で会見。

五月四日の「人民日報」第一面、中央の見出しには「江主席 村山首相と会見、双方は歴史に対して正しい態度をとり、将来に目を向ける事が両国の関係を押し進め更に発展させるとの意を示した」と書かれている。江沢民は会見の中で「我々は永遠にこの痛ましい歴史を心に刻むべきである」と言っており、また、「李鵬総理 村山首相と会談、二十一世紀に向かう中日関係を更に発展させたいとの意向を示した。村山首相は中国人民英雄記念碑に花輪を捧げた」との、写真付きの記事が掲載された。

また同新聞の四面にも、「日本の首相 抗日戦争記念館を参観、村山の書き置きには、歴史を直視し、日中友好と永久平和を祈る、と」と、蘆溝橋を参観した時の様子を載せている。靖国神社には参拝しなくとも、中国人民英雄記念碑には花輪を捧げている写真を見て、私は、村山富市という人物に、この時、日本の首相である自覚があったのか非常に疑問に思っている。

この会見から約一ヶ月後の、「人民日報」九五年六月十二日号に、初めて大々的に排日の記事が掲載された。三面、一番上に大きく「中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念す」と書かれ、この連載について、「…中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念し、愛国主義を発揚し、民族の精神を奮い立たせるために、人民解放軍総政治部宣伝部と本紙国内政治部は、共同で《この歴史を忘れるな》という特集を組み、専門家の意見・レポート・インタビュー・写真等のついた一連の原稿を掲載します。本日は、中国国際戦略学会会長 徐信の著した《血まみれの歴史 偉大な貢献》の一文を掲載し、この特集の序章としたいと思います。」、と説明している。

この特集記事は、新聞のまるまる一面を使って、大々的に行われた連載だった。《この歴史を忘れるな》「中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念す」という特集について、インターネットで検索すると、九五年十月一日に解放軍出版社から、一冊276ページの本にまとめられて出版されている。この新聞連載は長期に渡る物であったと思われる。私は、この「人民日報」の記事が、その後十数年間続く排日運動を方向付ける記事であったと考えている。また、この記事と、村山・江会談が無関係であるはずはない。

連載が始まった頃、私は中国人からよくこんな事を聞かれた、「この間まで中日友好、中日友好と言っていたのに、日本はこれでいいのか?」。これは、天皇陛下の御訪中に象徴される日本への親しみと、反日愛国運動に対する不信感を示していた。

この頃の「人民日報」は、一部十六面の新聞で、一面まるまる使って排日の記事を連載するのは、日本人は言うに及ばず、中国人の目から見ても、常軌を逸した扱いだと言わざるを得なかった。私は、村山内閣か、或いは、天皇陛下の御訪中をお膳立てした人々が、中国に対して抗議をするだろうと思っていた。御訪中については、多くの反対があり、反対を押し切った人々には、友好を持続させる責任があるはずだったからだ。だいたい、この様な記事が新聞に連載されては、日本人は中国に住んではいられない。邦人の安全の為にも、何か策を講ずると思っていた。

しかし、日本政府は中国の排日運動を看過したのみならず、九八年、排日運動の首謀者である江沢民を招聘し、宮中晩餐会に呼び、日中共同宣言まで発表した。八九年には、民主化運動に理解を示して追放された趙紫陽の後任として、学生の弾圧を肯定して党総書記に就任、九六年には、中華民国総統選に圧力を掛けるために台湾海峡にミサイルを撃ち込んでいる。だいたい、江沢民を嫌いだと言う中国人には大勢会ったが、好きだという中国人には会ったことがない。日本のリベラルとか、親中派と呼ばれる人々は、江沢民の政策や中国での評判を調べたのか、或いは、中国の排日運動をどう思っていたのか非常に疑問だった。

更に不思議なのは、《この歴史を忘れるな》の掲載された「人民日報」は、共産党の機関紙で、当時は発行部数一千万部を誇る中国第一の新聞だ。八九年に「天安門事件」が起こって僅か六年、当時、日本大使館や領事館に勤めていた官僚や日本の職員が、中国の新聞を読んでいないはずはない。文化大革命が上海の「文匯報(ぶんわいほう)」から始まったように、排日愛国運動も、「人民日報」から始まった。彼等はこの記事を、どう考えていたのだろう。

さて、九五年から始まった排日運動は、○五年四月への反日・排日デモへと結実して行く。当時、日本大使館、上海領事館、広州日本領事館での反日・抗日デモ及び投石は、七二年、国交が正常化されて以来、中国に於ける最大の反日抗議活動と言われた。これは○八年の四川大地震で、日本が中国に自衛隊を送るまで続く事になる。九五年以後、十数年も排日運動を続けさせてしまった事は、不愉快なばかりでなく、日本にとって良くない事は言うまでもない。

ここで少し、中国の歴史を振り返ると、

一九三七年七月七日の蘆溝橋事件に始まる日中の戦争は、四五年のポツダム宣言受諾で終わりを告げる。日本が引き上げて後、四六年六月からは、人民解放軍(共産党軍)と国民党軍との国共内戦が始まる。これは四九年十月の中国建国まで、三年余り続く熾烈な権力闘争だった。建国後は、一九五○年から五三年までは朝鮮戦争参戦、五八年から六○年までは「大躍進政策」の失敗で餓死者を出し、六六年から七六年までは「文化大革命」による大混乱、七九年には中越戦争勃発、中国はベトナムへ侵攻するも撤退。

何か、戦争と政策の失敗とを繰り返しているような歴史だが、九五年当時、五十代以上の中国人は皆、上記の歴史を体験していた。それで、政府が排日運動を展開しても、ある種、事実を公平に見ていて、「俺は、人民解放軍の腐敗の方が問題だと思うね。」そんな話しをしていた。しかし、若い世代には経験がない。反日愛国教育で育った二十代・三十代の若者は、上の世代よりも、日本に対する不信感は強いのではないかと思う。

一九八九年の「天安門事件」は、学生を中心に民主化の要求から起こったと言われている。それは、一党独裁に対する不満や、経済が好調であった日本や欧米に対する憧れの過激な発露であり、中国共産党の終焉を国内外に知らせる事件であった。その為、人民の憧れが、相変わらず資本主義陣営にある事を示す日本ブームは、共産党にとって、必ずしも歓迎すべき状態ではなかったはずだ。江沢民にとっては、天安門事件の頃から国家主席に就任した後も、依然として厄介な状態に変わりはなく、共産党と自己の保身の為に、有効な政策を打ち出す必要に迫られていたのではないだろうか。

江沢民は国家主席に就任すると、九三年、毛沢東生誕百周年を祝うための記念行事を盛大に行い、それまで、大躍進や文革で地に落ちていた毛沢東の評価、それは、そのまま共産党の評価につながる物であったが、を一変させた。一方で、天安門事件の反省に立って行われた小平の改革開放政策は、国内外に受け入れられ、九二年の南巡講話以降、経済は目に見えて良くなっていった。その結果、日本ブームはしだいに収束し、民衆の不満を毛沢東(共産党)への愛着に転嫁させる事に成功していた。こうして準備を整え、九五年、江沢民は、村山総理が来華すると、その様子を見て安心し、大々的に排日運動を始めた。

実は、村山富市氏と江沢民氏は、このとき始めて会見したのではなく、前年十二月、ジャカルタで会見し両国の事を話し合っている。その時、既にある程度の計画ができていたのかもしれない。

江沢民については、小平の後押しがなければ何もできないであろう、と言うのが、周囲の中国人達の評価だった。その評価の真偽はともかく、国家主席としての地盤を固めるためにも、また、それまでの共産党政治の失敗を払拭するのにも、排日運動は有効だった。その上、村山富市氏は日本の首相でありながら、江沢民氏のよき協力者だった。

要するに、九五年から始まった排日運動は、村山富市氏と江沢民氏が意気投合した事で始まり、中国通と呼ばれる人々が抗議をしなかったために十年以上も続く事になった。その間、日本人の財産も名誉も失われたばかりでなく、ウイグルやチベットに於いて中共の暴走を許し、共産主義を標榜しながら、貧富の差が天地ほども開いた社会を創り上げる事に、結果として日本は荷担する事になった。

天皇陛下が御訪中になった前後は、中国に住む日本人は、尊敬と憧れを以て中国人に迎えられた。しかし、村山・江の展開した謝罪外交の後では、中国人の日本人に対する態度は、次第に、馬鹿にしたぎすぎすした物に変わって行った。ひょっとすると、日本政府よりも中国人民の方が、天皇陛下の御訪中を、重く受け止めていたのかも知れない。

さて、平成二十四年九月十五日、報道に因れば、山東省青島では、デモ参加者がパナソニックなど十社近くの機材を破壊。若者が乱入し、破壊の後放火し、トヨタの販売店では百台以上が焼失、隣接するホンダの販売店も全焼、日産の販売店でも約十台の車がひっくり返された。イオンの「ジャスコ」も、通りに面したガラスが割られ、店に侵入した若者により商品は略奪された。湖南省長沙では、日系スーパー「平和堂」も被害を出している。それらの企業は、デモの参加者が叫んでいたような「帝国主義」を振り回すような事はなく、国交回復以降、日中友好を推進させ、中国経済の発展を支え、人民に職場を提供してきた企業だったはずだ。これが、村山・李鵬の言う、二十一世紀に向かって発展させた中日関係の結果なのだろうか。

しかも、北京、西安、長沙、青島等の地域では、デモが私服の警察官によって募集され、率いられ、甚だしい場合には、派出所の所長が率先して日本車輌を破壊していた。その行為は当日のうちに、中国特有の「人肉捜査」(ネットや人手を使って情報を集め個人を特定する事)によって明らかになり、地元のミニブログに警察官の個人情報が写真と共に掲載された。政治目的のために、組織的暴力に訴える事がテロリズム(terrorism)であるとするなら、これらは、まさしくテロであると言えた。

外務省のホームペジによれば、七九年に開始された対中政府開発援助(ODA)は、これまでに、有償資金協力(円借款)約三兆一三三一億円、無償資金協力一四五七億円、技術協力一四四六億円、総額約三兆四千億円以上の援助を実施している。また、独立行政法人国際協力機構(JICA)は、○三年度までの累計で一万五千人を超える研修員を、海外技術者研修協会(AOTS)が人材の育成のために、累計で二万二千人を超える研修員を中国から受け入れ、JICAが五千人の専門家を中国に派遣している。

これだけの資金援助や人材交流を行い、国交が回復して四十年も経過しながら、中共は意に沿わぬ事があると、話し合いという手段を放棄して暴力に訴える。デモという手段で脅迫をする。一方、日本側も援助をしながら、中国各地で虐殺事件が起こっても抗議もせず、援助によって建設された建物に日本の名が冠される事なく、尖閣沖で海上保安庁の巡視船に中国漁船が体当たりをしても、中国側の圧力に屈し、関係者を殆ど無条件で釈放した。九月十五・十六日の、反日愛国デモに参加した若者を作り出したのも、根は同じだ。この関係は、どう考えても成熟した大人の関係ではない。

国交が回復して今年で四十年。区切りの年には、来し方を反省し、行く末を考えるべきだ。昨日まで子供だった物が、俄に大人になる事はないにしても、日本が援助した国家がどの様な物で、これからどう変化して行くのか、反日愛国デモを契機に、日本国に軸足を置いて、中国という国を見つめ直すべきと思う。中南海の内情を知ることは難しいが、少なくとも、普通の大陸・台湾の中国人が知っている程度の、或いは、欧米人が知っている程度の情報は、日本人も知っているべきで、その様な情報集積の上に、日本人らしく、新たな日中友好を模索する時が来ていると思うのだ。

【日いづる国より】中山成彬、日本と周辺国の違いを銘記せよ[桜H24/9/28]


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