※当ブログの「漢字の話」及びその他の記事については、許可無く転載を禁じます。何処かで全く同じ内容を発表している場合には、ご一報ください。私が、ねじ込みます。
・仮名の勝利
日本と中国の文字で決定的に違うのは、日本には平仮名と片仮名がある所です。仮名の「名」は、ここでは文字の意、「仮」はかりの意味です。真実の文字である「真名(まな)」に対して、仮(かり)の文字で「仮名」と言います。「真名」とは言うまでもなく漢字の事です。「仮名」は、古くは奈良時代の万葉仮名から始まり平安時代に発達したと言われています。
漢字は中華文明の結晶です。一方「仮名」は、西洋諸国の文字と同じ「表音文字」です。日本は、奈良・平安の時代に、既に、漢字と表音文字を持っていました。「仮名」を持ったことで、日本と中国の間に大きな差が生まれました。
小野妹子が遣隋使として海を渡ったのが607年。そこから千三百年ほど時代は下って、清朝末期の頃の事。
清の学問は決して低い物ではなく、皇帝の教養も高く、『康煕字典』『四庫全書総目提要』等、歴史に残る名著も刊行されました。清朝は考証学が盛んで、著名な学者も多く輩出しています。例えば、『史記志疑』を著した梁玉縄などは、個人的に相当に好きな学者ですし、段玉裁の『説文解字注』は、文字の研究をする者は、必ず持っていなければならない本です。しかし、5万字とはいかなくとも、四書五経に書かれた文字を自在に読み書きできるようになるためには、長期に渡って学ばなければなりません。そのため、生活に余裕のある一部の読書人を除いて、一般民衆は、漢字からは取り残された状態が続いていました。文盲率が異常に高かったのです。
例えば、1929年~1933年に、金陵大学農業経済系が華南で人口調査をしたところ、現地の文盲率は83%であったと発表しています。総人口が約4億人と言われた時代の話しです。全国で八割とすると、単純計算で3億2千万人が文盲だったことになります。西部地区の文盲率は更に高く、エドガー・スノーの『中国の赤い星(原題Red Star over China)』には、当時の西北地区では、少数の地主・官吏・商人を除いて殆ど文字を知らず、文盲率は95%前後であった、と出てきます。
一方、日本の江戸時代はどうだったかと言えば、町人文化が花開き、洒落本、滑稽本、人情本、読本、草双紙が大流行。式亭三馬や十返舎一九等の流行作家も大活躍で、事件が起きれば瓦版が売れに売れ、飛脚だって書状を抱えて日本中を走り回っていました。
各藩には藩校があり、町には寺子屋があり、江戸の就学率は70%~86%と世界一。武士は言うに及ばず、貧しい町人の子供までも寺子屋に通い「読み書き算盤」を身につけていました。武士は漢籍に親しみ、初学の子供は「いろは歌」48文字を覚えれば仮名が使えるようになります。それ以上の文字は各人の状況に応じて、素養に応じて、仕事の必要性に応じて身につければよいわけです。読み仮名さえ振ってあれば、画数の多い漢字も読む事ができます。漢字を学ぶ時にも、読み仮名は非常に役に立ったはずです。そうして、江戸庶民の学力が普遍的に高かったからこそ、明治維新は成功し、その後は破竹の勢いで富国強兵に精を出し、明治38年(1905年)、遂に日露戦争に勝利します。
ところが隣の清国では、イギリスがアヘンを売り込み、当然、清朝政府に阻止されて1840年に戦争になり、清朝は敗北して1842年に南京条約を結ばされたのを皮切りに、1856年にはイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に、清の官憲が臨検を行った所、イギリスに対する侮辱であるとして英仏に攻撃され、1858年に天津条約を、1860年に北京条約を結ばされます。一方ロシアは黒竜江下流沿海州に侵入し、1871年にイリーを占領。日本が日清戦争(1894年~1895年)に勝利すると、清朝の弱体を見抜いて、列強の要求は激しさを増します。
当然の事ながら、清国国内では42年以降、外国人に対する反発が徐々に高まり、1899年、白蓮教の分派の義和団が、外国人の一掃を訴えて乱を起こします。清朝はこれを支持して列強に宣戦布告。たちまち惨敗。1840年にイギリス一国にさえ勝てないのですから、日本を含む列強八ヶ国に勝てるわけがありません。この様な状況でしたので、日本が日露戦争に勝利した事は、清の人々に衝撃をあたえました。同じ東亜の日本がロシアに勝利した事で、絶大な刺激を与えたと言われています。
清の心ある人々は、中国の文字はあまりに複雑で、振り仮名がなければ普及させることはできないと考えていました。清末には、西洋から来た宣教師が各地を訪れており、彼等は現地の言葉を覚えるために、漢字に現地の音をローマ字で書き取った物を使用していましたが、それよりも、日本の仮名のように、漢字から作り出された物がよいだろうと考える人々がいました。
ちょうど日清戦争の最中に進士に及第した官僚で、王照(1859年~1933年)という人がいました。彼は早くから教育に着目し、1898年、光緒帝が富国強兵を夢見て康有為・梁啓超等を登用し、大規模な改革を試みた時、彼は光緒帝に面会して日本に行幸する事を勧めます。皇帝は王照の意見に興味をもたれたようですが、戊戌の変法は、西太后を中心とする守旧派の反対と袁世凱のクーデターに遭い、わずか百日で失敗。皇帝は幽閉され、康有為は海外に逃亡、王照も日本に亡命せざるを得なくなりました。
しかし、王照は国を棄てたわけではありません。あくまでも一時的な避難であり、日本での経験を祖国で生かそうと考えていました。
彼は、義和団事変が起きると密かに帰国し、天津で「官話合声字母」の制作に熱中します。「官話」とは公用語の事で清代の標準語、北京官話とも言います。「字母」とは漢字の発音符合です。これは漢字を省略させた記号で、中国で始めて作られた振り仮名でした。彼は私塾を開いて「官話合声字母」の普及に努めます。しかし、宣統帝が即位すると、漢字は神聖にして侵すべからざるものとして「官話字母」の学習は禁止され、王照はまたも都を追われ江蘇省に逃れます。その後も王照は「官話合声字母」の普及に努めますが、この「字母」の価値を最初に認めたのは、皮肉な事に袁世凱でした。
袁世凱の幕僚の厳修という人物が、漢字に「官話合声字母」をつけた物を袁世凱の子に勧めたところ、幼い袁克文がすらすらと漢字を覚えてしまいました。それを見た袁世凱が驚き、王照に面会を求めました。しかし、王照は、袁世凱のクーデターを恨んで、会いに行く事はありませんでした。
その後、1911年10月10日に広東にいた孫文が挙兵し、1912年1月に孫文が南京で臨時大総統に就任。2月、宣統帝(溥儀)が退位して清朝が滅び、中華民国が成立します。3月、袁世凱が、北京で臨時大総統に就任。同年7月、新政府の下で「注音字母(ちゅういんじぼ)」を採用する案が通過し、その準備機関として1913年に「読音統一会」が開かれました。
王照は南方に逃れていましたが、新政府の招聘に応じて「読音統一会」の会員として北方に帰り、選挙によって副議長に就任。この「読音統一会」での研究をもとに、民国7年(1918年)、「注音字母」は中国語の表音符合として正式に公布される事が決定されました。
『大漢和辞典』を開くと、「親字」の下「反切」の隣に奇妙な記号が書かれています。これが「注音字母」です。これらの文字は、古代の篆文や『説文解字』に出てくる漢字の要素を基に作られています。例えば、「ㄅ」の字は“包”の古い字体です。『説文解字』に「勹(ほう)は裹(か)なり」とある所から取っています。勹も裹も「つつむ」の意です。「ㄆ」は“扑・撲”の原字が“攴”であるところから取っています。“攴”は略して“攵”とも書き、当然、両方とも「ぼく」の音です。「注音字母」は基本的に、篆書や部首、漢字の一部から取って作られています。
以下は「注音字母」を漢語ピンインと対比したものです。別に、覚える必要はありませんが、例としてあげておきます。
注音字母 漢語ピンイン 用例
ㄅ b 巴(ㄅㄚ, bā)
ㄆ p 杷(ㄆㄚˊ, pá)
ㄇ m 马(ㄇㄚˇ, mǎ)
ㄈ f 夫(ㄈㄨ, fu)
万 v
ㄉ d 地(ㄉˋ, dì)
ㄊ t 提(ㄊˊ,tí)
ㄋ n 你(ㄋˇ, nǐ)
ㄌ l 利(ㄌˋ, lì)
ㄍ g 告(ㄍㄠˋ, gào)
ㄎ k 考(ㄎㄠˇ, kǎo)
兀 ng
ㄏ h 好(ㄏㄠˇ, hǎo)
ㄐ j 叫(ㄐㄠˋ, jiào)
ㄑ q 巧(ㄑㄠˇ, qiǎo)
广
ㄒ x 晓(ㄒㄠˇ, xiǎo)
ㄓ zhi【zh】主(ㄓㄨˇ, zhǔ)
ㄔ chi【ch】楚(ㄔㄨˇ, chǔ)
ㄕ shi【sh】书(ㄕㄨ, shū)
ㄖ ri【r】 如(ㄖㄨˊ, rú)
ㄗ zi【z】 在(ㄗㄞˋ, zài)
ㄘ ci【c】 才(ㄘㄞˊ, cái)
ㄙ si【s】 苏(ㄙㄨ, sū)
ㄚ a 大(ㄉㄚˋ, dà)
ㄛ o 多(ㄉㄨㄛ, duō)
ㄜ e 何(ㄏㄜˊ, hé)
ㄝ ê 爹(ㄉㄝ, diē)
ㄞ ai 晒(ㄕㄞˋ, shài)
ㄟ ei 雷(ㄌㄟˊ, léi)
ㄠ ao 少(ㄕㄠˇ, shǎo)
ㄡ ou 收(ㄕㄡ, shōu)
ㄢ an 山(ㄕㄢ, shān)
ㄣ en 申(ㄕㄣ, shēn)
ㄤ ang 上(ㄕㄤˋ, shàng)
ㄥ eng 生(ㄕㄥ, shēng)
ㄦ er 而(ㄦˊ,ér)
|或一 yi【i】 尼(ㄋㄧˊ, ní)
ㄨ wu【u】 努(ㄋㄨˇ, nǔ)
ㄩ yu【ü】 女(ㄋㄩˇ, nǚ)
連音との比較
注音字母 漢語ピンイン 用例
ㄚ ya【ia】 加(ㄐㄚ, jiā)
ㄛ yo【io】 哟(ㄛ, yō)
ㄝ ye【ie】 阶(ㄐㄝ, jiē)
ㄞ yai
ㄠ yao【iao】 嚣(ㄒㄠ,xiao)
ㄡ you【iu】 休(ㄒㄡ, xiū)
ㄢ yan【ian】 掀(ㄒㄢ, xiān)
ㄣ yin【in】 巾(ㄐㄣ, jīn)
ㄤ yang【iang】江(ㄐㄤ,jiāng)
ㄥ ying【ing】 京(ㄐㄥ, jīng)
ㄨㄚ wa【ua】 抓(ㄓㄨㄚ, zhuā)
ㄨㄛ wo【uo】 挪(ㄋㄨㄛˊ, nuó)
ㄨㄞ wai【uai】 怪(ㄍㄨㄞˋ, guài)
ㄨㄟ wei【ui】 归(ㄍㄨㄟ, guī)
ㄨㄢ wan【uan】 官(ㄍㄨㄢ, guān)
ㄨㄣ wen【un】 滚(ㄍㄨㄣˇ, gǔn)
ㄨㄤ wang【uang】壮(ㄓㄨㄤˋ, zhuàng)
ㄨㄥ weng【ong】 中(ㄓㄨㄥ, zhōng)
ㄩㄝ yue【üe】 靴(ㄒㄩㄝ, xuē)
ㄩㄢ yuan【üan】 犬(ㄑㄩㄢˇ, quǎn)
ㄩㄣ yun【ün】 群(ㄑㄩㄣˊ, qún)
ㄩㄥ yong【iong】穹(ㄑㄩㄥˊ, qióng)
教育で救国を主張した王照は、苦心して「官話合声字母」を作り上げ、その考え方は「注音字母」として昇華し、現在では「漢語注音符合」と名前を変えて台湾で使われています。私はピンインで中国語を習いましたので、ピンインの方が使い勝手がよいのですが、漢字から作られた「注音字母」は、なかなか興味深いとも思っています。そうして、この文字の成立の影に、王照の日本での経験がある事は、動かしがたい事実なのです。
まだまだ続きます。
・仮名の勝利
日本と中国の文字で決定的に違うのは、日本には平仮名と片仮名がある所です。仮名の「名」は、ここでは文字の意、「仮」はかりの意味です。真実の文字である「真名(まな)」に対して、仮(かり)の文字で「仮名」と言います。「真名」とは言うまでもなく漢字の事です。「仮名」は、古くは奈良時代の万葉仮名から始まり平安時代に発達したと言われています。
漢字は中華文明の結晶です。一方「仮名」は、西洋諸国の文字と同じ「表音文字」です。日本は、奈良・平安の時代に、既に、漢字と表音文字を持っていました。「仮名」を持ったことで、日本と中国の間に大きな差が生まれました。
小野妹子が遣隋使として海を渡ったのが607年。そこから千三百年ほど時代は下って、清朝末期の頃の事。
清の学問は決して低い物ではなく、皇帝の教養も高く、『康煕字典』『四庫全書総目提要』等、歴史に残る名著も刊行されました。清朝は考証学が盛んで、著名な学者も多く輩出しています。例えば、『史記志疑』を著した梁玉縄などは、個人的に相当に好きな学者ですし、段玉裁の『説文解字注』は、文字の研究をする者は、必ず持っていなければならない本です。しかし、5万字とはいかなくとも、四書五経に書かれた文字を自在に読み書きできるようになるためには、長期に渡って学ばなければなりません。そのため、生活に余裕のある一部の読書人を除いて、一般民衆は、漢字からは取り残された状態が続いていました。文盲率が異常に高かったのです。
例えば、1929年~1933年に、金陵大学農業経済系が華南で人口調査をしたところ、現地の文盲率は83%であったと発表しています。総人口が約4億人と言われた時代の話しです。全国で八割とすると、単純計算で3億2千万人が文盲だったことになります。西部地区の文盲率は更に高く、エドガー・スノーの『中国の赤い星(原題Red Star over China)』には、当時の西北地区では、少数の地主・官吏・商人を除いて殆ど文字を知らず、文盲率は95%前後であった、と出てきます。
一方、日本の江戸時代はどうだったかと言えば、町人文化が花開き、洒落本、滑稽本、人情本、読本、草双紙が大流行。式亭三馬や十返舎一九等の流行作家も大活躍で、事件が起きれば瓦版が売れに売れ、飛脚だって書状を抱えて日本中を走り回っていました。
各藩には藩校があり、町には寺子屋があり、江戸の就学率は70%~86%と世界一。武士は言うに及ばず、貧しい町人の子供までも寺子屋に通い「読み書き算盤」を身につけていました。武士は漢籍に親しみ、初学の子供は「いろは歌」48文字を覚えれば仮名が使えるようになります。それ以上の文字は各人の状況に応じて、素養に応じて、仕事の必要性に応じて身につければよいわけです。読み仮名さえ振ってあれば、画数の多い漢字も読む事ができます。漢字を学ぶ時にも、読み仮名は非常に役に立ったはずです。そうして、江戸庶民の学力が普遍的に高かったからこそ、明治維新は成功し、その後は破竹の勢いで富国強兵に精を出し、明治38年(1905年)、遂に日露戦争に勝利します。
ところが隣の清国では、イギリスがアヘンを売り込み、当然、清朝政府に阻止されて1840年に戦争になり、清朝は敗北して1842年に南京条約を結ばされたのを皮切りに、1856年にはイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に、清の官憲が臨検を行った所、イギリスに対する侮辱であるとして英仏に攻撃され、1858年に天津条約を、1860年に北京条約を結ばされます。一方ロシアは黒竜江下流沿海州に侵入し、1871年にイリーを占領。日本が日清戦争(1894年~1895年)に勝利すると、清朝の弱体を見抜いて、列強の要求は激しさを増します。
当然の事ながら、清国国内では42年以降、外国人に対する反発が徐々に高まり、1899年、白蓮教の分派の義和団が、外国人の一掃を訴えて乱を起こします。清朝はこれを支持して列強に宣戦布告。たちまち惨敗。1840年にイギリス一国にさえ勝てないのですから、日本を含む列強八ヶ国に勝てるわけがありません。この様な状況でしたので、日本が日露戦争に勝利した事は、清の人々に衝撃をあたえました。同じ東亜の日本がロシアに勝利した事で、絶大な刺激を与えたと言われています。
清の心ある人々は、中国の文字はあまりに複雑で、振り仮名がなければ普及させることはできないと考えていました。清末には、西洋から来た宣教師が各地を訪れており、彼等は現地の言葉を覚えるために、漢字に現地の音をローマ字で書き取った物を使用していましたが、それよりも、日本の仮名のように、漢字から作り出された物がよいだろうと考える人々がいました。
ちょうど日清戦争の最中に進士に及第した官僚で、王照(1859年~1933年)という人がいました。彼は早くから教育に着目し、1898年、光緒帝が富国強兵を夢見て康有為・梁啓超等を登用し、大規模な改革を試みた時、彼は光緒帝に面会して日本に行幸する事を勧めます。皇帝は王照の意見に興味をもたれたようですが、戊戌の変法は、西太后を中心とする守旧派の反対と袁世凱のクーデターに遭い、わずか百日で失敗。皇帝は幽閉され、康有為は海外に逃亡、王照も日本に亡命せざるを得なくなりました。
しかし、王照は国を棄てたわけではありません。あくまでも一時的な避難であり、日本での経験を祖国で生かそうと考えていました。
彼は、義和団事変が起きると密かに帰国し、天津で「官話合声字母」の制作に熱中します。「官話」とは公用語の事で清代の標準語、北京官話とも言います。「字母」とは漢字の発音符合です。これは漢字を省略させた記号で、中国で始めて作られた振り仮名でした。彼は私塾を開いて「官話合声字母」の普及に努めます。しかし、宣統帝が即位すると、漢字は神聖にして侵すべからざるものとして「官話字母」の学習は禁止され、王照はまたも都を追われ江蘇省に逃れます。その後も王照は「官話合声字母」の普及に努めますが、この「字母」の価値を最初に認めたのは、皮肉な事に袁世凱でした。
袁世凱の幕僚の厳修という人物が、漢字に「官話合声字母」をつけた物を袁世凱の子に勧めたところ、幼い袁克文がすらすらと漢字を覚えてしまいました。それを見た袁世凱が驚き、王照に面会を求めました。しかし、王照は、袁世凱のクーデターを恨んで、会いに行く事はありませんでした。
その後、1911年10月10日に広東にいた孫文が挙兵し、1912年1月に孫文が南京で臨時大総統に就任。2月、宣統帝(溥儀)が退位して清朝が滅び、中華民国が成立します。3月、袁世凱が、北京で臨時大総統に就任。同年7月、新政府の下で「注音字母(ちゅういんじぼ)」を採用する案が通過し、その準備機関として1913年に「読音統一会」が開かれました。
王照は南方に逃れていましたが、新政府の招聘に応じて「読音統一会」の会員として北方に帰り、選挙によって副議長に就任。この「読音統一会」での研究をもとに、民国7年(1918年)、「注音字母」は中国語の表音符合として正式に公布される事が決定されました。
『大漢和辞典』を開くと、「親字」の下「反切」の隣に奇妙な記号が書かれています。これが「注音字母」です。これらの文字は、古代の篆文や『説文解字』に出てくる漢字の要素を基に作られています。例えば、「ㄅ」の字は“包”の古い字体です。『説文解字』に「勹(ほう)は裹(か)なり」とある所から取っています。勹も裹も「つつむ」の意です。「ㄆ」は“扑・撲”の原字が“攴”であるところから取っています。“攴”は略して“攵”とも書き、当然、両方とも「ぼく」の音です。「注音字母」は基本的に、篆書や部首、漢字の一部から取って作られています。
以下は「注音字母」を漢語ピンインと対比したものです。別に、覚える必要はありませんが、例としてあげておきます。
注音字母 漢語ピンイン 用例
ㄅ b 巴(ㄅㄚ, bā)
ㄆ p 杷(ㄆㄚˊ, pá)
ㄇ m 马(ㄇㄚˇ, mǎ)
ㄈ f 夫(ㄈㄨ, fu)
万 v
ㄉ d 地(ㄉˋ, dì)
ㄊ t 提(ㄊˊ,tí)
ㄋ n 你(ㄋˇ, nǐ)
ㄌ l 利(ㄌˋ, lì)
ㄍ g 告(ㄍㄠˋ, gào)
ㄎ k 考(ㄎㄠˇ, kǎo)
兀 ng
ㄏ h 好(ㄏㄠˇ, hǎo)
ㄐ j 叫(ㄐㄠˋ, jiào)
ㄑ q 巧(ㄑㄠˇ, qiǎo)
广
ㄒ x 晓(ㄒㄠˇ, xiǎo)
ㄓ zhi【zh】主(ㄓㄨˇ, zhǔ)
ㄔ chi【ch】楚(ㄔㄨˇ, chǔ)
ㄕ shi【sh】书(ㄕㄨ, shū)
ㄖ ri【r】 如(ㄖㄨˊ, rú)
ㄗ zi【z】 在(ㄗㄞˋ, zài)
ㄘ ci【c】 才(ㄘㄞˊ, cái)
ㄙ si【s】 苏(ㄙㄨ, sū)
ㄚ a 大(ㄉㄚˋ, dà)
ㄛ o 多(ㄉㄨㄛ, duō)
ㄜ e 何(ㄏㄜˊ, hé)
ㄝ ê 爹(ㄉㄝ, diē)
ㄞ ai 晒(ㄕㄞˋ, shài)
ㄟ ei 雷(ㄌㄟˊ, léi)
ㄠ ao 少(ㄕㄠˇ, shǎo)
ㄡ ou 收(ㄕㄡ, shōu)
ㄢ an 山(ㄕㄢ, shān)
ㄣ en 申(ㄕㄣ, shēn)
ㄤ ang 上(ㄕㄤˋ, shàng)
ㄥ eng 生(ㄕㄥ, shēng)
ㄦ er 而(ㄦˊ,ér)
|或一 yi【i】 尼(ㄋㄧˊ, ní)
ㄨ wu【u】 努(ㄋㄨˇ, nǔ)
ㄩ yu【ü】 女(ㄋㄩˇ, nǚ)
連音との比較
注音字母 漢語ピンイン 用例
ㄚ ya【ia】 加(ㄐㄚ, jiā)
ㄛ yo【io】 哟(ㄛ, yō)
ㄝ ye【ie】 阶(ㄐㄝ, jiē)
ㄞ yai
ㄠ yao【iao】 嚣(ㄒㄠ,xiao)
ㄡ you【iu】 休(ㄒㄡ, xiū)
ㄢ yan【ian】 掀(ㄒㄢ, xiān)
ㄣ yin【in】 巾(ㄐㄣ, jīn)
ㄤ yang【iang】江(ㄐㄤ,jiāng)
ㄥ ying【ing】 京(ㄐㄥ, jīng)
ㄨㄚ wa【ua】 抓(ㄓㄨㄚ, zhuā)
ㄨㄛ wo【uo】 挪(ㄋㄨㄛˊ, nuó)
ㄨㄞ wai【uai】 怪(ㄍㄨㄞˋ, guài)
ㄨㄟ wei【ui】 归(ㄍㄨㄟ, guī)
ㄨㄢ wan【uan】 官(ㄍㄨㄢ, guān)
ㄨㄣ wen【un】 滚(ㄍㄨㄣˇ, gǔn)
ㄨㄤ wang【uang】壮(ㄓㄨㄤˋ, zhuàng)
ㄨㄥ weng【ong】 中(ㄓㄨㄥ, zhōng)
ㄩㄝ yue【üe】 靴(ㄒㄩㄝ, xuē)
ㄩㄢ yuan【üan】 犬(ㄑㄩㄢˇ, quǎn)
ㄩㄣ yun【ün】 群(ㄑㄩㄣˊ, qún)
ㄩㄥ yong【iong】穹(ㄑㄩㄥˊ, qióng)
教育で救国を主張した王照は、苦心して「官話合声字母」を作り上げ、その考え方は「注音字母」として昇華し、現在では「漢語注音符合」と名前を変えて台湾で使われています。私はピンインで中国語を習いましたので、ピンインの方が使い勝手がよいのですが、漢字から作られた「注音字母」は、なかなか興味深いとも思っています。そうして、この文字の成立の影に、王照の日本での経験がある事は、動かしがたい事実なのです。
まだまだ続きます。