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『日中両国のためにならない村山談話』

2013年12月08日 01時31分28秒 | 日記
『日中両国のためにならない村山談話』

・始めに
二○一三年九月二日、「人民網・国際論壇」に『日本前首相村山富市:日本は如何にして同じ過ちを回避すべきか?(「日本前首相村山富市:日本如何避免重蹈覆辙?」)』と題する記事が掲載された。※「レコードチャイナ」には、『村山富市元首相が人民日報に寄稿、「現行の日本国憲法の改変は絶対に許してはならない」―中国』という題で取り上げられていたので、読まれた方もいらっしゃると思う。※Record China、日本の中国関連の時事を報道するニュースサイト

「レコードチャイナ」は、村山氏の「寄稿」と報じているし、「人民日報」にも「日前首相村山富市」と書かれている。しかし、原文の最後には「作者は日本の前首相、本社駐日本記者 劉軍国が取材し整理した」とあり、この記事は、インタビューを「整理」した物である、と断っている。

記者の整理した文章に、どれ程「人民日報」(=中共)の見解が反映されているのか、或いは、そういう物を「寄稿」と言うのか疑問の残る所だが、先ずは、「人民日報」の記事を紹介したい。

「私は若い頃からずっと、日本はアジアの一員として、地政学的な観点からにせよ、歴史から見るにせよ、アジア諸国と密接な関係にある。日本は、アジア諸国と信頼できる強固な基礎を築く必要がある、と考えている。これも私の人生の信条である。

私は首相に当選すると、先ず、韓国・中国等アジアの国家を訪問し、身を以て、第二次大戦中の日本の植民地統治と侵略により、アジアの隣国に拭い去る事の出来ない悲しみをもたらした事を感じた。私の首相の任期中、ちょうど第二次大戦終結50周年の歴史の節目にあたり、日本は、この前に犯した戦争の犯罪行為を深く反省し、同時に全世界に向けて、今後はあくまで平和・民主主義から国際協調に及ぶ発展してゆく道を歩む事を、表明しなければならなかった。この様な背景のもと、私は“村山談話”を発表した。

私が“村山談話”を発表したのは、日本が今後もしアジア及び世界各国と平和共存を望むのであれば、必ず過去の歴史に対して徹底的に清算しなければならない。私は、まさに“村山談話”を通じて、中韓等アジアの国家が、日本は歴史問題において過去とは明確に一線を画した事を知り、並びに、次第に理解し日本を受け入れ始める、と考えたからだ。これにより、第一次安倍内閣を含む、その後の歴代内閣も、皆、明確に“村山談話”を継承すると表明した。

しかし、安倍は二度目に首相に就任すると、“‘村山談話’を手つかずで継承する事は出来ない”と公言し、並びに、“侵略の定義は国際上まだ定論はない”と述べ、明確に“村山談話”を改正すべきと表明した。
安倍がどの様に“村山談話”を改正するつもりなのかは解らないが、しかし、もし侵略を否認するのであれば、まさに関係各国は、それ以前の日本の歴代首相の発言に対して、深刻な不信感を抱くだろう。第二次大戦終結後、日本の歴史教育は近現代史を教えることが少なく、目下、大多数の日本人は過去の戦争を理解しなくなっている。

正確に過去の歴史を学習する事は、隣国との友好関係を築く助けになるばかりでなく、日本の今後の発展に対しても重大な意義を具えている。

私は、日本の政治の右傾化を非常に心配している。日本の政治家はより一層日本の近現代史を学習する必要がある、とりわけ、日本がかつてアジアの隣国に対して行った植民地統治と侵略のあの歴史を。そうして始めて同じ過ちを回避する事ができる。

日本はまさに《ポツダム宣言》、《カイロ宣言》及び東京裁判の判決を受け入れた事により、やっと国際社会に復帰することができた。もし、日本の首相と閣僚がA級戦犯を奉る靖國神社に参拝すれば、それは日本がその前に受け入れた国際条約を否認する事を意味している。私は、首相と閣僚は靖國神社に参拝すべきではないと思う。

最近、憲法改正が重大な課題となっているが、しかし、私は、基本的人権を尊重し、平和と民主主義を基調とする日本の現行憲法を改正することは、絶対に許さない。広島の原子爆弾記念館の石碑には“過ちは繰り返しません”と刻まれている。私は、これは広島県の人民の誓いだけではなく、あらゆる日本国民の誓いであるべきだと考えている。平和国家になる事は、日本国憲法の指示するところのものだ。

(作者は日本の前首相、弊社駐日本記者 劉軍国が取材して整理した(作者为日本前首相,本报驻日本记者刘军国采访整理))

(《人民日报》2013年09月02日 03 版)」

この記事の主題は、「正確に過去の歴史を学習する事は、隣国との友好関係を築く助けになるばかりでなく、日本の今後の発展に対しても重大な意義を具えている。」という部分にある。更に、記事の内容は、《ポツダム宣言》から現在の安倍政権に到るまで、中共が特に注目する歴史について触れており、その間の日中の歴史を振り返るのに簡便だ。そこで、この稿では、記事の内容を検証しながら、何故、九月二日に村山氏の名を冠した記事が掲載されたのかと言う事と、「尖閣諸島」は日本の領土であると「人民日報」も認めていた、という二点について、両国の歴史に留意しつつ論じてみたい。

・村山訪中前夜
先ず「私は首相に当選すると、先ず、韓国・中国等アジアの国家を訪問し…」の部分だが、ここには、何時、どこで、何を見た、と言うような具体的な事柄が書かれていない。だからと言って、何も無かったはずだとは言わないが、第一次村山内閣は、平成六年(一九九四年)六月三十日から平成七年(一九九五年)八月八日までなので、この頃、村山首相は中韓を始めとするアジア諸国を訪問したはずだ。

ちょうど同時期、私は中国に住んでおり、村山氏より自由に、長時間、各地を見て歩く機会に恵まれた。しかし、氏の言うような、「第二次大戦中の日本の植民地統治と侵略により、アジアの隣国に拭い去る事の出来ない悲しみをもたらした」というような場面は、見ていないし、日本人の私に文句を言ってくる中国人もいなかった。

今から約二十年前の平成四年(九二年)十月二三日~二八日、天皇陛下が中国を訪問された。天安門事件(八九年)で欧米諸国から非難を受けていた中国に、日本が手を差しのべた形での御訪中で、その前後、大陸では、NHKドラマの「おしん」や、テレビアニメの「一休さん」が放送され、ちょっとした日本ブームが起きていた。北京建国門外には、ニューオータニ系列のホテル「長富宮飯店」の列びに、高級品や日本食を扱う「ヤオハンデパート」もできて、その一角は「日中友好」の象徴のようだった。

この頃、天皇陛下の御訪中を、中国の媒体が大々的に報じた事もあり、日本人はたいていの場所で、憧れをもって迎えられた。

例えば、大学に申請して農村に入り、大晦日前後の農家の様子を見に行った時の事だ。大学側は、学内で働く女性を紹介してくれたので、彼女の休暇に合わせて農村に入った。宿泊先の農家(彼女の実家)では、私のために小さな歓迎会を開いてくれた。日本人が村に来たというので、彼女の親戚や知り合いが、次々に私の周りに集まってきて、日本はどんなだ、とか、食べ物や電気製品の話で盛り上がった。子供も、まとわりついてきた。

夕食後、私が家の様子を写真に撮り始めると、当時の農村では写真はまだ珍しかったようで、彼女が「皆を写してほしい」と言うので、三十組ほどの家族写真を撮影した(撮影した写真は、大学に帰ってから現像して彼女に渡した)。翌日には、新年を迎える街の様子を見に行き、夜中にザーサイづくりの農家に行って、新年を迎える祭を見せて貰い、皆で餃子を包んだりした。最終日、大学に帰る時には、家族で駅まで見送りにきてくれて、贈り物なども頂いたが、中に彼女のお姉さん手作りの刺繍の施された靴の中敷きが入っていて、少なからず感動した覚えがある。中国には、女性が手作りの中敷を、大切な人送る習慣があるからだ。

別に、農村に限らず、図書館や博物館で、或いは、列車やバスに乗車した時、当時中国にいた日本人は、皆、中国人から好意的な応対を受けていたはずだ。ほんの一時期ではあったが、この頃の日本と中国の関係が、「日中友好」の最善の姿ではなかったかと思う。

その後、九三年 江沢民が国家主席となり、九四年村山内閣成立。
九五年五月三日、村山首相が江沢民国家主席と中南海で会見。

日本と中国の関係が、おかしな事になるのは、村山富市氏の訪中後だ

・反日の萌芽
一九九五年五月四日の「人民日報」第一面、中央の見出しには「江主席 村山首相と会見、双方は歴史に対して正しい態度をとり、将来に目を向ける事が両国の関係を押し進め更に発展させるとの意を示した」と書かれている。江沢民は会見の中で「我々は永遠にこの痛ましい歴史を心に刻むべきである」と言っており、また、「李鵬総理 村山首相と会談、二十一世紀に向かう中日関係を更に発展させたいとの意向を示した。村山首相は中国人民英雄記念碑に花輪を捧げた」との、写真付きの記事が掲載された。

同新聞の四面にも、「日本の首相 抗日戦争記念館を参観、村山の書き置きには、歴史を直視し、日中友好と永久平和を祈る、と」、蘆溝橋を参観した時の様子を載せている。靖国神社には参拝しなくとも、中国人民英雄記念碑には花輪を捧げている新聞の写真を見て、私は、村山富市という人物に、この時、日本の首相である自覚があったのか非常に疑問に思っている。

この会見から約一ヶ月後の、「人民日報」九五年六月十二日号に、初めて大々的に排日の記事が掲載された。三面、一番上に大きく「中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念す」と書かれ、この連載について、「…中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念し、愛国主義を発揚し、民族の精神を奮い立たせるために、人民解放軍総政治部宣伝部と本紙国内政治部は、共同で《この歴史を忘れるな》という特集を組み、専門家の意見・レポート・インタビュー・写真等のついた一連の原稿を掲載します。本日は、中国国際戦略学会会長 徐信の著した《血まみれの歴史 偉大な貢献》の一文を掲載し、この特集の序章としたいと思います。」、と説明している。

この特集記事は、新聞のまるまる一面を使って、大々的に行われた連載だった。私は、この「人民日報」の記事が、その後十数年間続く排日運動を方向付ける記事であったと考えている。また、この記事と村山・江会談が無関係であるはずはない。

連載が始まった頃、私は中国人からよくこんな事を聞かれた、「この間まで中日友好、中日友好と言っていたのに、日本はこれでいいのか?」。この頃の「人民日報」は、一部十六面の新聞で、一面まるまる使って排日の記事を連載するのは、中国人の目にも常軌を逸した扱いに映じていた。

私は、村山内閣か、或いは、天皇陛下の御訪中をお膳立てした人々が、中国に対して抗議をするだろうと思っていた。御訪中については、多くの反対があり、反対を押し切った人々には、友好を持続させる責任があるはずだった。だいたい、この様な記事が新聞に連載されては、日本人は中国に住んではいられない。邦人の安全の為にも、何か策を講ずると思っていた。

しかし、日本政府は中国の排日運動を看過したのみならず、九八年、排日運動の首謀者である江沢民を招聘し、宮中晩餐会に呼び、日中共同宣言まで発表した。八九年には、民主化運動に理解を示して追放された趙紫陽の後任として、学生の弾圧を肯定して総書記に就任。九六年には、中華民国総統選に圧力を掛けるために、台湾海峡にミサイルを撃ち込んでいる。私は、江沢民を嫌いだと言う中国人には大勢会ったが、好きだという中国人には会ったことがない。日本のリベラルとか親中派と呼ばれる人々は、中国の排日運動をどう思っていたのか、非常に疑問だった。

更に不思議なのは、《この歴史を忘れるな》の掲載された「人民日報」は、共産党の機関紙として、発行部数一千万部を誇る中国第一の新聞だった。八九年に「天安門事件」が起こって僅か六年、当時、日本大使館や領事館に勤めていた官僚や日本の職員が、中国の新聞を読んでいないはずはない。文化大革命が上海の「文匯報(ぶんかいほう)」から始まったように、排日愛国運動も、「人民日報」から始まった。彼等はこの記事を、どう考えていたのだろう。

・毎年のように戦争をする国
さて、九月二日の報道に話を戻したい、「私の首相の任期中、ちょうど第二次大戦終結50周年の歴史の節目にあたり、日本は、この前に犯した戦争の犯罪行為を深く反省し、同時に全世界に向けて、今後はまさに、断固として平和・民主主義から国際協調に及ぶ発展してゆく道を歩む事を、表明しなければならなかった。この様な背景のもと、私は“村山談話”を発表した。」

この部分は、おかしな文章と言わざるを得ない。例えば、日本が第二次大戦終結後も、ずっと変わらず、何処かの国と戦争を続けていたのであれば、「戦争の犯罪行為を深く反省し」「今後はまさに、断固として」という言葉が生きてくる。

ところが、日本は、中国に尖閣で難癖をつけられ、韓国に自国民を殺害され竹島を侵略されているにもかかわらず、五十年間全く戦争をしていない。その上、中国に対してだけでも、一九七九年以降、有償資金協力(円借款)を約3兆1,331億円、無償資金協力を1,457億円、技術協力を1,446億円、総額約3兆円以上のODAを実施している。何も世界に向けて、改めて平和・民主主義・国際協調を表明しなくとも、日本は平和国家だ。この記事の事実認識は、そもそもおかしい。

言葉の使い方も変だ。「この前に犯した戦争の犯罪行為」と書かれているが、五十年前は「この前(原文は「此前」)」ではない。五十年前を「この前」と言うのは、中国語の感性に近い。その上、「今後はまさに、断固として平和・民主主義から国際協調に及ぶ発展してゆく道を歩む」という表現も、これまで戦争をやり続けて来た国の目線だ。

ここで少し、中国の歴史を振り返りたい。

一九三七年七月七日の蘆溝橋事件に始まる日中の戦争は、四五年のポツダム宣言受諾で終わりを告げる。日本が引き上げて後、四六年から再開した国民党との戦争を含め、中共と近隣諸国との戦いの状況は、次のような物だ。

一九四六年、国民党と共産党が内戦を再開。
一九四九年十月一日、共産党による中華人民共和国成立。
一九五○年六月二五日~五三年七月二七日、朝鮮戦争勃発。北朝鮮側に参戦。
一九五○年、チベットに侵攻、
一九五六年、中共の社会主義強要をきっかけにチベット動乱勃発。
一九五五年、五八年、台湾を攻撃
一九五九年九月、印度と中国の国境で武力衝突が起こり、
一九六二年十一月、中印国境紛争勃発、大規模な武力衝突に発展した。
一九六九年三月二日、十五日、中ソ国境紛争。ウスリー川の珍宝島の領有権をめぐって
        大規模な軍事衝突が起きた。
   同年八月、新疆ウイグルでも中ソ軍事衝突起こる。
一九七九年、中越戦争勃発、ベトナムによって倒されたカンボジアの
      ポルポト政権の敵討ちでベトナムに侵攻。一ヶ月で撤退。
一九八八年、赤瓜礁(せっかしょう)海戦、
      スプラトリー諸島の領有権をめぐって、中国海軍とベトナム海軍が衝突。

この他、中国国内での動乱として、

一九六六年~一九七六年、文化大革命
一九八九年六月四日、天安門事件

八九年の天安門事件に至るまで、毎年のように、韓国・チベット・台湾・印度・ソ連・ベトナム等アジアの近隣諸国と事を構え、中国国内では、一九六六年、文化大革命と言う名の権力闘争を開始して泥沼になり、一九七六年、周恩来が一月八日に、混乱の首謀者毛沢東が九月九日に相次いで病没し、新首相の華国鋒が十月六日、四人組を逮捕して漸く終結している。

要するに、九十年代に入るまで中国はまるで落ち着いていない。近隣諸国、或いは、自国の民に対して、「平和・民主主義から国際協調に及ぶ発展してゆく道を歩む事を、表明しなければならない」のは、中共なのだ。

・右顧左眄
一九四九年十月の建国宣言から五六年頃までに、共産党内部には経済構造を巡る二つの論争が存在したと言われている。一つは、毛沢東の論、一つは劉少奇の論。両者は共に社会主義という前提に立ちながら、毛沢東は独自の社会主義のありかたに邁進する方向を選び、劉少奇は、社会主義という前提とは別に、社会の発達する過程に資本主義的発達を設定する。この二つの考え方は、そもそも、前提である社会主義の経験的真偽が不明なので、この時点でどちらが正しいという事はない。

更に、付け加えるなら、毛沢東にせよ劉少奇にせよ、党員の特権官僚化を可能にする一党独裁体制(中国は建前上は多党制)を否定する事はできていないので、そこから生まれる権利の独占や官僚の汚職は、どちらの路線を選択したところで、体制が存続する限り残り続けると思われる。

毛沢東と劉少奇の対立は、九十年代に入ると「姓資姓社」(中国は資本主義か、社会主義か(開放路線を非難するのに使われた))論争に代表されるような、小平等改革派と陳雲等保守派の対立を生んだ。

結党以来の二つの路線は、例えば、小平の開放路線では、毛沢東の時代には排斥された「資本家(ブルジョアジー)」は、「社会主義市場経済」を牽引する存在である「企業家」に変わる。この二つは異質であり、激しく対立し、争いの元となる。

右顧左眄(うこさべん:右を見たり左を見たり様子を窺ってばかりで決断できない)と揶揄された江沢民は、国家主席に就任すると、「中国共産党は依然として中国労働者階級の前衛部隊である」という立場を取り、九三年、毛沢東生誕百周年を祝うための記念行事を盛大に行い、それまで、大躍進や文革で地に落ちていた毛沢東の評価を変化させた。

また、九二年に小平が改革開放路線を推進するために、深玔などを視察して「南巡講話」を発表すると、「一部の地域と一部の人が先に豊かになる事を奨励し」、九三年の十四期三中全会以降、経済政策における基本方針とし、「最終目標は共産主義の実現」という目標を掲げた。政権を執るに当たって、保守左派の江沢民が、小平を始めとする改革右派を気遣った形だ。

・寝た子を起こした村山訪中
一九八九年の「天安門事件」は、学生を中心に民主化の要求から起こったと言われている。それは、一党独裁に対する不満や、自由への渇望、経済が好調であった日本や欧米に対する憧れの過激な発露であり、中国共産党の終焉を、国内外に知らせる事件であった。その為、九二年以後も、人民の憧れが、相変わらず資本主義陣営にある事を示す日本ブームは、共産党にとって、必ずしも歓迎すべき状態ではなかったはずだ。特に、保守派の江沢民にとっては、天安門事件の頃から国家主席に就任した後も、依然として厄介な状態に変わりはなかったのではないだろうか。

九五年当時、中共は大々的に排日運動を展開したが、人民は、相変わらず民主化を望んでおり、経済大国である日本や米国は、一般の中国人の憧れだった。それに対して、共産党に対しては、開放政策の恩恵も一般の人民には届いておらず、また、文革で下放されたり、従軍した世代が現役で、共産党に対する不満も高かった。それで、ある種、事実を公平に見ていて、「俺は、人民解放軍の腐敗の方が問題だと思うね。」そんな話しをしていた。日本人に対して、戦争責任など追及する状況ではなかったのだ。

村山氏は、「ちょうど第二次大戦終結50周年の歴史の節目にあた」ったので表明しなければならなかったと述べているが、全く必要のない、寝た子を起こす「談話」であったと言わざる得ない。歴史的に見ても変だ。共産党による中華人民共和国成立は四九年の事で、四五年の大東亜戦争終結の時には誕生しておらず、当時、国際連合に加盟していたのは中華民国だ。更に、中華人民共和国とは七二年の国交回復まで、書類上は戦争状態にあったはずだ。すると、「50周年」の「アジア」とは、何処の国を言っているのだろう。

だいたい、談話を発表する根拠として、「50周年目」だからと言うのは、希薄だし唐突だ。出したかったから出したと言うのに等しい。ならば、今年は大東亜戦争終結六八周年目なので「談話」を廃棄する、という論も成り立つのではないだろうか。

日本は「悪」、共産党は「善」という構図の下で、日中関係が良くなるはずはない。日本は、隣国の内政問題に対して、その解決のために理想を述べる事をせず、“村山談話”という形で関与した。一方、中共は「打倒帝国主義(=日本軍国主義)」を旗印にしながら、実際には、帝国主義的外交政策を正当化する根拠として、“村山談話”を用いている。実に不健全な関係であると思う。

例えば、私のこの様な物言いが、正鵠を射ていないとしても、村山氏の訪中前に比較して、日中関係が極端に悪くなり、中国国内での集団抗議行動も激増している事は明らかだ。私は、現在中国の抱える問題の、その責任の一端は“村山談話”にあると思っている。一日も早く、「談話」を撤廃すべきだ。

・「平和共存」の意味する物
次に、記事の「私が“村山談話”を発表したのは、日本が今後もしアジア及び世界各国と平和共存を望むのであれば、必ず過去の歴史に対して徹底的に清算しなければならない。」の部分だが、ここには耳慣れない「平和共存」という言葉が使われている。

「平和共存」とは、そもそも冷戦時代に、ソ連のフルシチョフが称えた物で、資本主義陣営と共産主義陣営は共存しうると言う物。社会制度を異にする国が共存することを指す。この頃、東西冷戦に伴い核開発競争が盛んで、ソ連が「共存」を称えた背景には、軍事費の問題があったと言われているが、これによって米ソが接近した。

同時期、中国は印度に接近し、一九五四年、周恩来首相と印度のネルー首相の会談で「平和共存五原則」が締結された。五原則とは(1)主権と領土保全の相互尊重(2)相互不可侵(3)相互内政不干渉(4)平等互恵(5)平和共存。

「人民網日本語版」によれば、二○○四年六月二八日、当時、国務院総理であった温家宝は、北京で開かれた「平和共存五原則提起50周年記念大会」で、次の様に演説している。

「…平和共存五原則は長い歳月がたっても堅固で、強い生命力を持っている。なぜならそれが「国連憲章」の趣旨と原則、国際関係発展の本質的要求、世界各国人民の根本的利益に合致しているからである…新しい歴史条件の下で、五原則は真剣に遵守され、適切に履行されるべきである。五原則を強力に発揚し、世界の平和と発展を促進するため、中国政府は次の点で各国と共に努力することを望んでいる。

(1)国家主権の平等を揺るぐことなく断固として守る。
(2)世界文明の多様性を維持、尊重する。
(3)平等互恵を基礎として各国経済の共同発展を促進する。
(4)対話と協力を通して世界の平和と安全を守る。
(5)国連とその他の多国間システムの重要な役割を十分に発揮する。

中国はこれからも引き続き独立自主の平和外交政策を遂行し、平和共存五原則を揺るぐことなく断固として遂行し、すべての国と友好協力関係を発展させ、世界の平和と発展のために新たな貢献をしていく。」「人民網日本語版」2004年6月29日

要するに、「平和共存」とは、日本人にとっては馴染みのない言葉だが、中国人にとっては、「国連憲章」に合致した、中共主導で進められる外交戦略の事だ。

だからこそ、中共お得意の歴史問題を持ち出して、「必ず過去の歴史に対して徹底的に清算しなければならない」と続く。日中双方の条件や思惑が絡み合う「補償」と言う場で、「徹底的に清算:原文は「彻底清算」」など、実現不可能な稚拙な表現と思えるが、この一文を中国人民が読めば、日本の首相経験者の語る中共礼賛と映る事だろう。

因みに、五十年前「平和共存」の動きは、ソ連が台湾を承認している米国に接近した事で、中ソの対立を生み、その後、中ソ国境紛争に発展した。また、中国がチベットに侵攻した事で、一九五九年からは中印国境紛争に突入している。領土的野心から関係が悪化し戦闘に発展しているので、日本は「平和共存」には、関わらない方が良い。

・周恩来も認めた尖閣の領有権
さて、九月二日の記事には、唐突に《ポツダム宣言》と《カイロ宣言》が登場する。その理由は、この二つが尖閣諸島の領有に関係しているからだ。

日中間で最初に交わされた、一九七二年の「日中共同声明」には、「三、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」という一文がある。
この中の「ポツダム宣言第八項」に、「八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」と、日本の主権は、本州、北海道、九州、四国及び「我らが決定する諸小島」に限定する、と書かれている。これを根拠に、中国側は、尖閣諸島を中国の領土と主張する。

しかし、敗戦後の日本に対する方針を決定した条約には、カイロ宣言(一九四三年十二月)・ポツダム宣言(一九四五年七月)の他に、サンフランシスコ講話条約(一九五二年四月)がある。その第三条には、

「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

として、これらの地域は、一時、合衆国の信託統治下に置かれ、一九七二年五月発効の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)により、我が国に返還された。

更に、昨年八月、ネット上では、尖閣の領有権に関して、二つの記事が話題となった。一つは「人民日報」一九五三年一月八日の『琉球群島人民の米国占領に反対する闘争』(原題「琉球群島人民反對美國佔領的鬥爭」)という記事だ。これは人民出版社から出版された『新華月報』一九五三年(2)に納められている。

記事は「サンフランシスコ講話条約」の翌年に書かれた物で、米国の沖縄占領を「侵略」と決めつけ、同条約に異議を唱え、並びに、沖縄人民の、米国の占領に反対する闘争を賞賛する内容となっている。

「…「カイロ宣言」「ポツダム宣言」等の各項目、国際協議の中に琉球群島の信託統治を決定する規定がないのも顧みず、ソ連政府と中華人民共和国政府の度々の声明も顧みず、一百万琉球人民のきっぱりとした反対も顧みず、(「サンフランシスコ講話条約」を日本政府と勝手に結び)、…米国はこの様な卑怯な手段で、勝手に無期限に琉球群島を占領するという侵略行為に「合法」の外套を着せた後、昨年四月一日に、島に比嘉秀平を党首とする琉球傀儡政府を誕生させた…。」

ここに記されている「琉球群島」について、この記事の始めに、次のように書かれている、

「琉球群島は、我が国台湾の東北と日本の九州島西南との間の海面上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、土噶喇諸島、大隅諸島等七組の島嶼が含まれ、合計、五十島以上の名称のある島嶼と四百数島の無名の小島があり、全ての陸地面積は、四千六百七十平方キロメートルである。群島中最大の島は沖縄諸島中の沖縄島(即ち大琉球島)で、面積一千二百十一平方キロメートル、その次は大島諸島中の奄美大島で、面積七百三十平方キロメートル。琉球群島は遠く一千キロメートルにわたって広がり、その内側は我が国の東海、外側は太平洋の公海である。」

と、琉球群島に尖閣諸島が含まれている事が、明記されている。

もう一つは、「人民日報」評論員が一九五八年三月二六日に書いた『無知の捏造』(原題「無恥的捏造」)と言う記事だ。これは、一九九六年に中国社会科学出版社から出版された『戦後中日関係文献集1945-1970』(原題、「戰後中日關係文獻集1945-1970」)に納められている。

この記事には、一九五八年三月十六日に、沖縄で行われた立法院議員総選挙で、民主主義擁護連絡協議会が五名を当選させた時の事が書かれている。その時に、米国の選挙妨害があったらしく、三月十四日の晩、北京放送局の名義を騙り、沖縄に対して、中国外交部報道官が「中国は絶対に琉球に対する主権を手放さない。」と放送したという物だ。中国側は、沖縄の日本への返還を阻止するための、米国側の「無恥の捏造」であると抗議している。そして、周恩来の発言を引用して、中共の沖縄に対する立場を説明する場面があり、

「我が国の周恩来総理も以前、一九五一年八月十五日の《米英対日講和条約草案及びサンフランシスコ会議に関する声明》の中で、米国が琉球群島・小笠原群島等に対して"信託統治権"を保有する、という話を却下した時に、「これらの島嶼は、過去の如何なる国際協定の中でも、未だ嘗て日本を離れたと規定された事はない」と指摘した。」と書かれている。

この二つの記事は、「大躍進」や「文化大革命」より以前、毛沢東も周恩来も小平も存命であった頃に書かれた物であり、その中で、五一年には周恩来が「琉球群島」は日本の領土であると言い、五三年の「人民日報」の記事には、「琉球群島」の中に「尖閣諸島」が含まれると述べられている。

「尖閣諸島」の問題を論ずる場合に、必ず「七十年に国連が行った海洋調査でイラクに匹敵する石油埋蔵量の可能性が報告されると、中国が領有権を主張し始めた」と言う事が言われるが、誠にその通りで、上記の記述からは、五十年代には中共指導者の間で、「尖閣諸島」が確実に日本の領土であると考えられていた事が分かる。当時、小平が「人民日報」を読んでいないはずはない。「棚上げ論」など無かったのだ。

・九月二日の謎
それにしても何故、九月二日に、日本の元首相 村山富市の名を冠した文章が、「人民日報」に発表されたのだろう。
ここ数ヶ月の、中国の情勢を振り返ると、例えば、七月八日、元鉄道部部長 劉志軍が収賄・職権濫用の罪で、一審、執行猶予二年の死刑判決、及び、個人財産没収の判決を受けた。八月二二日からは、山東省(さんとうしょう)の省都済南市(さいなんし)で、薄煕来の裁判が始まり、九月二日に、中国共産党の機関紙「人民日報」に、村山富市の名を冠した文章が掲載された。また、八月末からは、石油閥の逮捕が相継ぎ、九月二二日に、薄煕来の一審の判決が言い渡された。

昨年、二○一二年十一月十五日、新体制が発足し、習近平が総書記に就任した。習は、13億の頂点に立ったが、現在、中国が抱える問題は、それぞれ深刻な状況にあり、日本を含めた海外では、バブルの崩壊のみならず体制の崩壊も囁かれている。

さて、六八年前、東京湾上に停泊した戦艦ミズーリ号甲板で、日本は降伏文書に調印した、まさにその九月二日に、記念日にうるさい「人民日報」が、村山富市氏の名を冠した文章を掲載した。掲載された時期を含めて、逮捕や裁判がこの時期に集中しているのには理由がある。

・十八期三中全会
改革開放以来、一期五年の中央委員会(党の最高指導機関、中共中央・党中央とも言われる)は、およそ七回の全体会議を開くことになっている。中央委員会全体会議(中全会)は中央政治局によって召集され、毎年少なくとも一回は開かれる。会議の議題はだいたい決まっていて、一中全会と二中全会は、国家機構の“人事”を取り上げ、三中全会では通常、今期の中央と政府の“大目標”を掲げる。七中全会は“引き継ぎ”だ。

一中全会はたいてい、党の代表大会の直後に開かれる。主題は“人事”で、政治局常務委員、中央軍事委員会委員等を決定する。昨年、十一月十五日、十八期一中全会では、習近平が政治局常務委員に再選され、総書記と党中央軍事委員会主席に選出された。二中全会は、国家機構の人事で、今年の二月二六日から二八日まで開かれた十八期二中全会では、国務院の改革方案、及び、国家機構と全国政治協商会議の人選が議題となった。

中共は、政策の一大転換が、三中全会でなされることが多い。十一期三中全会(一九七八年)では、文化大革命を清算し、“階級闘争を以って綱領と為す“(文革は階級闘争と捉えられていた)事から改革開放路線への転換がなされた。十二期三中全会(一九八四年)では、農村から都市への改革が掲げられ、十四期三中全会(一九九三年十一月)では、社会主義市場経済体制が、採択されている。

八月二七日、中央政治局は会議を開き、十一月、北京において、中国共産党第十八期中央委員会第三次全体会議を開くことを決定した。今回の「三中全会」は、十一月九日から十二日まで開かれた。

・二つの歴史は否定できない(两个不能否定)
二○一三年一月五日、新たに決まった中央委員会委員、及び、候補委員の、十八期精神学習研修班が中央党学校で開かれた。習近平は講話を発表し、改革開放前後の歴史について、次の様な事を語った。

「改革開放後の歴史時期を以て、改革開放前の歴史時期を否定する事はできない。改革開放前の歴史時期を以て、改革開放後の歴史時期を否定する事もできない。」「二つの歴史は否定できない」。発言の目的は、中国の特色ある社会主義の堅持と発展、党の政権基盤の強化にある。

一九四九年に新中国が誕生してから、一九七八年の十一期三中全会までを、改革開放前の歴史とし、それ以後を改革開放の時代とする。この二つの歴史は、開放前は「大躍進」・「文化大革命」に代表される大失敗があり、開放政策からは、「汚職」「公害」を始め様々な問題が噴出している。

しかし、習近平は、開放政策によって多くの矛盾と問題が生みだされていても、西方国家が二、三百年掛けて発展する所を、中国は数十年で発展した。同時に、中国は13億の人口を擁する大国であり、その工業化、現代化の規模は、如何なる西方の発展した国々も比較する事ができないほど大きい。また、開放前の時代は、毛沢東と深い関係があるが、毛は社会主義制度と党と国家を作った人物だ。毛を否定する事は、社会主義制度と党と共和国の歴史の否定につながる。それは、天下の大乱を招く事になる、と危機感を募らせる。

そこで、「二つの歴史」を肯定し、改革開放前を、社会主義革命と建設・発展の基礎を築いた時代と位置づけた。中国の特色ある社会主義は、十一期三中全会以後の開放路線に始まるが、その源流は改革開放以前の歴史にある。もし、開放政策を行わなかったら、ソ連や東欧の様な亡党亡国の危機に晒されたであろう。「大躍進」「文化大革命」の失敗はあるにしても、毛沢東がいなかったら現在の繁栄はない、と言うのである。

実際には、毛沢東路線と小平の改革路線は全く違う。だからこそ、十一期三中全会の前後で、保守左派・改革右派に分断された路線と政策を、この様に説明することで、習近平は指導者として、歴史的に二つの時代をまとめて見せた。改革開放を続けるか否かの問題は、取りも直さず、社会主義を続けるか否かの問題に通じているが、二○一二年末で党員数8512万7000人を擁する共産党の頂点に立ち、国家主席でもある習近平が、党と国家を否定できるはずもない。

・“二つのすべて”
一月のこの話を、「人民日報」は十一月八日の三中全会直前に、第六面に掲載した。「二つの(两个)」と聞けば、思い出される事がある。

一九七六年十月六日、文化大革命の主導者であった江青や張春橋等四人組が逮捕され、文化大革命が事実上終結し、十月七日、華国鋒が党主席・中央軍事委員会主席に就任した。十月二六日、華国鋒は中央宣伝部の報告を受けているときに、”およそ、毛主席が話した事は、全て賛成だ、批判の余地は無い”などと言い“二つのすべて”について述べた。

“二つのすべて”とは、「およそ、毛主席が出した政策は、我々はすべて断固として守る、およそ毛主席の指示は、我々はすべて終始変わらず従う(凡是毛主席作出的决策,我们都坚决维护,凡是毛主席的指示,我们都始终不渝地遵循)」と言う物。

この様な発言が出た背景としては、当時は、「四人組」等の問題が解決した直後で、まだ中国全土に左派的風潮が残っており、「文化大革命」の御蔭で国務院総理となった華国鋒も、「文革」を肯定する左派的人物だった。更に、当時、中共内部には、毛沢東を神聖化し、毛の一言一句を真理と崇める集団がおり、“二つのすべて”という一種の政治宣言をする事で、自身が毛沢東の正統な後継者である事を示す事が目的だった。

この話が一九七七年二月七日の《人民日報》等の社説で発表された事で、中共内に騒動が持ち上がった。断固として反対したのは、小平と陳雲で、特に小平は、まだ復権していないにもかかわらず、旗幟鮮明に反対を表明した。四月十日、彼は党中央に“我々は必ず、代々、正確で完全な毛沢東思想を以て、我々の全党・全軍・全人民を指導しなければならない”と書かれた手紙を送りつけた。毛沢東を肯定しつつも、言外に「大躍進の失敗」「文化大革命の失敗」を述べていることは明らかだった。その内容を党中央が公表すると、党内での“二つのすべて”の影響力は消滅した。これ以降、中国は改革開放路線へと進んで行く。

この話には、後日談がある。

二○一二年十一月八日、中国共産党第十八期全国代表大会が北京で開かれた。総書記胡錦濤は十七期中央委員会を代表して、大会で報告を行ったが、その中で“およそ、大衆の身近な利益に関する決定には、すべて充分に大衆の意見に耳を傾けなければならない。およそ、大衆の利益を損なう方法は、すべて断固として防止し矯正しなければならない。”改革開放前夜の古い“二つのすべて”の言い回しを使って、現代化への方向転換を述べた。これが、新たな“二つのすべて”と言われている。

さて、習近平の「二つの歴史は否定できない(两个不能否定)」は、華国鋒から小平・胡錦濤に続く路線を意識して発言された物だ。それは、改革開放路線へ、そしてその先の民主化を示唆してはいるが、その中心にあるのは、「大躍進」「文革」の失敗を除いた毛沢東の執政だ。国内の危機的状況に直面して、開放路線を内包した独裁体制に力を入れているところは江沢民に似ている。だからこそ、党内宥和を目指した標語を掲げ、一方で、薄煕来や鉄道省幹部の裁判(保守派の負の側面)で反対勢力の力を削ぎ、一方で、中共の正統性を演出するのに有効であり、江沢民の業績とも言える「村山談話」に関わりのある記事(保守派の正の側面)が、「人民日報」に登場したのではないだろうか。

・結び
天安門事件から数年後、中国共産党は、日本の戦争責任を追及し、日本は「村山談話」を発表するが、こうした、謝罪で中共の政権基盤を支えるような外交を行うような事をすると、中共の政権が危うくなる度に、日本が支払った賠償金や謝罪に関係なく、排日運動が起こり、しかも、中共の政権基盤が揺らげば揺らぐほど、排日は酷くなる可能性を孕むことになる。謝罪外交を続ける限り、日中の関係は悪化する事になる。

しかも、中共にとって「歴史問題」や対日政策は、問題の先送りにすぎず、中国の種々の不安定な要素、例えば、経済成長の減速、不動産バブルの崩壊、社会の不平等、腐敗の横行、環境の悪化、官僚が土地を強奪し、下層階級は不安定で、中産階級は失望し、上流階級は制御不能に陥り、民族問題が多発する等々の根本的な問題の解決にはならない。

習近平に求められるのは、これらの不満に対する妥当な処置、改革を行い、社会の混乱を招く事のないようにする事で、「村山談話」に象徴されるような、「邪悪な日本軍」対「正義の味方の共産党」という勧善懲悪の物語で、共産党にとって都合の悪い歴史を覆い隠す事ではないはずだ。まして、「歴史を学べ」と言いながら、日本の歴史を奪うことでも無い。

「村山談話」は日中両国に何ももたらさなかった。それどころか中共の圧政に苦しむ人々を生みだし、中共自身をも蝕んでいる。日本側としても、海外の意見に耳を傾ける事は必要だが、筋の通らない事にまで耳を貸す必要は無い。中国に新しい政権が誕生した今こそ、「村山談話」を撤回し、環境問題や技術的な問題には協力し、民族問題や人権問題には抗議をするような、当たり前の外交を回復すべきであると思う。

                                      (終)