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薄煕来情報(『毛沢東の遺伝子』、一)

2012年05月13日 16時07分42秒 | 日記
『毛沢東の遺伝子—中国の報道から見た重慶事変—』
      ※文中の数字は原文に基づく物です、1元—13円として計算して下さい。


2012年2月6日から7日にかけて、重慶市副市長が、米総領事館に駆け込むという事件が発生した。重慶市党委書記であり、秋の第十八期全国代表大会(十八大)で常務委員会入りも囁かれた薄煕来(はくきらい)は、重慶で「唱紅」「打黒」運動を推進していたが、米領事館に駆け込んだ副市長王立軍は「打黒」運動の実行者だった。事件発生の二日後、中国外交部副部長 崔天凱(さいてんがい)は、「非常に偶発的な事件だが、既に解決した。」と語った。これが単独の事件であり、米国を巻き込みはしたものの、処分は薄煕来にまで及ばないものと思われた。しかし、3月14日、全人代の閉幕後、温家宝がこの件に対して、「中央は高度に重視している」と述べ、翌15日、薄煕来は重慶市党委員会書記を解任された(市党委書記の地位は市長よりも上)。更に4月10日には、重大な規律違反があったとして、「中央政治局委員」の地位を剥奪され、中央紀律検査委員会が調査を行うとの発表があった。

薄煕来の懐刀とも言うべき王立軍が、よりによって米領事館に駆け込んだという事件は、1971年に起こった林彪(りんぴょう)事件を想起させる。当時、党副主席であった林彪は、1970年、国家主席就任を要求したことで毛沢東・周恩来等との対立が深刻になり、71年9月林彪は毛沢東打倒のクーデターを企てて失敗。9月13日ソ連に逃亡途中、乗機がモンゴル人民共和国領内に墜落し死亡した。この事件は、党副主席が亡くなったにも関わらず、詳細な経緯については今なお不明だ。

中国共産党は内部の混乱を外部に公表しない。公表する事が共産党にとって無益なばかりか、国家運営に支障をきたしかねないと考えるからだ。それは米国も同じで、王立軍が成都領事に対して何を語ったのか、どの様な資料を提出したのか、何か意図的に大使館側から情報が漏れてくるような事はあっても、米国の国益に繋がるような真に重要な内容は、容易に公表される事は無いと思う。結局、何故、処分が薄煕来に及んだのか、或いは、中共中央は事件の何を「高度に重視」したのかについては勝手に思いをめぐらす外ないが、一衣帯水の国の事とて、推測する事には意義があると思う。

そこで、ここでは、二つの観点から事件を検証してみたいと思う。一つは、薄煕来と党内序列九位の周永康(しゅうえいこう)とで計画されたと思われる簒奪劇。一つは、中国共産党内の対立する二つの路線。この稿では新聞その他の報道から、この二点について考える事によって、事件のおよその輪郭を描いてみたい。

・事件の経緯
事の始まりは、2月7日の晩だ。中国のミニブログ(微博)に、多くの軍隊車輌・警察車輌が、四川省成都の米国領事館周辺を取り囲んでいる物々しい写真が投稿され、それに関する説明が書き込まれた。8日にはある弁護士により、重慶市副市長王立軍が領事館に政治亡命を求めたが断られ、その後、公安によって北京に押送された、との書き込みがあった。(「中天電視(CtiTV.com)」『重慶副市長王立軍 米大使館に駆け込む 大陸に衝撃』3月5日)

2月8日午前10時54分、重慶市人民政府新聞弁公室(べんこうしつ)は、「王立軍副市長は長期の激務により、精神的に極度に緊張し、体調が非常に悪く、本人同意のもと、現在、治療休暇に入った」と、ミニブログで発表。12時10分の時点で、転送数32250件、書き込み10683件に上った。(「人民ネット」『回顧 重慶市"打黒"公安局長王立軍 全会一致で副市長に当選』2月8日、『重慶市新聞 新浪微博(SinaWeibo)で再度 王立軍の"治療休暇"を報道』2月8日)

2月9日、米国務省のヌーランド報道官が記者会見上で、「王立軍が重慶副市長の身分で成都総領事に面会を求め、米側は事前に準備し総領事も面会した。その後、王立軍は自分で領事館を後にした」と語った。政治亡命については否定した。同日、中国外交部副部長 崔天凱(さいてんがい)は、「一昨昨日の事件は、非常に偶発的な事件だが、既に解決し、習近平副主席の米国訪問に影響はない」と発表した。(「Apple Daily蘋果日報 (香港) 」『愛将叛逃』2月10日)。※習近平は、2月13日から17日まで米国を訪問。

2月9日、中国外交部報道官弁公室は質疑応答の時に、「重慶市副市長王立軍は、2月6日、米国駐成都総領事館に入り、一日滞在し領事館を後にした。関係当局は現在この件に関して調査中」と発表した。(「上海東方衛視」2月9日、「人民ネット」『外交部:王立軍6日米国駐成都総領事館に入り、一日滞在し領事館を後にした』2月10日)

これらの報道からは、王立軍が6日から7日にかけて成都の米国領事館にいた事、米中両国がこの件を認めている事、更に、重慶市民が非常に注目している一方、中共中央は習近平の訪米直前で、この事件を早く決着させようとしている事が覗える。

その一週間後、「美国之声(アメリカの声)」(The Voice of America 略称:VOA)は、王立軍が米国領事館に持ち込んだ資料の中に、中共中央の権力闘争に関する物があり、その中には、政治局常務委員周永康(しゅうえいこう、序列九位)と薄煕来等強硬派が、今年最高指導者に就任予定の習近平を、どの様に打ち倒し就任を阻止するかについて書かれた資料も含まれていた、と報じた。(「中央通訊社、中央社新聞ネット」『米メディア:周永康薄煕来で習近平の吊し上げを検討』2月16日)

薄煕来と周永康が共謀し、習近平の就任を阻止するという話は、米メディアが米国大使館員から聞いた話として報道したのが始まりだ。真偽のほどは定かではないが、7日のミニブログに投稿された写真の中に、武装警察に配備されているはずの装甲車を撮影した物があった。武装警察の指揮権は周永康が握っている。そこで、今回の事件には、始めから周永康が関係していると目されていた。

一、中国版ウォーターゲート事件

・王立軍
成都総領事館に入り政治亡命を求めた王立軍は、蒙古族出身の52歳。遼寧省の公安局勤務中から暴力団撲滅で名を挙げ、24年間の警察人生で死刑にした者800人以上、戦闘による体の傷は20箇所以上、あまりにも多くの恨みを買ったため、寝るときには防弾チョッキを着用、シャワーの時には拳銃を旁らに置き、「東北の虎」の異名を持つ、中国で最も勲章を受章した男等、彼に関する噂は枚挙にいとまない。遼寧時代の活躍をもとに「鉄血警魂」という連続ドラマまで作られた、中国で最も有名な警察官だ。

08年、薄煕来と知り合い、「打黒」運動のために、錦州市公安局局長(04年11月~08年6月、遼寧省錦州市副市長・市公安局局長)から重慶市公安局副局長に抜擢された(08年6月~09年3月、重慶市公安局党委書記・副局長、09年3月~、公安局局長)。重慶市はもとは四川省の一都市だったが、97年に直轄市(ちょっかつし)に昇格。直轄市は省と同格なので、王立軍は非常な出世を遂げた事になる。

その後、11年12月13日、重慶市第三回人民代表大会常務委員会第24次会議において、満場一致で重慶市副市長に当選する。市政府の王立軍に対する評価には、「…事をさばくのに正義、法を執行するのに公正、自分に厳しく、大衆の評判も良く、非常に多くの幹部、大衆が"打黒の英雄"、"公安の模範"と賞賛している」と、当選直後なので当然だが、彼を讃える表現が並ぶ。一地方警察局長が、北京・上海に次ぐ直轄市の副市長に昇格し、市民から賞賛されるのは、「打黒」の功績が認められた結果だ。(「人民ネット」『回顧 重慶市"打黒"公安局長王立軍 全会一致で副市長に当選』2月8日)

・薄煕来
「打黒」については後述するとして、ここでは、今回の事件の主犯と目される薄煕来について述べたい。王立軍の上司である薄煕来(はくきらい)は、1949年生まれ。中国社会科学院研究科国際新聞卒業(ジャーナリズムで学位取得)。薄一波(はくいっぱ、1908—2007)の子。薄一波は中国建国時の高級幹部の一人で、中共の前身の一つである河北人民政府の成立(1948年)時に、副主席(後に主席)を務めた。建国後、財政部部長、国家建設委員会主任等を歴任。文化大革命の時に失脚。母は67年10月に造反派に捕まり、列車で護送される途中死亡、自殺の噂も流れた。67年2月9日、康生の主導のもと、薄一波は、北京工人体育場で行われた批判大会に引き出され、国民党に味方したとして批判された。真偽のほどは定かではないが、当日、紅衛兵だった薄煕来は、大衆の前で父を殴る蹴る、肋骨三本を折る重傷を負わせた。それに対して、父は「私情を挟まず、残酷無情で父親さえ吊し上げる、此奴は我らの党の未来の指導者の器だ。今後、必ず出世する。」と言ったという。また、89年の天安門事件の時には、小平に対して武力による"動乱"の鎮圧を迫った一人であり、同年5月18日晩、小平が召集し、北京に戒厳令を敷く事を決定した会議にも出席していた。(「中国文化伝媒ネット」『薄煕来は文革時期 批判に晒された父を蹴り肋骨三本を折ったというのは事実か?』3月26日、「阿波羅新聞ネット」『薄一波"六四"画策に関与』4月13日)

薄煕来の人生には挫折が多い。彼は2004年2月から2007年11月まで商務部部長を務めたが、歴代の商務部長は、例えば、石広生と呂福源(りょふくげん、在任中病没)は別にしても、李嵐清(りらんせい、第十五期97~02年の国務院副総理、党内序列七位)、呉儀(ごぎ、第十六期02~07年の国務院副総理)と、代々国務院副総理に任命されている。その為、薄煕来にも、07年の全国代表大会の時に国務院副総理に選出される可能性があったようだ。しかし、野心を隠さず尊大に振る舞う薄煕来を、嫌う人間は多い。

商務部長時代の直属の上司は呉儀(「鉄の女」の異名を持ち、小泉首相との会談をすっぽかし帰国した人物)だったが、薄煕来は商務部の人事異動を行い、前任の呉儀の腹心の部下達を、理由をつけては交替させた。それだけが理由でもないのだろうが、呉儀は薄煕来の人物を「人の部下である事に満足できず、常に責任者になろうとし、人と協力し合う事ができず、権利を奪うためには手段を選ばず、仕事に損失をもたらす」と酷評し、副総理の任期が終了するとき、誰にも引き継ぎせず、しかも薄煕来を重慶に"下放"して退職した、と言われている。(「多維新聞ネットdwnews.com」『歴史回顧:薄煕来と呉儀の恩怨』4月15日)

これによって、07年12月1日、薄煕来は重慶市党委書記として重慶に赴任し、それまで重慶党委書記だった汪洋(おうよう)は、広東省委書記に転属になった。汪洋は、胡錦濤・温家宝と同様、共産主義青年団の出身者だ。(「新華ネット」『汪洋広東省委書記に任ぜられ 薄煕来重慶市委書記に任ぜらる』2007年12月1日)

重慶党委書記に就任し中央政治局入りを果たした事は、中国では非常な名誉だが、薄煕来が満足していたかどうかは疑問だ。中央政治局委員であるとはいえ、同じ幹部の子弟で六歳年下の習近平は序列六位に選出されている。それに比較して、自分は二十五位。十八期で再選されるとしても、薄煕来の所属する派閥(江沢民派)は衰えつつあり、「唱紅」「打」運動に対する胡錦濤・温家宝等の評価は高くはない。同じ派閥である周永康の引き上げがあるとしても、常務委員会入りを絶望視していたのではないだろうか。

・最高権力機関
中国には、大まかに言って、党・政府・軍という組織がある。例えば、日本の内閣に相当する国務院は、国務院総理を始め主な地位は党員が占めている。軍人がどこまで従うのかは疑問だが、軍の最高機関である中央軍事委員会の主席には、党の総書記が就任する。中国の最上位である党総書記・国家主席・中央軍事委員会主席は、共産党の序列一位、或いは、その経験者が継承する。中国は、共産党によって支配されている。

国家統計局の発表によれば、中国の人口は2011年末の段階で、13.4735億人(香港・マカオ・台湾、及び海外華僑は含まれない)。そのうち、2010年末の段階で党員総数は、8026.9万人。党は五年に一度、全国代表大会を開くが、今年はその五年目に当たる。そこで、今年6月までに、全国40箇所の選挙区で選ばれた代表2270名が、代表大会に参加する(十七期六中全会での決定「新華社」11年11月1日)。この大会で、現在は204名いる(『中国共産党第十七期中央委員会委員名簿』「新華社」07年10月21日)中央委員会委員が選出され、中央委員会委員による直接選挙で、常務委員を含む中央政治局委員25名前後が選出される(中央委員会委員と中央政治局委員の数は、07年に選出された人数)。要するに、「中央委員会」や「全国代表大会」に、派閥から何名選出されるかが、その後の選挙の行方に影響を及ぼす事になり、ひいては「中央政治局委員」の選挙や政治運営にも、関係してくる事になる。

中央政治局委員(9名の常務委員を含む) 25名
中央委員会委員  204名(委員候補167名)
全国代表大会 代表 2270名(11年11月に発表)
党員 8026.9万名
国民 13.4735億人

中国共産党の最高指導部である政治局常務委員会委員は、1928年の開設当初は5名。90年代に7名になり、2000年代に入ってからは江沢民の意向で9名になった。07年(現在)の全国代表大会で選出された政治局常務委員9名と、政治局員16名は以下の通り。

中央政治局 常務委員
序列第一位 胡錦濤 共産党中央委員会総書記、
          中華人民共和国主席、中央軍事委員会主席
序列第二位 呉邦国 全国人民代表大会常務委員長
序列第三位 温家宝 国務院総理
序列第四位 賈慶林 人民政治協商会議全国委員会主席
序列第五位 李長春 共産党中央精神文明建設指導委員会主任
序列第六位 習近平 共産党中央書記処第一書記、中華人民共和国副主席
序列第七位 李克強 国務院常務副総理
序列第八位 賀国強 共産党中央規律検査委員会書記
序列第九位 周永康 共産党中央政法委員会書記

中央政治局委員(以下は党内序列の順)
・王剛・王楽泉・王兆国・王岐山・回良玉・劉淇・劉雲山・劉延東・李源潮・汪洋
・張高麗・張徳江・兪正声・徐才厚・郭伯雄・薄熙来

因みに、何かの儀礼・式典のある時には、この序列に従って着席する。例えば、11年10月15~18日に行われた、「中国共産党第十七期中央委員会第六次全体会議」でも、テレビ画面には、全体会議の席上、序列一位の胡錦濤を中心に、その画面右側に二位の呉邦国、左側に三位の温家宝という順番で、画面右側に偶数の序列、左側に奇数の序列が並んでいる。薄煕来の席は画面左端で、この席は第十六期までは政治局候補委員の席だったように思う。(2011年10月18日、CCTV19時の放送)

・七上八下
ところで、「七上八下」とは、中国語で「心が乱れるさま」「心を決めかねるさま」等の意で使われるが、この頃は、中央政治局委員の退職の慣例を示すのに使われている。中国の省級幹部の退職年齢は65歳、副職は60歳だが、例えば、毛沢東は82歳で亡くなるまで最高指導者であったし、小平(とうしょうへい)は、83歳で党中央委員を退き、85歳で中央軍事委員会主席を退いたが、1992年に深玔(しんせん)・珠海(じゅかい)等を視察し南方講話を発表、社会主義市場経済を始めた時には88歳。江沢民は02年、76歳で、総書記・政治局委員を退いたが、その後、05年、79歳まで中央軍事委員会主席を務めた。本来、中央政治局委員の退職については明確な規定はなかった。

02年、第十五期当時、党内序列四位で江沢民より八歳年下の李瑞環(りずいかん、改革派)は、総書記に内定していた胡錦濤のために、江沢民を引退させようと考えていた。しかし、その計画は事前に察知され、8月の北戴河(ほくたいが)での会議上、江沢民と李鵬(りほう)の画策により、七人の常務委員中、胡錦濤を残して六名全て退任する事になった。この人事は、退職の必要の無かった李瑞環を退職させる事が目的だったと言われている。その時の李瑞環の年齢が68歳。

江沢民は党総書記・国家主席は退任したが、引き続き中央軍事委員会主席に留任したため、第十六期で党総書記・国家主席に就任した胡錦濤は、中央軍事委員会副主席の地位に止まった。更にこの時、江沢民派の賈慶林(かけいりん)・黄菊(こうきく)の二人を新たに加え、政治局常務委員会の定員を7名から9名に増員した。この人事は、胡錦濤に集中するはずの権力を分散させ、江沢民派の力を温存させる事が目的だったと言われている。

五年後の07年、第十七期の改選直前、今度は江沢民派の大物曽慶紅(そうけいこう)が、68歳を理由に退職に追い込まれた。それ以後、常務委員の年齢は改選前に67歳以下である事に確定したと言われている。(「阿波羅新聞ネット」『江沢民 李瑞環に退職を迫った内幕』07年7月7日、「博訊新聞ネット」『新政治局の退職年齢68歳に決定 曽慶紅は勇退』07年9月24日)

さて、今年秋には、第十八回大会が開かれるが、中央政治局委員が67歳以下の選出となると、現在の常務委員9名の中で再選されるのは、習近平と李克強のみ、また、政治局員まで含めると、体調や重大な規律違反が無ければ、習近平・李克強を含めた11名に再選の可能性がある。

第十八回全国代表大会で再選の可能性のある11名
・習近平・李克強
・王岐山・劉雲山・劉延東・李源潮・汪洋・張高麗・張徳江・兪正声・(薄煕来)

49年生まれの薄煕来は、五年後の2017年には68歳になる。江沢民が李瑞環を退職させる為に定めた年齢設定が、江派の曽慶紅のみならず、薄煕来まで追い詰める事になったのは、皮肉な事と言わざるを得ない。

・予兆
さて、胡錦濤・温家宝の指示か、或いは呉儀の意向であったのか、重慶市に"下放"されたはずの薄煕来は、「唱紅」「打黒」運動を展開し、世間の注目を集める事になる。

今回の事件が何時頃から醸成されていたのかは分からない。しかし、媒体に変化が現れるのは、2011年7月1日CCTV(中国中央電視台)午後7時に放送された「慶祝中国共産党成立90周年大会」開会式からだ。この開会式には、現在の十七期常務委員9名が出席するのは勿論のこと、恐らくは体調不良であった江沢民を除いて、李鵬・朱鎔基・李瑞環等、十五期・十六期の全ての常務委員経験者が当然の如く出席した。

しかし、十七期の中央政治局員16名のうち、汪洋(おうよう)・張高麗・兪正声(ゆせいせい)・薄煕来の4名が欠席。CCTVの放送で出席者として名前を呼ばれなかった。4名全員が十八期で再選される予定の人物で、中でも胡錦濤と同じ共青団出身の汪洋が出席しないのは不可解だった。

第十八回全国代表大会で再選の可能性があり、90周年祝賀会に出席した7名
・習近平・李克強
・王岐山・劉雲山・劉延東・李源潮・張徳江

出席した7名のうち、李克強・劉延東・李源潮は共産主義青年団(共青団、共産党による青年組織)の出身者で(「新華ネット、簡歴」)、この他、李長春(江派の重鎮)の直属の部下で中央宣伝部部長である劉雲山は別として、学者で保守派の王岐山(おうきざん)、朝鮮金日成総合大学経済系卒業という張徳江(ちょうとくこう)の二人は、派閥色はそれ程強くはない。劉延東(りゅうえんとう)は、江青(毛沢東の妻、四人組の一人)、葉群(林彪の妻)、穎超(とうえいちょう、周恩来の妻)、呉儀に続いて、中央政治局員に選出された五人目の女性で、今回選出されれば女性初の中央政治局常務委員となる。私は、この7名はこの秋、政治局常務委員に選出されると思っている。

また、薄煕来が既に失脚してその可能性は少なくなったものの、02年、常務委員の数を7名から9名に増員した目的が、胡錦濤への権力の集中を防ぐ事にあったとすれば、逆に現在、江沢民派の勢力を削減する目的で、周永康の後継として指名される可能性のある薄煕来の常務委員会入りを阻止する計画も含めて、9名から7名に削減する事もあり得るのではないかと思っている。更に、07年、江沢民と曽慶紅で、次期総書記を習近平に決めた経緯を考えれば、今回、逆に李克強にも僅かながら総書記に就任する可能性が出てくるのではないかと思う。習近平が順調に総書記に就任しても、李克強を始めとする共青団の発言力が増す事は必定だ。

さて、祝賀会には現れなかったが、薄煕来は祝賀期間中、重慶の"紅歌(革命の歌)"歌唱団を引き連れ、北京でコンサートを開いた。この会には中央政治局常務委員は誰も出席しなかったが、人民解放軍総政治部主任 李継耐、戦略導弾部隊司令員 靖志遠が出席し、壇上で薄煕来と共に歌を唱い、両者の関係が良好である事を顕示していた。(「世界民意ネット」『軍部の七大老 突然集合し 重大なメッセージを発信』2012年4月1日)

・亀裂
上記の内容は、薄煕来と中央上層部が、あまり上手くはいっていなかった事を示しているが、薄煕来と胡錦濤の関係が決定的に悪くなったのは、11月に入ってからと言われている。CCTV2011年11月11日19時の報道によれば、12日、13日に開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)に出席するため、胡錦濤を乗せた専用機は、10日午前8時半、ハワイのホノルル空港に到着した。この日、胡錦濤は午後から米国工商界の代表等と会見している。

同日、薄煕来は、胡錦濤の出国に乗じて、重慶で大規模な軍事演習を行った。新華社の報道によれば、この日行われた成都軍区第六次実兵訓練には、薄煕来の他、中国国防部長 梁光烈(りょうこうれつ)を始めとして、四川・チベット・雲南・貴州の各軍区から大勢視察に訪れており、薄煕来に加勢する陣容の広さを示していた。

新華社の報道によれば、この日参加した軍関係者は以下の通り。
 「成都軍区司令員 李世明、政治委員 田修思、副政治委員 劉長銀、参謀長 艾虎生(が いこせい)、チベット軍区司令員 楊金山、軍委弁公庁副主任 宋丹、総参作戦部副部長  王津、総参動員部副部長 張汝濤、国家国動委綜合弁公室専職副主任 田義祥、総政群 衆工作弁公室主任 湯奮、総後軍交運輸部部長 張偉、国家経済動員弁公室主任 周建平、 成都軍区副参謀長 蘇巍(そぎ)、政治部副主任 鄭道光(ていどうこう)、成都軍区空 軍副司令員 林傑、重慶警備区司令員 朱和平、政治委員 梁冬、駐渝某部部隊長 許勇、 政治委員 刁国新(ちょうこくしん)、雲南省軍区司令員 張肖南、貴州省軍区司令員  李亜洲、四川省軍区司令員 淩峰(りょうほう)等」

軍事演習の終了後、薄煕来、梁光烈、成都軍区司令員李世明、黄奇帆(こうきはん)及び視察に訪れた人々は、重慶大劇院で開かれた「"軍民融合の強い国防"を主題とした"唱読講伝"の文芸の夕べ」を鑑賞した。会場に歓迎の曲が流れ、満場の拍手の中、薄煕来と梁光烈は来賓に向かい手を振って返礼していたという。(「世界民意ネット」『軍部の七大老 突然集合し 重大なメッセージを発信』2012年4月1日)因みに、薄煕来の妻谷開来が関与したとされる英国人実業家ニール・ヘイウッド殺害事件は、この四日後の11月15日に発生した。

・「唱紅(しょうこう)」運動
ここで、薄煕来が重慶で展開した「唱紅」運動について触れておきたい。2010年12月、習近平が重慶を訪問し、「唱紅」「打黒」を評価した際の記事によれば、これは一種の"理想と信念の教育"。「唱紅」は「唱・読・講・伝」活動の簡称。「唱」は「唱紅」、紅とは紅歌(革命の歌)の事で、栄光の歴史を唱い、正大で剛直な精神を唱い、団結と調和を唱う。「読」とは、古典や権威のある書物を声を出して読む事で、人類の文明を読み上げ、民族の智慧を読み上げ、理想と信念を読み上げる。「講」とは、物語をする事で、感動的な事績について話し、輝かしい功績について話し、英雄の模範について話す。「伝」とは、箴言(しんげん、戒めの言葉)を伝える事で、時代の真理を伝え、新しい格言を伝え、人生の警句を伝える。薄煕来は、「"唱・読・講・伝"活動とは、正を以て邪を抑え、先進的、革命的、正統的方法で、低俗な物を防ぎ止める事だ。」と語った。(「鳳凰ネット」『人民ネット:習近平は何故"唱紅"と"打黒"を高く評価したのか』2010年12月9日 14:13)この他、図書館に古典の閲覧室を設け、27曲の革命歌を学校に指定して必修とし、『毛沢東語録』等を発行し、重慶は中国の新延安(陝西省延安、革命の聖地)とまで呼ばれた。

大躍進で失敗した直後、毛沢東が最も信頼したのは、国民党との内戦を通じて戦略家・軍略家としての定評を得ていた林彪だった。林彪は、1959年7月廬山会議の後、失脚した彭徳懐(ほうとくかい)に代わり軍事委員会副主席(主席は毛沢東)兼国防部長に任命される。1966~1976年まで行われた文化大革命は、大躍進の失敗で発言力の低下した毛沢東が、復権の為に林彪系人民解放軍の支持を受けて、劉少奇・小平等を排除する目的で始まった。排除の理由は以下の様な物だ。

 「文化大革命は、一九六二年以来、党の最高指導部内部に生じていた内外施策をめぐる 対立・抗争の延長線上に、毛沢東のイニシアチブで発動された。彼にとって、中国の現 状は社会主義のあるべき姿から逸脱しているもので、こうなったのは、劉少奇を頂点と する「党内の資本主義の道を歩む実権派」(「走資派」)が、党と国家の枢要な機関を支 配して、真の社会主義を望んでいる「革命大衆」を抑圧しているからであった。」
                         小島晋治著『中国近現代史』より

中国国防部長梁光烈と肩を並べ、革命を礼賛する薄煕来の姿は、文革前夜の毛沢東と重なる物がある。

・軍部の動き
ところで、中央政治局には、軍人の為の席が割り振られており、十七期の政治局委員25名の中にも軍人が2名いる。序列二十三位の徐才厚、二十四位の郭伯雄だ。11月10日以前、中央政治局常委の6名は前後して重慶を訪れ、「唱紅」「打黒」運動を支持しているが、訪れなかったのは、胡錦濤と温家宝、李克強の3名。同時に、軍事委員会副主席 郭伯雄(かくはくゆう)、徐才厚も重慶を訪れず、支持も表明していない。

その後、1月10日、中央軍事委員会副主席 徐才厚は、"全軍紀律検査工作会議"において「旗幟鮮明(きしせんめい)に党中央・中央軍事委と胡主席の権威を断固守り、一切の行動は党中央・中央軍事委と胡主席の指揮に従う事」を全軍に要求した。

2月に入り、王立軍が成都の米国領事館に駆け込む事件が起こった。同月27日、郭伯雄は「解放軍報」に『部隊の平穏を保持し 安全に関わる重大な問題の発生を防ぐ』と題する文章を発表し、「政治を重んじ、大局に目を向け、紀律を守る、最も根本的な事は、胡錦濤同志を総書記とする党中央周辺と緊密に結びつく事だ…部隊は断固として、党中央・中央軍事委と胡主席の指揮に従う事を保証する…同時に、部隊の緊密な結集と平穏無事を確保し、断固として、全局に影響し大局の妨げとなるような、安全に関わる重大な問題の発生を防ぐ」事を強調した。

「団結」を口にするときは「分裂」しかかっている時だ。徐才厚も郭伯雄も、軍内部に矛盾が生じた事を臭わせ「党中央・中央軍事委と胡錦濤の指示に従う事」を強調している。但し、本来、この二人は江沢民派であったはずで、その二人が胡錦濤に帰順していると言うことは、薄煕来等の計画に少なからず影響を及ぼしたと思われる。

・中国版ウォーターゲート事件
さて、2012年1月初旬、王立軍は例年の如く薄家に新年の挨拶に訪れた。しかし、薄煕来は王立軍に会おうとせず門前払いをした。(英国人ニール・ヘイウッドの死亡原因をめぐって、薄煕来と対立したと報じる媒体もある)

その後、重慶市人民政府新聞弁公室は「重慶市委の決定により、王立軍同士は市公安局局長、党委員会書記の職を解かれ、副市長として科学技術教育工作を分担し受け持つ」と、ミニブログで発表。この辞令が下りたのが2月2日(木曜日)の午後。王立軍は恐らく月曜になるのを待って事を起こし、6日(月曜日)から7日(火曜日)にかけて(一説に36時間)米領事館に滞在し、7日、北京に押送された。翌3月、中央は王立軍の重慶市副市長の職務を免じている。

王立軍は、何故免職になったのか、そもそも何故中央に目を付けられたのか、或いは、米総領事にどの様な情報を渡したのか?正確な内容については、例えば、ウィキリークスが公表でもしない限り知ることは難しい。ただ、遼寧省で24年間公安関係に勤務し、優秀と評判の高かった王立軍は、あらゆる捜査方法に精通していたに違いない。

三月末、面白い記事が「亜洲週間」に掲載された。中南海(政府や共産党本部)の幹部を激怒させ、重慶に調査が入るきっかけとなったのは、重慶当局によって行われた、中央指導者の行動と内輪の会話の盗聴による監視だったと言う物だ。

この記事によれば、王立軍は盗聴狂で、遼寧省勤務の頃から、興味のある話題の盗聴に熱中していた。中央指導者習近平、賀国強、李源潮、呉邦国等が重慶を視察する際、或いは、調査研究に訪れた期間中、王立軍は常に盗聴し監視し、更に、知り得た内容を、薄煕来に報告していた。薄煕来は、王立軍が「打黒」の捜査でも盗聴していた事を知っており、後に勝手に盗聴の範囲を拡大した事を発見した時にも、止める事はしなかった。

問題はこれだけではない。この全国的に有名な「打黒の英雄」は、「中央警衛局」と関係を築き、窃かに中央の主な指導者の行動と個人的な秘密を得ていた。重慶公安局に勤める人物の話によれば、王立軍の指示のもと、部長級の公安幹部職員が、専門に盗聴監視に従事しており、王立軍が米国領事館に入り北京に押送された十日あまり後、この公安幹部も当局に拘束されたと言う。(「亜洲週間」『薄煕来事件の真相 中央指導者内部事情を盗聴される』2012年4月1日号)

中央警衛局とは、もとの八三四一部隊で、中南海の近衛隊と言われ、嘗て"四人組"を打ち倒した部隊だ。「中共中央弁公庁警衛局」は、もとの名を八三四一部隊と称したが、2000年以後、六一八八九部隊と改称された。解放軍総参謀部に属するが、中共中央弁公庁の命令で動く。解放軍の中の一種の特殊部隊で、党と国家指導者(総書記・国家主席・全人代委員長・全国政協主席・国務院総理・中央政治局委員等)の警護に当たる。

1976年10月、華国鋒、葉剣英等が、夜半、四人組の王洪文,張春橋,姚文元を、政治局常務委員拡大会議を口実に、中南海「懐仁堂」に呼び寄せて逮捕に及んだ。(懐仁堂事変、江青は自宅で逮捕)これにより、十年続いた文化大革命が集結する。この時、直接"四人組"を逮捕したのが中央警衛局で、その後、中央警衛局局長が小平、江沢民等国家主席の警護に当たっている。(「亜洲週間」2012年4月1日号『中央警衛局潜入の驚愕』)

王立軍と薄煕来の関係悪化の理由としては、薄煕来の妻谷開来が関与したとされる英国人男性の死亡事件が報じられているが、私は、この高級幹部の盗聴事件が、事実に近いのではないかと思う。中国の公安局員が捜査の為に盗聴するなどと言うのは、それ程珍しいことではないように思う。それに、「中南海盗聴」の露見により王立軍が中央に目を付けられたとすれば、新年の挨拶で薄煕来が会見を拒否するのも、2月2日に、公安局長の任を解かれるのも当然で、累が及ばぬよう王立軍に対して殺意を抱いたのも理解できる。更に、王立軍が「打黒」の英雄となり得たのも、昨年7月の「慶祝中国共産党成立90周年大会」以降、薄煕来の数々の不穏な動きも、全て説明がつくように思うのだ。

ともかくも、全国政治協商第十一期第五次会議が3月13日閉幕し、午後の中央政治局常務委員会会議上、9人の常務委員は全員一致で(一説には周永康だけは反対)、薄煕来の重慶党委書記解任を決定した。14日午前、北京の人民大会堂で開かれていた第十一期全国人民代表大会(全人代)第五次会議も閉幕し、翌15日、新華社は中共中央の決定として、薄煕来の重慶党委書記の解任と、張徳江の重慶党委書記就任を発表した。薄煕来は両会(全国人民代表大会と全国政治協商会議)の閉幕式に出席している。(「人民ネット」『張徳江同志 重慶市委委員、常委、書記兼任』2012年3月15日10:01)

・温家宝談話
3月14日午前、第十一期全国人民代表大会(全人代)第五次会議が終了した。大会閉幕後、国務院総理温家宝は、人民大会堂の金色大庁で中・外の記者を集め、会見を開いた。これは、温家宝が国務院総理として最後に行う両会後の記者会見でもあり、王立軍事件で各国から注目されている時でもあり、3時間に及ぶ会見となった。会見開始から50分程経過したところで、温家宝は中国の「政治体制の改革」について触れている。

「経済の発展につれて、またも、格差、信用の欠如、汚職腐敗等の問題が起こった。私は、これらの問題を解決するためには、経済体制の改革ばかりでなく、政治体制の改革、とりわけ党と国家指導体制の改革を行わねばならないと承知している。現在、改革は攻略の段階に入っており、政治体制の改革に成功しなければ、経済体制の改革を徹底できるはずもなく、既に修めた成功も容易に失われ、社会に新たに生まれる問題も、根本的には解決できない。文化大革命、この様な歴史の悲劇も再び起こるだろう。責任ある党員と幹部は、各自皆緊迫感を持つべきだ。」と述べた。

「文化大革命」の再発を防止する為の「党と国家指導体制の改革」が、具体的に何を意味するのか定かではないが、言外に、常務委員の人数変更や、習・李体制を補佐するための、胡・温の続投の可能性も含まれるように思う。

また、王立軍事件について始めて言及し、「王立軍事件が発生して、国民は重大な関心を寄せ、国際社会も非常に注目している。私は、中央は重大視しており、直ちに関係当局に専門に調査を行うよう指示したと、皆さんにお伝えする事ができる。今のところ、調査は進展をみせており、我々は事実に依拠し、法律に基づき、厳格に法に照らして処理したい。調査と解決の結果は、必ず人民に伝え、且つ、法律と歴史の検証に耐える物となるだろう。多年にわたり、重慶市の政府と大衆は、改革の建設事業に力を注ぎ、大きな成果を獲得した。しかし、現在の重慶市委と市政府は必ず真剣に考え直さなければならず、並びに、王立軍事件から教訓をくみ取らねばならない。」と述べた。

「現在の重慶市委」とは薄煕来の事、「市政府」とは薄に賛同する文字通りの「市政府」の人々であると共に、この事件に関わる党内・軍部の関係者全員を指しており、「考え直せ」と説得を試みているのかもしれない。ともかくも、翌日、薄煕来は重慶市党委書記の任を解かれた。中央政治局委員の身分が保たれたのは、中南海内部の混乱を避ける為との見方がある。

・戒厳令下の北京
全人代閉幕の翌日、薄煕来は重慶市党委書記の任を解かれたが、それで事件が終わったわけではない。政治局常務委員の間では、処分をめぐって意見が二つに分かれていた。江派の周永康は、薄煕来擁護の立場を取り、焼身自殺者を出しているチベットに行かせて、手腕を振るわせ汚名を返上させようと提案したが、胡錦濤・温家宝は断固反対し、厳罰に処すべきとの立場を取って譲らなかった。その為、この二人に関係する派閥、下部組織が全て巻き込まれる事になったと伝えられている。(「台湾 蘋果日報」『薄保護派 胡温に難癖 北京で銃声か?』2012年3月20日)

この対立で注目すべき点は、胡錦濤と周永康の軍事的実力だ。胡錦濤は「中央軍事委員会主席」で人民解放軍の指揮権を握っている。対する、周永康は「政法委員会書記」として武装警察(公安部の管轄、同時に中央軍事委員会の指導下にもある)を動員できる。人民解放軍は総隊員数230万人、武装警察は日本の機動隊の様な組織で、装甲車の配備もある軍事組織、総隊員数66万人。これに公安の隊員を加えると、解放軍の隊員数に匹敵するという。

さて、新聞の報道の正不正確に関わらず、薄煕来の解任後、3月19日には異変が伝えられた。この日は、重慶と北京以外にも、上海、広州及び深玔(しんせん)等の地域で、特別警戒が敷かれていたようだ。

ミニブログ(微博)の書き込みに因れば、19日午後から深夜にかけて、多くの軍用ヘリコプターが北京上空を旋回し、ひっきりなしに往復していた。天安門広場から13km、北京市豊台区に位置する南苑軍用空港は、中央の要人が海外訪問の時に使用するので知られる空港だが、その豊台区で多くの装甲車を見たとの書き込みがあった。この他、午後十時頃、王府井付近から当直門に向かう僅か6~7kmの道程に、50~60輌の各種各様の特殊警察車輌が並んでいた。また、北京五環路、東六環路(北京を走る環状道路、六環路は高速道路)では、前日、解放軍兵士を満載したトラックの列が目撃されている。(「香港 東方日報」『薄煕来免職で 北京に装甲車の噂』2012年3月21日)

更に、長安街が軍・警察により封鎖されたという書き込みもあった。北京《証券市場周刊》編集委員李徳林によれば、中南海周辺は「装甲車が集まり、長安街では絶えず拘束され、交差点には多くの私服がおり、鉄条網で封鎖されている道路まである」、と。別の書き込みでは、深夜、銃声を聞いたと書き込みをした上に、装甲車・警察車輌の写っている写真を証拠として投稿した物まであった。また、「新浪微博」では「長安街」「周永康」「胡温」等の単語が一時封鎖され、発信出来なくなったと伝えている。

「今日の財政」の記者楊海鵬によれば、3月14日の温家宝の記者会見以降、薄煕来、及び親類、随行者等38名が、中央警衛局に捕らえられ、河北某所に拘禁されているという。楊によれば、権力闘争は現在も進行中で、少なくとも50名以上の関係集団が互いに小競り合いを繰り返しており、その中には、中共の老幹部も含まれるという。

これらの騒動の影響を受けたのか、19日から香港ドルのレートが突然下がった。あるトレーダーによれば、これは、内地の影響を受け、市場が米ドル購入に転じたためで、香港株式・為替市場は、北京の影響を受けてこの様な結果になったと指摘した。

さて、中央政法委周永康、政協主席賈慶林(かけいりん)及び李長春の江派は、薄煕来の事案に対しては内部矛盾としての処理を望んだが、胡錦濤、温家宝、李克強は法に従って処理すべきと主張した。中央紀律委員会書記の賀国強は江派と見られているが、薄煕来の重慶での所行には早くから不満を抱いていた。故に、胡・温支持にまわった。四対四の状況下で、次期国家主席と目され太子党でもある習近平は、胡・温支持にまわった。更に、軍部が「決然として、胡錦濤総書記の党中央を擁護する」と表明し、遂に、胡・温に軍配が挙がり、薄煕来を法に従って処分する決議が通過した。(「Apple Daily蘋果日報 (香港) 」『薄煕来の処分で不一致 江胡決闘し 習胡温になびく』3月20日)

この後、3月26日、政府筋の報道によれば、郭伯雄と中央軍事委員会委員梁光烈、陳炳徳、李継耐、廖錫龍(りょうしゃくりゅう)、常萬全、靖志遠の幹部7名は、植樹活動に参加した。軍部の高級幹部が集合して、各自の立場を公表し「団結」を示した、と伝えている。(「世界民意ネット」『軍部の七大老 突然集合し 重大なメッセージを発信』2012年4月1日)

26日以前に解放軍内部の、特に梁光烈を中心とする造反派が、説得に応じたものと思われる。因みに、この前日25日に、イギリス外務省が、ニール・ヘイウッドの死亡原因について調査するよう、中国政府に依頼している。まるで、中国政府とイギリス政府が示し合わせているようだ。

・中央政治局委員の職務剥奪
さて、4月10日「新華社北京4月10日電、薄煕来同志の重大な規律違反の嫌疑にかんがみて、中央は、《中国共産党章程(規約)》と《中国共産党紀律検査機関 案件検査工作条例》の関係の規定により、その中央政治局委員、中央委員の職務を停止し、中共中央紀律検査委員会により、要訴追事案として調査する事を決定した。(完)」(「人民ネット」『中共中央は薄煕来同志の重大な規律違反問題に対して 要訴追として調査する事を決定した』4月10日23時01分)

この報道により、薄煕来は政治的な権利を全て失い、一般人と同様、法のもとで裁かれる事になった。この事件を調査する「中共中央紀律検査委員会」は、序列八位の賀国強の管轄する機関だ。賀国強は1999~2002年まで重慶市党委書記を務めた。薄煕来と王立軍とで行った「打黒(黒は黒社会=暴力団、その撲滅)」運動で逮捕されたのは、多くが大企業の社長達で、皆、賀国強と、汪洋(薄煕来の前任)等の後押しを受けて会社を大きくした。その為、逮捕された時、その家族は中央に助けを求めている。この采配には、重慶に詳しい賀国強が、胡錦濤に命じられて、後始末に当たるという側面があるものと思われる。

・薄・周の計画
最後に、真偽のほどは定かではないが、薄・周の計画について触れておきたい。

逮捕された谷開来が、極刑を免れるために証言したと言われる内容によれば、計画の「首謀者」は周永康で、今年、秋の大会で、周永康は中央政法委員会書記の地位を薄煕来に譲り、薄煕来は常務委員会入りを果たす。習近平も国家主席に就任する。その後、薄・周の雇った学者や評論家を使い、国内及び海外に向けて、習近平の面目を潰すような情報を流す。権威を失墜させた後、2014年に武装警察を利用して政変を起こし、習近平の地位を、薄煕来が簒奪するという物だった。

周永康には、この他、妻子に関する巨額の汚職問題もあるようだが、中共は、過去に政治局常務委員を処罰したことは無い。07年、陳良宇(当時の上海党委書記、中央政治局委員)が収賄と職権乱用容疑で逮捕された時にも、常務委員の黄菊との関係が囁かれたが、司法の手は黄菊まで及ぶ事はなかった。そこで、今回も、周永康までは及ばないのではないか、との見方が出ている。常務委員に関しては、処分を公開することなく、面目を保ったまま政権を離れさせるのが慣例のようだ。(「加拿大新聞商業ネット」『谷開来命惜しさで暴露 周永康 薄と組んで再来年に政変を計画』2012年4月13日、「Apple Daily蘋果日報 (香港) 」『官位高く 周永康は軟着陸の模様』2012年4月13日)

私は、国の体面を保つための、内部の争いを外部に漏らさないような配慮については、それ程悪い事とは思わない。但し、受け取る側がその様な中共の行動を鵜呑みにして、何もなかったと考えるなら、それは愚かな事と思う。


ここまで頑張って読んで頂きまして有り難うございます。

以下、「二、中国共産党内の対立する二つの路線」に続きます。

また、気が向きましたらUPしますので宜しくお願いします。

あと、「たちあがれ日本」も応援してね!

The Typewriter Leroy Anderson Martin Breinschmid with Strau遵m Festival Orchestra Vienna


こうやって演奏していたんですね、びっくり!