極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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全世界が敬意を表している日本の天皇

2019-04-18 19:50:32 | 日本社会

以下文は、日本誌・エンゲルベルト・ケンペル著  霞ケ関出版(今井正) 2001年7月、日経新聞(2019年4月2日号)、ウィキペディア等々を参考に日記として記しています。

 

世界、人類にとって残念なことは1974年、エチオピアでは軍事クーデターにより王統は崩壊しました。皇帝は捕らえられ処刑されたとも言われています。古代イスラエルのソロモン王とシバの女王から3000年間、脈々と受け継がれてきた世界最古のエチオピア王統は1974年消滅しました。

異論があるかも知れませんが、日本の天皇・皇室には古代イスラエル、ダビデ王統を考慮した場合、旧エチオピア王統に匹敵する歴史を有していると思います。天皇・皇室は血統を極めて重視されるようです。

 

現在、世界で公式に皇帝・エンペラーと呼ばれるのは日本の天皇だけで国際儀礼でもあると思います。

世界には王族・キング(現在27の王室が存在)はいますが皇帝・エンペラーは天皇を除いて残っていません。人類史上、長い歴史を有する日本、天皇・皇室は人類の悠久の歴史でもあり、海外の王室と違うようです。(異論があるかも知れませんがシュメール、旧約聖書等の流れを汲んでいるようにも思えます。)普段、私達は意識しませんが国外から見たら私達日本人は凄い国に住んでいることになります。

国際社会では天皇のみが王・キングよりも格上とされ皇帝・エンペラーと見なされています。勿論、中国の人々も国際儀礼としての天皇に敬意を表し認めています。
世界で天皇を認めていない国は隣国韓国で、昨今は天皇を日王と蔑称で呼ぶ韓国、現天皇を戦犯の子とも発言していますが・・・即位の礼には出席せざるを得ないでしょう。出席しないなら全世界から非文明国と思われ笑いものになるでしょう。やはり一番の被害者は韓国内で日本の天皇制度を尊重し日韓友好を心から願う人達だと思います。

天皇は大日本帝国の君主であったために皇帝・エンペラーと呼ばれていたと思っている方が多いと思いますが、素人ながら精査すると1889年の大日本帝国憲法発布時以前から天皇は欧米人から皇帝・エンペラーと呼ばれ王・キングよりも尊敬されていました。

欧米から尊敬されていた天皇・・・尊敬されていた根拠の一つがドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルが記した日本誌(The History of Japan)です。欧州中で大変なベストセラーとなった日本誌の中でこれらの事実を確認することが出来ます。エンゲルベルト・ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在、帰国後この著を残しています。

日本誌は、17世紀末に出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが江戸時代、日本での見聞をまとめ執筆した書物です。彼の遺品の多くは遺族により3代のイギリス国王に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られました。

1727年、遺稿を英語に訳させたハンス・スローンによりロンドンで出版された日本誌はフランス語、オランダ語にも訳されています。特にフランス語版が出版されディドロ(フランスの哲学者、美術批評家、作家、主に美学、芸術の研究家、18の啓蒙思想時代にあって、ジャン・ル・ロン・ダランベールとともに百科全書を編纂しており、百科全書派の中心人物です。)の百科全書の日本関連項目の記述が全て日本誌を典拠としたことが原動力となって知識人の間で一世を風靡しゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読、19世紀のジャポニスム(19世紀にヨーロッパで流行した日本趣味のこと。)に繋がって行くようです。

 

エンゲルベルト・ケンペルは日本誌で日本には聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍という2人の皇帝がいると記しています。1693年頃に書かれた日本誌が天皇を皇帝とする最初の欧州文献史料と言われ、天皇に対する尊敬等が醸成されたと思います。
有名な話としてナポレオンが19世紀初頭に突如、皇帝になったことは欧州の保守派の人達の間では認められるものではなく、馬鹿にされています。何故なら皇帝・エンペラーには相応の歴史、血統の正統性が要求されるからです。

ドイツのヒットラーが戦前、満州重工業の総裁であった鮎川義介氏に会った際、ヒトラーは鮎川氏に対し、次のようなことを語っています。貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。それは貴方の国の万世一系の皇統である・・・尊敬の念と憧れを表していると思います。

 

エンゲルベルト・ケンペル以降、約140年後に日本に渡ったシーボルトにも大きな影響を与え、日本の先人を顕彰しています。

16~17世紀、日本を訪れた多くのヨーロッパ人は万世一系の皇統とその異例の古さというセオリーを受け入れています。江戸時代、日本書紀研究者達は、神武天皇が王朝を創建した年の計算を行っています。神話的な日本建国の年代をヨーロッパ人達は西暦に計算しなおして報告しています。日本誌はそれを明治時代に制定された神武天皇即位紀元と同一の紀元前660年とした最初期の例で、エンゲルベルト・ケンペルは日本誌で以下のように説明しています。

 

皇統・・・

3番目かつ現在の日本の君主制、すなわち王代人皇(天神七代、地神五代に続くもの)ないし、祭祀者的世襲皇帝はキリスト前660年に始まり、それは中国の皇帝恵王(周王朝の第17代皇帝)の治世17年のことである。この時からキリスト紀元1693年まで、すべて同じ一族の114人の皇帝たちが継続して日本の帝位についている。彼らは自分達が日本国の最も神聖な創建者である天照大神の一族の最も古い支族であること、そしてその長男の直系であり代々そうである事を極めて重んじている。

続いて、日本で書かれ刊行された2つの年代記を参照して、歴代天皇の名前と略伝を列記しています。

エンゲルベルト・ケンペルは天地創造がキリスト紀元前4000年頃の出来事だという計算が信頼されていた時代で、これを古代史の年代計算の妥当性の基準にしています。

日本誌の中では、日本の歴史家が中国の帝王・伏羲(古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王)の統治開始年をキリスト紀元前21106年と算出していることに触れ、それを棄却、上記の基準すなわち神による天地創造の以降とされた諸王朝の年代設定には寛容であったようです。

 

政府は10月22日の新天皇の即位の礼(日本の天皇が践祚(せんそ:天皇の位につくこと)後、皇位を継承したことを国の内外に示す一連の国事行為たる儀式で最高の皇室儀礼)に日本が国家承認している195カ国の代表者と欧州連合(EU)の大統領、欧州委員長、国連事務総長等の方々を招待すると発表しています。

隣国でもある北朝鮮は国交が無いため招待がないようですが、メディア等が報道することはありませんが表向きは批判的でも天皇・皇室に対しては間違いなく尊重、尊敬しています。これは韓国とは相反する考えです。国交があれば高い地位の政府関係者が参加するでしょう。一説では、拉致問題の深部の一部にも皇室等への憧れを見出すことが出来るとも言われています。

即位の礼は新天皇の海外へのお披露目という意味合いが強く、招待国は絞らない形式を採用しているようです。憲政史上初めて、平成31年4月30日に行う天皇陛下の退位の儀式、退位礼正殿の儀、翌5月1日に皇太子さまが新天皇に即位後最初に臨まれる「剣璽等承継の儀」等、付き従う皇族方の立たれる位置など詳しい手順を定めた細目を決めているそうです。

菅官房長官は「退位礼正殿の儀」は1週間前をめどに、「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」は当日の5月1日に、それぞれ憲法に定める国事行為として行うことを閣議決定する考えを示しています。

さらに、「即位礼正殿の儀」の翌日の23日に、海外の要人などをもてなすため総理大臣夫妻の主催で開く晩さん会の文化行事について狂言師の野村萬斎さんに総合アドバイザーとして助言してもらい、日本が誇る伝統芸能を外国の賓客にわかりやすく堪能してもらえるようアドバイスをいただくようです。

私達にとっても元号使用は天皇・皇室との関わりを感じると思います。日本人の大半は日本に生を受け生涯を閉じます。この当たり前でもある私達の日常、世界から見たら悠久の歴史を有する日本、天皇・皇室を有する国で生きるということに世界の人達から見たら羨望の眼差しがあります。これらの事実は多くの個人プログ等で誰でも確認できます。

 

万葉集は、奈良時代の日本最古の歌集万葉集で天皇や皇族、歌人、農民等、幅広い階層の人々が読んだ約4500首の歌が収められています。

新元号・令和・・・

春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる・・・
そうした日本でありたいとの願いを込めて・・・考案者は国文学者の中西進氏とも言われていますが本人談・・・元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがないとコメントしています。

一説では、大嘗祭等、宮中祭祀「等」を全て取り仕切っていると言われる鴨神社・ヤ***ス、元号考案が祀り「等」ごとであれば、・・・形の上では元号は公募等々となり考案者名が何人か記されていますが・・・

令和の出典元である梅花の歌は、万葉集5巻に収録されていますが、万葉集・梅花の歌の作者は、お酒が大好きな大伴旅人(おおとも の たびと)作と言われていますが諸説あり作者不明です。大伴旅人は、飛鳥時代から奈良時代に活躍した歌人で太宰府長官でもありました。

万葉集約4500首の中で筑紫国で詠まれた歌は約320首があり、そのうち大宰府長官・大伴旅人邸(大宰府)で開かれた宴で筑紫歌壇の員により梅花を題材に詠まれた32首があります。その宴を梅花の宴と呼ばれ、万葉集巻五に収録されています。序文として、梅花の歌が寄せられています。この中から令和が引用されているとも言われています。

初春の「令」月にして、気淑(よ)く風「和」ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。

 

日本には四季があり、世界から見たら極めて恵まれた自然・・格差社会等々がありますが医療、生活等々日本は全てに世界から見たら極めて恵まれています。

日本で生きていけないために日本を出国し、海外移住を目指す人達は極一部の人達を除いていません。この逆の日本に移住したい人達は極めて多いのが実情で、根底には天皇・皇室を有しているため揺ぎない安心感、信頼感等々が大きいと思います。天皇・皇室に対し、日本人は計り知れない心の拠り所としていると思います。

元号・令和で新しい日本の歴史が始まりますが、私達も新たな気持ちで未来の夢、希望を語れる社会、一人々の悔いのない人生を送り、自分史を素敵な日本国で作りたいものです。 

 

参考

梅花の歌三十二首并せて序
天平二年正月十三日に、師の老の宅に萃まりて、宴会を申く。

時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。

加之、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾け、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封めらえて林に迷ふ。

庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。ここに天を蓋とし、地を座とし、膝を促け觴を飛ばす。

言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。

淡然と自ら放にし、快然と自ら足る。

若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情を述べむ。

詩に落梅の篇を紀す。

古と今とそれ何そ異ならむ。

宜しく園の梅を賦して聊かに短詠を成すべし。

 

 

現代訳

天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。

時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。

のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。

庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。

ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。

淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。

これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。

中国にも多くの落梅の詩がある。

いにしへと現在と何の違いがあろう。

よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。


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