極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日本(鎌倉幕府)を救った、ベトナム・陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍

2017-08-20 18:59:54 | 日記

以下文は、ベトナムの歴史・ベトナム中学校歴史教科書・世界の歴史教科書シリーズ21、ウィキペディア等々を参考に記しています。

 

当時の時代背景・・・ 

元寇を破った鎌倉武士・・・元寇(モンゴル)の大多数は被征服側の漢人、高麗人、南人です。馬に乗らない指揮官等のモンゴル人(騎馬民)の陸上での戦いは勝手が違ったと思います。

大陸でのモンゴル軍は強兵で遊牧民です。平時は農耕民族の脅威ではありませんが、一旦、強いリーダーが現れると農耕世界を略奪、貢納金を武力で取り立てます。

核心部分は「武力で略奪はし放題、文明世界の豊富な富を得ることができます。」、その傘下に甘い汁を吸いたいがために、こぞって部族が集まり、短期間にモンゴル大帝国が出来たようです。戦争屋としての機能が低下したら部族は元に戻ります。

当時のモンゴルの騎馬民族は戦争屋、戦争を職業としていたと言うのが正確でしょう。

モンゴル軍は中国、イスラム等の武器等を巧みに活用しています。元寇の時に使用された投石器、鉄砲(てつはう)のような火薬を詰めた弾を石などと共に投石器で打ち出し、敵陣に混乱を与えたところで戦を行う、鎌倉武士も当初これらの武器に相当混乱したとも言われています。当時の元は諜報を極めて重視しています。侵攻前には入念な情報収集、敵方の内情もあらゆる策を練り調べているようです。現代の心理戦なども用い、モンゴルの喧伝(けんでん:盛んに言いはやして世間に広く 知らせること)された残虐さ、降伏するか皆殺しかと言うのも、後の征服をし易くするための策と思われます。

元寇、ベトナム侵攻時も同じ戦法のようです。日本(鎌倉幕府)、ベトナムの両国も当時、有能なリーダーが存在したのが元の侵攻を防いだと思います。

 

白藤江(はくとうこう)、別名バクダン(Bac Dang)川はベトナム・ハノイ周辺にあります。

1287~8年、日本の鎌倉時代、このベトナム・白藤江(バクダン川)で行なわれた、ベトナムが存亡を掛けたフビライ・ハーン・元軍との激戦・・・ベトナムの勝利を日本で知ることは少ないようです。

この戦いは日本にとって、2度の元寇侵攻後でもあり、当時の日本の未来を決する戦いでもあったと言われています。

 

1258年の第1次元・ベトナム戦争、1283年の第2次元・ベトナム戦争の2度の遠征に失敗した元のフビライ・ハーンは怒りを募らせ、1287年に3度目の出兵、第3次元・ベトナム戦争を行ないました。

南宋に打撃を与えるため、元はベトナムへ侵攻を開始、南宋の背後をとることで挟み撃ちにしようと計画、これが第1回ベトナム遠征です。

元は降伏するよう勧告に来た使者をベトナムが次々に投獄したため、帰ってこない使者に業を煮やしてモンゴルからの侵攻が始まります。この間にベトナムは侵攻に備えて軍備を整えていました・・・日本の元寇と同じです。

3度目の出兵では元軍はクビライの息子、トガン(脱驩)を総司令官として9万の兵力を投入、加えて多くの戦船、張文虎将軍率いる数10万石の糧食を運ぶ船団も備えていました。

日本に対する、2度(文永の役・1274年、弘安の役・1281年)の元寇侵攻、元のフビライ・ハーンは2度の日本との戦いに負け、怒り3度目の日本侵攻を準備していたとも言われています。

何故、日本にとってこの3度目の元とベトナムの戦いが重要であったかと言うと、3度目の日本侵攻で使用するとも言われていた多くの艦船がこの戦いで使用されたことです。

ベトナム軍は陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍の知性の策によりフビライ・ハーン・元軍に勝利し、これらの艦船の多くは壊滅しました。

この戦いでベトナム軍が負けていたら・・・3度目の元寇侵攻が実施された可能性があります。この侵攻に、例え日本が最終的に勝利したとしてもおびただしい犠牲者、朝廷等の財政は困窮し、日本全土が疲弊してしまったと思います。陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍により鎌倉時代の日本は救われたとも言えると思います。

 

白藤江(バクダン川)の戦い・・・

1288年、軍隊を3つに分けて進軍した元軍・トガン将軍は昇龍を占領しましたが、すでに都城の住民がベトナム側朝廷の焦土作戦(守る側が、攻撃側に奪われる地域の利用価値のある建物・施設や食料を焼き払い、利用価値をなくして攻撃側に利便性を残さない策)を実行していて、もぬけの殻となっていました。

元軍はベトナム・陳朝の抗戦勢力を全滅させることができず、次第に守勢になります。危機的形勢になったと判断した元軍・トガン将軍は水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することを決意

元軍を全滅させ、国を解放する機会ととらえたベトナムの陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍は反撃を決断、白藤江(バクダン川)の潮位の上下を日々綿密に調べさせ、巧妙に川底に杭を打ち伏兵を配、ゲリラ戦を決意

1288年、元軍・ウマル指揮船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上、戦船が杭を打ち込んだ地点に来ると、ベトナム・陳軍の軽舟が出撃・・・負けを装って後退・・・懸命な追撃の元軍が伏兵された地点に来ると、両岸から何千ものベトナム・陳軍の小舟がなだれ込みます。

丁度、潮が引きはじめた時です。元軍の船団は慌てて退却しますが干潮で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれ、多くの船が壊れて沈没、更にベトナム・陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させたと言われています。

生き残った元軍兵士は川岸へと逃げたが伏兵していたベトナム軍歩兵による奇襲攻撃を受けました。元軍水兵は全滅、元軍・ウマル将軍は生け捕りにされました。

軍元・トガン将軍が指揮した部隊は萬劫より諒山の方向へ逃走、ベトナム・陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍の追撃を受けつつ広西に逃げ帰ったと言われています。

 

ベトナム・陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍の活躍により、当時のベトナムは元国に占領されず、属国となりませんでした。

この、陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍の戦い方は「弱いものが強いものを知性を持って倒す」・・・孫子の兵法でもあり、先のベトナム戦争等でも実践されゲリラ戦の草分けと思います。

「弱いものが強いものを知性を持って倒す」、今もベトナムではこの言葉は大変大切な言葉として多くの国民に継承されていると言われています。

陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍の活躍を未来永劫、後世に残すため、今もベトナム全土、約1万6000の寺院には陳国峻(チャン・フン・ダオ)将軍が祭られているそうです。

ベトナムは、近代にフランスの支配を受けましたが東南アジアでは誇り高き民族とも言われ、その精神は現代も失われることなく、学校現場でも歴史の事実として歴史教科書で子供たちにも詳しく教えられ、誇りを持っていると言われています。

 

 


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