極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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大義に生きた、会津藩(福島)の志士達

2015-12-18 10:44:29 | 日本文化等

大義と言うと現代人には理解しにくいようですが・・・日本人の中に流れているDNAのようなものを感じます。

大義:人間が行うべき大切な道義のこと、大切な意義、人のふみ行う大切なこと、主君等に対してなすべき道、言うことは簡単ですが、このような生き方を、現代に生かすことは違和感があるかも知れません。特に戊辰戦争での会津藩の志士たちは、国家のため、大義を貫くためそのような生き方をしたと思います。戊辰戦争で負け、生き残った会津藩の人達は、棄民(捨てられた民)とされ東北等の辺ぴな土地に追いやられました。会津若松藩は大変教育熱心な藩と言われ、白虎隊の若者も、会津藩校、日進館での忠臣義士のもとに大いに勉強していたと言われています。
会津藩の元は京都所司代と言われ、正義心の強い、潔白な人々と言われております、明治政府が会津藩中心の政府であったら、高い道徳を保持した政府であったでしょうし、海外勢力に騙されることなく・・・先の大戦も避けていたでしょう。会津藩の消滅は日本人の魂の消滅に等しいと思います。

明治元年~明治2年は、明治政府を樹立した薩摩藩、長州藩らを中核とした新政府軍(天皇側)と、旧幕府勢力、奥羽越列藩同盟が戦った戦争(内乱)です。

イギリスに後押しされ明治新政府、正に傀儡に等しい・・・旧幕府勢力、奥羽越列藩同盟は義に生きており許せない・・・戦争(内乱)が始まりました。

この戦いの悲劇は、会津人から土地、金、女、子供、全てを奪ったと記されています。当時の薩摩、長州軍は死体でさえ好んで死姦し、若い少年少女を妾として連れ帰り奴隷貿易まで始めたと記されています。

この戦争では、人には話せないほどのむごい悲しい話がこのような形で、秘密裏に伝えられています。
長州の奇兵隊士やならず者たちは、山狩りと称して、村人たちが避難した山々を巡り強盗や婦女暴行を繰り返した。
若い娘を見つけると誘拐して、五、六人で押さえ付けて、順番に強姦する。時には家族の見ている前で事に及ぶこともあった。家族が抵抗すれば鉄砲で射ち殺した。このような徒党が入れ替わり立ち代わり回って来るのである。村人が更に山奥に避難しても鬼は必ず回ってくる。酷いのは八歳から十歳ぐらいの二十人もの女児までもが犠牲になったといわれる。泣き叫ぶ子供に家族は何も出来ずに、後ろを向いて耳を塞いで嵐が去るのを
待つしかなかった。
その後、戦争が終わり、長州兵が去った後、各村には穏やかな日が戻ったが、犯された百人を超す娘や子供たちは、そのほとんどが妊娠していた。
医者は、堕胎をしたが全員とまではいかない。中にはその為に亡くなった娘もいた。月満ちて産まれた誰の子か判らぬ赤子を、村人はお寺の片隅に穴を掘り生きたままで埋めた。寺の住職も見て見ぬふりをしてくれた。
埋葬した村人は小さな塚に小石を載せて目印にした。子を埋めた塚を、村人はそれとなく「子塚」「小梅塚」と呼んだ・・・「呪われた明治維新」より

2007年、NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」に初めて会津藩主、松平容保(まつだいら・かたもり)が登場しました。その時の有名な言葉に「死すとも不義に生きず」・・・松平容保
大儀に生きた生き様を表した言葉だと思います。

会津藩の人達は、自らが信じた正義を訴えるために戦いましたが、当時の日本人は薩摩(鹿児島県)や長州(山口県)の見方ばかりで、当時の日本人には事大主義等々の風潮が蔓延、会津藩は孤立、見捨てられましたが、何時の日かきっと会津人の気持ちを多くの日本人が理解してくれると言う思いで会津藩兵は戦場に向かっています・・・有名な白虎隊少年たちも自刃して果ててしまいました。
生き残った会津藩の人達は棄民とされ、長きにわたり朝敵の汚名に耐え、その怨念を胸に秘めて生きたと言われています。青森の下北半島や北海道に強制移住と言うより追放(当地は生きるのは厳しい土地で、死の宣告に等しいと言われています。)させられた人々の末裔の怨念は末代まで消えないでしょう。
戊辰戦争では官軍とは名ばかりで、薩長軍の残虐行為、錦の旗、天皇の旗のもとに会津藩に攻め込んだ官軍の実態は記憶、記録では強賊同然だったと・・・捕り部隊の存在、薩摩、長州は競って土蔵を封印、略奪の限りを尽くし、女性も分捕りの対象になっています。

薩長軍が攻めてきた時は、会津城(鶴ヶ城)の城下で暮らす人々は大いにあわてて、刀剣、陶磁器、金銀財宝を庭に穴を掘って埋めています、それを目当てに江戸から古物商が乗り込み、泥棒市場が開かれ、買い取って江戸に運んだと言われています。 若松の人々理不尽にも自分の持ち物を、高い金を出して買い戻さなければならなかったと言われています。

有名なのは、砲術師範の娘、山本八重子(後に同志社大学の創設者新島襄の夫人になっています。)は着物も袴もすべて男装、麻の草履をはき、両刀をたばさみ、元込め七連発銃を肩にかついで若松城(鶴ヶ城)に入城・・・弟の三郎が鳥羽伏見の戦いで戦死しており、弟の仇を取りたい、命の限り戦う覚悟だったと言われ、善戦しています。
入城した人の中には、足手まといになると幼子を殺めて入城した人もおり、顔はひきつり心労でくたくた状態、小さい子どもを背負った者、老人の手をとって入城した者、多くの人達がいたと言われています。

類右衛門(進撃隊、席御供番)は、鬼の官兵衛の異名を持つ会津藩きっての猛将、佐川 官兵衛の配下になり郊外で戦っていましたが、女性を裸にして惨殺した敵の卑劣な行為を目撃激怒・・・場所は会津高田町(現、福島県大沼郡会津美里町宮林)の伊佐須美神社内・・・若い女性を裸にて殺害

このように、会津人の怨念の一つは婦女に対する暴行、類右衛門の目撃例はほんの氷山の一角で、このような行為は広範囲におこなわれ、婦女子は辱めを受けていたと言われています。捕らわれた女性が数珠つなぎになっていたという目撃談、その振る舞いは強賊というほかなし、と類右衛門は記述しています。

白虎隊は本来予備兵力と言われ、城下防衛の組織で、隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、340名程度、装備火器は旧式銃、火縄銃よりはましというレベルの装備、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていたと言われています。
若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開、防備に努めていますが、物量、新式銃保有等の新政府軍に対しては劣勢、重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗、防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たる白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍・・・老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入されています。
会津軍劣勢の中、白虎隊も苦戦、最精鋭の士中隊も空しく撤退、一番隊は藩主松平容保護衛の任、二番隊は戸ノ口原で大打撃を受けて潰走、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。

市中火災の模様を目にした結果、総勢20名が自刃、唯一喉を突いた飯沼貞吉(士中二番隊所属)のみが一命を取り留め、19名が死亡、白虎隊は若松城周辺の火災を目にし落城したと誤認して悲観したとされていますが、飯沼貞吉が生前に残した手記「白虎隊顛末略記」によれば、隊員は鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したと言われています。
敗走途中はぐれた庄田保鉄(士中二番隊の嚮導役)らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守りましたが、城戦は1か月続き会津藩はついに降伏・・・

その後不思議な縁があり、敵側であった長州藩に行き、長州藩の回りの人達の支援で大いに勉強します、長州藩は会津藩同様大変教育熱心な藩と言われています・・・もう日本人同士が戦ってる場合ではないことを学びます。特に福沢諭吉の西洋事情を愛読し、最先端の電気通信を学び、日清戦争時は陸軍技術部総督として朝鮮半島の電気通信の架設をしています。
維新後を生き抜き、1931年78歳で亡くなられていますが、飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっているようです。
飯沼貞吉の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬されたと言われています。教育熱心さは、孫である高見三郎氏にも受け継がれ、高見三郎氏は文部大臣を努めています。

士中二番隊の隊士の酒井峰冶も生き残って精米屋を営み、没後の1993年に酒井家の仏壇の中から戊辰戦争実歴談が発見され、戸ノ口原の戦闘の様子が後年に残されていると言われています。

戊辰戦争で生き残った、会津藩の怨念は、以後の薩摩藩と政府軍(旧会津藩の一部が政府軍に参戦)との戦い・・・熊本県の田原坂の戦い等での元会津藩士の活躍、当時の会津藩士は政府軍に自らこぞって志願、特に抜刀隊等には戊辰戦争で賊軍とされた旧会津藩士など旧幕府出身者が多く志願したといわれています。怨念を晴らす為の屈強な戦いで薩摩軍を苦戦させたと言われていますが、この部分については学校教育等々では深くは触れていません・・・戊辰戦争での官軍の行為は、触れてほしくないからでしょう。

我々が学校等で学び、知っている戊辰戦争、昨今研究されている内容は隔たりがありますが、新しい内容にも目を背けることなく学び、自分自身が自分なりに判断することは重要だと思います。

我々が福島県の歴史の一端を知ることは福島県を理解することに続がると思います。未来の福島県が幸多からんことを・・・

偽(いつわ)りの明治維新、戊辰戦争の真実・・・星亮一・だいわ文庫、ウィキペデア等を一部参考にしていまが、意味不明文、偏見があるかもしれませんがプログ日記と言うことで・・・


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