極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

韓国孤児の母(田内千鶴子)

2015-10-14 03:57:26 | 日記
田内千鶴子(韓国名・尹鶴子)、日本人でこの方を知る人は少ないと思います。
朝鮮戦争等々、激動の戦後、韓国南西部、木浦市内で孤児院「共生園」を運営し約3000人の孤児を育てあげ、孤児達からお母さん(オモニ)と慕われ続け、厳しい生活環境のなかの孤児達、夢を捨てないでほしい・・・清貧に生きた名も無き日本人です。
1912年高知市若松町で生まれ、朝鮮総督府に勤める父と共に7歳で韓国に渡り、木浦高等女学校を卒業後、音楽教師として勤務していました。
笑わない孤児たちに笑顔を取り戻してあげたいと恩師に請われ、孤児院「共生園」で子供たちの世話を始め、孤児院を営んでいた同じクリスチャン韓国人、尹致浩さんと出会い、周囲の反対を押し切り昭和38年結婚・・・昭和43年、56歳で生涯を終えました。
1963年に大韓民国文化勲章(文化芸術発展に功績を立てて、国民文化向上及び国家発展に寄与した功績が明確な者に授与)、1967年には日本政府より藍綬褒章(教育衛生慈善防疫の事業、学校病院の建設、道路河渠堤防橋梁の修築、田野の墾闢、森林の栽培、水産の繁殖、農商工業の発達に関し公衆の利益を興し成績著明なる者又は公同の事務に勤勉し労効顕著なる者に授与)が授与されています。

韓国南西部、木浦市内の孤児院とは名ばかりの廃屋同然の「共生園」で、50人くらいの孤児と寝起き・・・貧しくも希望に燃えた2人3脚の日々は長くは続きません。ご主人が食料調達に行ったまま消息を絶ってしまったからです。主人の帰りを夢見ながら、一人で共生園の運営を続けます。親を亡くした孤児の数は増加する一方で運営は困難を極めてしまったと言われています。
日々の差し当たり必要なのは、今日口にする食料、自らリヤカーを引いて残飯を集め、役所を訪れては援助を訴え続けました。
たどたどしい韓国語を話しながら小さな体で食料や資金の確保に走り回り、孤児達の夢を捨てさせたくない想いで奮闘されたそうです。

病気の子には夜を徹し看病、ひもじい思いをする子には自分の食事を分け与え、一緒に遊び、歌い、抱擁し、そして祈り、精いっぱいの愛情を注いだそうです。いつも温かい視線を注いでくれる、母、千鶴子さんを、孤児たちはいつの間にか皆本当の母親のように慕うようになったそうです。

日本人に対する迫害等が激しかった時代、反日感情と貧しさに耐えつつも一人で施設を切り盛りする苦労は大変だったと思います。どんな逆境でも献身的努力を続け、孤児達の幸せを本当に心から願い、人生の全て捧げ尽くした方です。

凶器を手にした村人が突然、共生園を訪れ日本人である母、千鶴子さんの命を奪おうとしたことがあり、その時孤児たちは母、千鶴子さんに手を出させるものかと一斉に千鶴子さんを取り囲みました、村人は無言のまま立ち去ったそうです。千鶴子さんは後にこの時を振り返り、孤児たちが守ってくれた命、死ぬまで孤児のために命を捧げようと決意したそうです。その言葉どおり千鶴子さんは終生、この誓いを貫き通され多く孤児達を立派に育てあげられました。現在は、韓国内の共生園系列の9施設において、約450名の子どもや障害者が温かいケアの下で生活を送っているそうです。

50代で、がんに侵された母・・・千鶴子さんを付きっきりで看病する中、死の床で、千鶴子さんは梅干しが食べたいと呟くように言われ、当たり前のように韓国語を話しチマチョゴリを着、キムチを食べ、誰からも韓国人だと思われていた母が、意識朦朧とした状態で発した日本語で回りの人に話しかけたそうです。この言葉には、心の奥底にはずっと祖国への憧憬があったと思います。
この想いが日本での施設建設のもとになったと言われています。

昭和43年、56歳でがんで亡くなった時、市民葬に3万人の多くの人達が参列し、献身的な自己犠牲、清貧に生きた名も無き日本人、田内千鶴子さんに涙したと言われています。多くの韓国人が悼み、号泣した例は韓国の歴史初めてであったと言われています。

千鶴子さんの死後、親族等々が当時の施設の経営を継がれたようですが、経営は特に資金面での苦労は絶えなかったと言われていますが、多くの方々の協力で、共生園を軸に障害者施設、職業訓練校、保育所など幅広い福祉事業を展開することが出来たそうです。

以後日本では、親族等々が千鶴子さんの故郷への想い(梅干しが食べたい・・・)を受けて、1989年大阪・堺市に在日韓国人のための特別養護老人ホーム、故郷の家が設立、その後、大阪市生野区、神戸市、京都市に故郷の家を完成・・・千鶴子さんの意志を受け継ぎ、日本人、在日の幸せを願い運営されているそうです。

田内千鶴子さんの生まれ故郷である、高知県、高知市若松町の田内千鶴子記念碑公園には、像(レリーフ)、記念碑(韓国孤児の母、田内千鶴子生誕の地と記されています。)が建てられています。この場所に来ると初めて韓国孤児と田内千鶴子さんの繋がりを知るそうです。
昨今では、NHKのBS1スペシャル「姜尚中がゆく韓国ルート1」の番組では、木浦共生園を訪問し、園児と語らいの様子などが紹介されています。

月刊誌「致知」2008年6月号、田内千鶴子・生誕100周年記念事業報告書等々を参考にしています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする