極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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米軍と戦後沖縄医療

2014-11-13 10:34:28 | 戦後

惠隆之介氏の記事等々を参考にしています。
1972(昭和47)年5月、沖縄は27年ぶりに日本に復帰しました。当時の日本政府が驚いたのは、戦前の沖縄の衛生事情が一新されていたことだそうです。人口は戦前から31万人増えて90万人以上に達していました。
 
 沖縄は地理的にも亜熱帯であり、戦前はマラリア、結核、ハンセン病、赤痢などの罹患(りかん)率が全国平均の5倍以上と高かったそうです。
人々は感染症になると、多くが医師の診断を受けず、ユタ(巫女)を尋ねて祈祷にすがったと言われています。ユタは先祖供養が足りない、石油を飲めば治る等々と、非科学的な発言を繰り返したため、一家が全滅する不幸も発生していたそうです。
 
 沖縄を1945年から統治した米国は、県民教育の必要性を痛感し、米国式のプライマリーケア(総合的医療)の確立を図ったと言われており。沖縄振興のために当時の金額で10億ドル以上の国費を投入、これらの良策が功を奏しマラリアをはじめ種々の感染症を撲滅しました。これらの事実は日本のマスコミでほとんど取り上げられることはありません。
 
 看護学校は1946年に米軍が創立し、1950年には入学基準を高校卒に引き上げました。どうしても高度最新医療を学ぶには、日本基準の中学卒では困難と判断したと言われています。
学校は全寮制で3年間の教育で、教育指導は米軍ナースと元日本陸軍看護婦がスパルタ式で行ったと言われ、卒業までに4500時間の実習が課せられたようです。
 
 米軍は沖縄に極東最大、最先端の陸軍病院を建設し、そこを沖縄看護学校学生の研修の場に提供したと言われております。
当時の沖縄の看護学生をびっくりさせたのは、米軍ナースが全員将校(幹部、管理職)であり、大男の看護兵をアゴでこき使っていることだったそうです。沖縄の男尊女卑の悪習に風穴を開けたと言われています。
 
 看護学校卒業後、看護婦の資格を付与された女性は現場に赴任しますが、米政府は、看護婦資格を「1年更新制」としました。更新には、最新の看護学、医療機材の取り扱い法を受講した証明書を持参することが前提で、常に自己研鑽に努める必要があったと言われております。
 
 その後、大阪国立病院は1957年から、沖縄の看護学校を卒業した看護婦を毎年2人、1年間研修させました。彼女らが救急外来で患者に応急措置を施し、担当医に引き継ぐ光景に沖縄、米国式の手順に院内は吃驚、騒然となったと言われています。
現在の日本の特定看護師のシステムを、沖縄では50年以上も早く実施していたということになります。
 
 日本復帰を3年後に控えた1969年、日本の看護婦資格試験を看護学校の最上級生に受験させたところ、全員が高得点で合格しレベルの高さに日本政府を仰天させたと言われています。
このような看護教育システムは復帰後は日本式に改められました、座学偏重型の教育と医師の御用聞き的看護婦育成システムとなりました。米国式教育を受けた関係者からは日本復帰に伴い、沖縄の看護教育はレベル低下との批判が続出したと言われています。

 当時の米軍、沖縄の先進緊急医療等々は、徳田虎雄氏率いる、24時間受け入れ医療を目指し、経済的困窮者でも分け隔てなく治療する徳洲会病院に一部引き継がれたと言われています。
 
 徳洲会、徳田虎男氏の医療の原点は、父の病気を家が貧しく、医者に十分見てもらうことが出来なかった悲しさ、24時間いつでも見てもらえない医療施設等々・・・父の死亡につきるようです。現在の多くの病院で見かけるようになった「治療費相談に応じます」、「何時でも24時間受け入れ」等々に大きな影響を与え、国民の福祉向上等々につながったように思えます。

 沖縄県浦添市の救急病院等々で徳洲会病院の医療関係者の一部は米国式救急医療等々を学んだと言われていますが、高度の訓練、勤務等だったそうです。

 その結果、当時の国内の24時間受け入れ病院は限定されており、徳洲会方式にすれば医療関係者等の負担増となり、これらを望まない日本医師会との確執を生じたと言われ、現在も引きずっていると言われ重箱の隅をつつかれ、必ず叩かれる徳洲会病院・・・の構図ができてるように見えます。

 日本の緊急医療等々に大きなインパクトを与えた、戦後沖縄米軍の医療等々は我々日本人の福祉向上に間違いなく寄与したと思われます。残念ながらこれらの戦後沖縄米軍の良策は報道されることはありません。


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