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切腹と十字架

2006-04-12 18:07:39 | 日記・エッセイ・コラム

武士には切腹が名誉である。同じ死罪でも、打ち首や獄門とは大違いの誇り高い立派な最期とされている。一方、西洋の騎士道では、無実で鞭打ちの刑に遭い、弱音を吐かずに苦痛に耐えるのは、賞賛すべき立派な行為である。

イエス・キリストの受難も騎士道的に解釈して、雄々しい立派な忍従の態度と誤解されている。それに倣(なら)って、たとえばカトリックの修道士は不眠・断食・禁欲、或いは、自分自身の体を鞭打って、肉体的苦痛をみずから課して修行とする。体を苦しめることは、実は、精神的には誇り、即ち快楽、なのである。

「パッション」という映画でも鞭打ちの苦痛を強調する。しかし、新約聖書のマルコによる福音書で、受難の記事(14章:53節~15章32節)の単語を数えると、「殴る」「平手打ち」「葦の棒で叩く」が各1回、「唾を吐きかける」「拝む」「侮辱する」「罵る」が各2回で肉体的苦痛を与える暴行の言葉よりも精神的苦痛を与える侮辱の言葉の方が圧倒的に多い。

主が受けられたのは肉体的苦痛よりも精神的な苦痛であった。主の十字架刑は佐倉惣五郎の磔(はりつけ)や石川五右衛門の釜茹(かまゆで)のような雄々しく誇り高い英雄的な身代わり刑ではなく、あの悪名高いアブグレイブの裸の囚人達のような、名誉も誇りも奪われた、惨めで悲惨な陵辱の姿なのである。

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「顔をおおって忌み嫌われる者のように彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」(イザヤ書53:3)

「裸であったときに着せず、獄にいたときに尋ねてくれなかった」(マタイ伝25:43)