阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

アントニオ猪木議員の政界引退に思う-真横からみた闘魂外交

2019年06月28日 23時45分49秒 | 政治

 アントニオ猪木参議院議員が政界引退を表明した。

 猪木議員とは北朝鮮、キルギス、そして2度のスリランカと4度にわたって海外での議員外交にご一緒させて頂くなど、人道問題や紛争解決をテーマに行動を共にした。

 とにかく現場に行って対話をし、その包容力で相手を魅了してしまう『闘魂外交』について、私なりの視点で振り返ってみたい。

 子どもの頃から私はアントニオ猪木の大ファンであり、異種格闘技戦を次々に仕掛ける格闘家として、また、政治家としてイラクの人質救出に尽力するなどスケールの大きな生き方に大きな影響を受けた。中学を卒業したら新日本プロレスに入門して鍛えてもらおうと本気で考えていたほどだ。

 国会議員としてご一緒した印象はプロレスラーとしてのイメージとは異なり、徹底して平和主義、そして人とのつながりを重んじる人ということだ。

1.北朝鮮外交-拉致被害者を返しやすい環境作り

「そもそも猪木議員は何しに北朝鮮に行ってるんだ?」という批判の声も多く聞く。

 プロレスラー・アントニオ猪木の師匠である力道山の娘がスポーツ大臣を務めていたこともあり、金日成主席が亡くなった時にはメーデースタジアムで延べ38万人を集めた平和の祭典を実施した。その雄姿が北朝鮮では切手にもなっている。北朝鮮は猪木議員には大きな恩があると考えているようだ。だからこそ猪木議員は対話の窓口としての存在であり続けている。国交がない国だからこそ、貴重な対話の窓口を守り抜く猪木議員の決意と、その意義を強く感じた。。

 私たちは核開発、レアアースなどの資源開発、スポーツ・文化交流などについて意見交換をしたが、もっとも大きな関心のひとつはもちろん拉致問題を含む人道問題だ。一日も早い帰国を実現させるなど拉致問題解決の努力を求めるのは当然だが、1959年に始まった帰国事業で北朝鮮に渡ったものの、現地で筆舌に尽くしがたい苦難を味わっている日本人、あるいは日本人配偶者やその子供たちの存在も決して忘れてはならない。拉致問題については、北朝鮮は拉致被害者の現状を公式に発表している。その真偽は極めて疑わしいが、金正日総書記の時代に公式発表したものを現在の金正恩政権でひっくり返すと、これまで嘘で固めてきたこととは辻褄が合わなくなる。事実、安倍総理が拉致問題解決を叫んでも誰一人帰ってきていない。

 従って、いかに北朝鮮側が拉致被害者を返しやすい環境を作るかを考える方が現実的と考えた。それをいかに北朝鮮在留日本人の帰国とリンクさせるかが私たちの問題意識だった。

 猪木氏との訪朝では、姜錫柱(カン•ソクジュ)書記と3回にわたって意見交換をする機会を得た。姜錫柱書記は元副首相で、その時点でも外交の責任者だった。金日成・カーター会談や、2002年に小泉首相が訪朝した際の金正日総書記との首脳会談に同席するなど金日成主席、金正日総書記、金正恩第一書記と3代の外交を支えてきた重鎮だ。私たちは相手のメンツも立てながら、『人道的配慮によって』希望する日本人全体を対象に帰国を認めさせ、結果的にその中に拉致被害者も含まれるストーリーを描けないものか考えていた。そのためには、徹底して信頼関係を構築する必要がある。政府としては言えないことを議員外交で伝えて可能性を探り、政府と協力して成果を引き出す戦略だった。

 日本政府との連携、役割分担についてはアントニオ猪木議員は予算委員会などで再三安倍総理に呼びかけていたが、安倍首相は極めて冷淡な反応だったことが残念でならない。

 日本政府の交渉窓口だった宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使は党内序列では当時61番目。アントニオ猪木議員は政府の交渉窓口より遥かに力を持った外交担当者と交渉できる唯一の存在だからこそ、「猪木をもっと使ったらいいんだ!」との叫びを聞きながら、私も本当にもったいないと思った。

 湾岸戦争時、イラクでは日本人46人が人質となったのだが、その際に当時のサダム・フセイン大統領と交渉し、費用も私費で賄って彼らを救出したのは外務省でも時の政府でもなく、アントニオ猪木議員だったではないか。

 米国とイランの関係を緩和する『安倍仲介外交』は何の成果もなかったが、相手政府だけではなく、あらゆるルートを駆使して可能性を探るのが本来の外交の姿であろう。政治は結果責任であり、猪木外交が拉致被害者救出という結果を出せていないことについては、この試みは未だ道半ばというしかない。しかし引き続き、今度は国会議員という縛りのない中で、このライフワークに取り組んでもらいたいと思う。

2.キルギスーペレストロイカ・ボクサーとの再会

 私は20代の頃、協栄ボクシングジムに通っていたことがある。一緒に練習しながら旧ソ連出身のユーリ・アルバチャコフ、そしてオルズベック・ナザロフが世界チャンピオンに昇り詰める様子をそばで見ていたが、彼らはアントニオ猪木議員が『ペレストロイカ・ボクサー』として招いたボクサーだった。ソ連が崩壊し、素晴らしい才能を持ったボクサーの活躍の機会がなくなってしまっていたが、彼らにチャンスを与えたのがアントニオ猪木議員だった。

 2010年夏、10月に行われる選挙監視活動を効果的に行うためのリサーチでキルギスを訪問した時、私はオルズベック・ナザロフ氏に再会した。彼はキルギス共和国初の世界チャンピオンとして国民的英雄だった。その彼が「日本に帰ったら是非、猪木さんにお礼の気持ちを伝えて欲しい。あの時チャンスをもらえなかったら今の私はなかった」と切実に訴えてきた。

 その時は、同じ日本人というだけではアントニオ猪木氏と連絡が取れるわけもなく、私からは伝えようがなかったが、その後、何と同じ国会議員として議員外交のパートナーになった。

 様々な議員外交に取り組む中、満を持してオルズベック・ナザロフ氏のことを猪木議員に伝えたところ、「是非、行きましょう」と同意してくれた。タイミングを図っているうちに私は落選し、衆議院議員ではなくなってしまったが、2015年5月、私が実行委員長として第1回大会開催に奔走したキルギス・シルクロード国際マラソンの第4回大会に参加してくれたのだ。貴重なGW期間中、世界中から招待される中、すでに国会議員ではなくなっていた私の求めに応じて、首都ビシュケクからも遠く離れたイシククル湖畔まで来てくれたのは、まさに、人のつながりを大切にする猪木議員らしい判断と行動力だったと思う。

 「先生、一緒に議員外交の本を出しましょうよ」首都ビシュケクに戻った時、猪木議員は提案してくれた。「私が本を出せば必ず買う読者がいますから、私で良ければ少しでも先生の力になりますよ」

 アントニオ猪木議員は、企画書を一緒に考えたり、一緒に出版社を当たったりしてくれたが、この提案は未だに実現していない。猪木議員が国会議員を引退し、もう少しフリーに活動・発信できるようになれば、是非、実現したい私の夢だ。



スリランカのテレビ局でインタビューを受け平和外交とジャヤワルダネ元大統領の思想について語る(2014年)


北朝鮮に向かう途中の北京で作戦会議(2014年7月)


姜錫柱(カン•ソクジュ)書記との会談後


第1回キルギス・シルクロード国際マラソンでオルズベック・ナザロフ氏と(2012年5月)


第4回キルギス・シルクロード国際マラソンのレース後、オルズベック・ナザロフ氏と(2015年5月)


第4回キルギス・シルクロード国際マラソンの子どもたちの駅伝大会で(2015年5月)


『闘魂外交』に自筆のサイン(2014年)


衆議院選挙を前に詩を頂く(2014年12月)


スリランカでの宗教行事に招待される(2014年)



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