阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

ビルマ訪問最終レポートと私の思い

2010年03月15日 19時20分01秒 | 政治
 写真:デモ行進をする僧侶たち(ビルマ情報ネットワークHP) より引用


 ビルマ情報ネットワークの秋元由紀さんのレポート(最終)を掲載します。掲載が遅くなってしまい、申し訳ありません。私自身のコメントと併せて紹介しようと思っていたら、すっかり遅くなってしまいました。

 外務委員会の質問でもビルマのことを質しましたが、この国の人権侵害は大変深刻なレベルにあり、「日本型人権外交」を突破口に、外交戦略を再構築すべきとの質問は、ビルマの現状を強く意識して考えたものです。

 しかしながら、アウンサンスーチー氏やNLD(国民民主連盟)を排除して選挙を行うための法整備が私が質問した同じ10日には軍事政権によって発表されるなど、とても健全な選挙の実施など期待できない状況が進んでいます。

 秋元さんのレポートの中に獄中で英語を勉強した青年が紹介されています。私がビルマで活動していた時も、民主化と自由を得た時に備えて熱心に学んでいる人が多いのに驚きました。地方のパゴダなどでは、少しでも日本を理解したくて学んでいるのです。と、流暢な日本語で話しかけてきた多くの若者に会いました。彼らが実際に日本に行って、その日本語を使える可能性を考えると胸が痛みましたが、私と会話したことで、日本語を勉強していて本当に良かったと喜ぶ姿を見て、いつかはそんな努力が報われるよう、サポートしたいと強く思ったものです。

 私は70ヶ国以上訪れた経験がありますが、私が知る限り、ビルマほど親切でやさしい国民性を感じた国はありません。そんな国民を暴力と恐怖で支配する軍事政権による人権蹂躙には、日本の責任として強い態度で臨まなくてはと思います。

 * * * * *

 さて、ここからが秋元由紀さんの最終レポートです。

今回の訪問では、難民や民族問題の調査をするだけでなく、ビルマ(ミャンマー)の民主化改革や政治に関わる団体にも会ってきました。例えば以下のような団体です。

・アウンサンスーチーさんが率いる政党「国民民主連盟(NLD)」の「解放地域」支部(ビルマ国外のことを「解放地域」と呼ぶのです。ちなみに日本には「国民民主連盟(NLD)解放地域・日本支部」があります)。ビルマ国内のNLDと連絡を密に取り、支えています。

・ビルマ民主化運動団体の連合体「ビルマ・パートナーシップ」

・ビルマ出身の法律家から成る「ビルマ法律家協会」。ビルマの紛争地域で起きているとされる人道に対する罪についての調査・記録作業を進め、調査委員会を設置するよう国連安保理に求めています。

・2100人以上いる政治囚やその家族を支える政治囚支援協会(AAPP)

・ASEANの国会議員によるミャンマー議連(AIPMC)のクライサック議長(タイの国会議員)

これらの団体とは、ビルマ軍政が今年実施を計画している総選挙をめぐる動きや、日本を含めた国際的なキャンペーンの計画などについて話し合ってきました。

このうち、政治囚支援協会(AAPP)では、16年近くを獄中で過ごした元政治囚の男性に話を聞くことができました。彼の話をご紹介します。

ラングーン(ヤンゴン)出身で現在46歳。1980年代半ば、ラングーン大学でジャーナリズムを専攻しているときに政治活動をするようになり、1988年の全国的な民主化デモ(2007年と同様、軍政は武力で応じ、3000人が亡くなったと言われています)にも積極的に関わりました。

政治活動が理由で1989年7月に逮捕され、1か月間、尋問所に収容。ひどい拷問を受けました。拷問は一晩中、あるいは一日中続くこともあったそうです。8月にインセイン刑務所に移され、11月に禁固20年の判決を受けました(投獄されてから判決が出るという順番、ビルマではよくあります)。数年してマンダレー刑務所に移送されます。

1993年に、禁固10年に減刑されました。この頃、父親が急に亡くなり、困窮した家族はマンダレーまで面会に来るお金や時間の余裕がなくなってしまいました。赤十字国際委員会が家族を支援し、1年後に面会が再開しましたが、それまで彼は父親が亡くなったことを知らなかったそうです。

さて、10年の刑期が終った1999年11月、彼はマンダレー刑務所の正門に連れて行かれました。ここでの出来事があまりにも衝撃的です。まず職員に、これから釈放する旨が書かれた「釈放書」を渡されました。しかし読んでいる途中に取り上げられ、今度は別の文書を渡されました。それには、「国家防御法10条a項により逮捕する」と書かれており、彼はそのまま、再び収容されてしまいました。(ちなみに、現在アウンサンスーチーさんが自宅軟禁されていますが、その根拠となっているのは同じ国家防御法10条の、b項です。)

普通の人だったら、これで解放されると思ってほっとした瞬間に再収容されるという仕打ちに、心が折れてしまいそうですが(軍政当局も当然、それを狙っていたのでしょう)、彼はちがいました。無論、私たちには想像もつかないほどの衝撃を受けたことでしょう。しかも、新しい刑期は5年半で、ずっと狭い独房にいたそうです。しかし彼は「精神的にとてもきつかったが、瞑想をしたので切り抜けることができた」と言っていました。

それだけではありません。収容中、彼は英語を学ぼうと思い、1日3つの単語を暗記することにしました。英語の文書が手に入るときはそれを見て、入らないときには周りにいる政治囚たちに教わりながら、1日3語を覚えたそうです。さらに2001年には5日間のハンストをして、英語の辞書を手に入れました。(ハンストでは、辞書と日記帳の差し入れのほかに、もっと広い房に移ること、適切な医療措置を得られること、という4つの要求をしたそうですが、辞書と日記帳の差し入れだけが認められたとのこと。)

ここで彼は私たちに言いました。「今日、こうやってあなたたちと英語で話ができるのも、牢屋でがんばって英語の勉強をしたからだよ。まだまだ下手だけどね」。

さらに。2005年4月27日に彼はとうとう解放されました。そして「長い間、刑務所にいたので、世界のことを知らない。早く社会に適応しなければいけない」と思い、解放から3週間後にはパソコン教室に通い始めました。(解放されてから初めてパソコンというものを見たのです。)そのうちレイアウトやデザインもできるようになりました。ここで彼は席を立って、「このレポートのレイアウトも僕がやったんだ」と、AAPPが出した報告書の一冊を見せてくれました。

解放後も当局に厳しく監視されて窮屈だったため、比較的自由に政治活動ができるタイに来ました。ガールフレンドも民主化運動家で、2007年に逮捕され、今も政治囚として収容されているそうです。

このガールフレンドも含め、ビルマには今、2100人以上の政治囚がいます(詳細は下記)。その一人一人に家族がいて、物語があります。獄中で肉体的・精神的に痛めつけられ、挫折してしまう人も多いことでしょう。

アウンサンスーチーさんが率いる政党、国民民主連盟(NLD)は、軍政が計画している総選挙に参加するための条件の一つに「すべての政治囚の解放」を挙げています。(NLDは、これを含む条件が満たされなければ、総選挙には参加しない、と宣言しています。)つまり、政治囚が参加できないようでは、総選挙は自由でも公正でもありえない、という考え方です。私が話をした元政治囚のような、エリートで、ビルマという国をよりよくするために考え、行動した人たちが多数、その思想を理由に長期間閉じ込められていることをふまえると、NLDの要求の重要さ、そして重大さが、よくわかります。ビルマという国が、民主化という形を含めて発展していくために欠かせない人材が2100人以上も、不当に囚われているのです。


* * * * *


以上で、タイ・ビルマ国境からのレポートは終ります。今回、レポートをブログに載せてくださった阪口さんには心から感謝しています。また、読んでくださった皆さま、どうもありがとうございました。

ビルマ(ミャンマー)問題について興味や関心をお持ちの方は、是非、ビルマ情報ネットワークのウェブサイト(http://www.burmainfo.org)やツイッター(http://twitter.com/BurmaInfoJapan)を見に来てください。メルマガもあります。ビルマの国内情勢についての最新情報のほか、新しい資料のお知らせや、日本各地でのイベント情報も掲載しています。


【背景】政治囚支援協会(AAPP)

ビルマの元政治囚たちによって設立され、タイ・ビルマ国境のメーソットに本部を置く。政治囚の人数や収容状態を調査・把握し、政治囚本人だけでなくその家族や、すでに釈放された政治囚に対しても支援を行っている。
http://www.aappb.org

AAPP:2009年年次報告書の主なポイント(日本語)
http://www.burmainfo.org/article/article.php?mode=1&articleid=504

・2009年12月31日の時点で、ビルマの政治囚は2,177人にのぼる。前年から15人増。

・燃料費の大幅値上げを機に反軍政デモが始まった2007年8月以降に逮捕され、今も拘束されている活動家は1,167人。

・2009年中、264人が政治囚として拘束された。129人の政治囚が判決を言い渡され、71人が当初収容された刑務所とは別の刑務所に移送された。遠隔地の刑務所に移送された場合、家族が面会に向かうのが困難となるため、刑務所の劣悪な環境で精神的・身体的健康を維持するのに重要な食料や医薬品の差し入れが受け取れなくなる場合がある。

・刑務所内で続く拷問、不十分な医療体制、長期間の拘束、移送による家族からの隔離を原因とする医薬品不足や精神的打撃などで、被拘束者の健康が害されている。2009年中、少なくとも48人の政治囚が新たな健康上の問題を報告した。2009年12月31日時点で129人の政治囚が健康上の問題を訴えている。

ちなみに鳩山首相は、2009年11月に行われたテインセイン・ビルマ首相との会談で、「政治囚の釈放について進展があったため、人道支援及び人材育成分野の支援を段階的に拡大することを考えている」と述べました。しかし、この報告書の数値を見ると、政治囚の数は減るどころか増加していることが分かります。


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1 コメント

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10年前のミャンマー (利宣)
2010-03-17 19:13:42
 昨年の猛暑の選挙戦、自転車青年部隊として阪口さんとともに和歌山の地を駆け回った我々、瀬戸利宣・利嗣、本多忠相もミャンマーへ訪れたことがあります。それを思い出し、この度書かせていただこうと思いました。
 きっかけは、平成12年、13年に行われた極真空手の技術交流でした。
 極真空手の道場がミャンマーにもあったのです。しかし、当時のミャンマー支部にいらっしゃいました先生は指導の認可を受けておりませんでした。
 その認可状を渡しに行くため、極真空手関西総本部の面々と共に、元・阪口直人第一秘書である、父・瀬戸利一と、弟・瀬戸利嗣がミャンマーに飛びました。
 翌年、同じく関西総本部の先生方と、今度は私・瀬戸利宣と母、そして盟友・本多忠相とでミャンマーへと訪れることになったのです。
 当時自分は中学3年生でした。その時から、政情の不安定さが感じられるような出来事がいくつか見受けられました。
 ひとつは、大規模な集会が禁止されていたこと。
 当時、ミャンマーで空手の国際大会を開催する、という動きがあったのですが、観客や選手が大人数集まることが集会と見なされてしまったため、開催が取りやめになった事がありました。
 そんな中でも、日々の稽古はどうにか続けられていたようでした。あるときは寺院で、あるときは屋外(それも、森の中をただ切り開いたような、緑生い茂る空き地! ふと目を落とすとそこには馬糞が落ちているのです!)で。
 我々もその稽古に参加しました。何十人という現地の人が集まり、それぞれが簡素な空手着(日本のものとは品質が段違いで、手ぬぐいのような生地でした)に身を包み、懸命に稽古に励んでおりました。
 また、中学生程度の英語による拙いやり取りでしたが、現地の人と話した時、大きな車を持つことができないということも伺いました。
 その人はミャンマーの伝統的な肩掛けカバンを作る20歳代の職人の方でしたが、ハマーなどの大型車に乗りたいのだけれど、今の政府のせいで買えないのだ、ということを聞かせてくれました。
 ただ、軍事政権下での政策には光と影があったと後で聞きました。時の政権が要所のスラムを一掃したため、景観や安全の面で改善されたとのことです。
 ミャンマーはすばらしい土地だと感じました。
 滞在したホテル近くの屋台で食べた揚げたナンは香ばしく、ヤギ肉のカレーはとても美味でした。現地の人とご飯を食べながら色々な話をしたのですが、先の話もそこで聞きました。
 訪れた寺院は造られたそのままの静謐さを感じさせましたし、ミャンマーの人たちは皆優しい人ばかりでした。
 こんな事もありました。
 私が、日本への土産を何にしようか迷っていると、ふと漏らしたことを、先のカバン職人の方が覚えていてくれ、旅程最終日に前触れもなく「これを土産にしたらどうか」と漆塗りの筆立てを見繕ってくれたのを今でも覚えております。
 ありきたりな言葉ですが、普段なんの不都合なく、平和な日本で暮らしているだけでは気がつかないこと、そして、学校の教科書でしか知らなかった国際政治状況の一端を肌で感じて、15歳の自分には衝撃的でした。
 もう10年近く経過したことになるわけですが、以前のように渡航できなくなったところから鑑みるに、状況はより悪くなってしまっているように思います。
 また昔のようにミャンマーに訪れることができるように、そして今度は、なんの憂いなく空手大会等ができるような環境になることを強く望みます。

神奈川県南足柄市 瀬戸利宣
 

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