前稿においては、イジュティハードの門という聖典解釈に対する制限の問題を取り上げたが、「イスラームの内部には最初期から、このような宗教の形式化に正面から反対し、対決してきた精神主義の潮流があり、現代もその生命力を失っていない・・・それは、猛烈な実存的内面主義の傾向、イスラームの精神性を守っていこうとする精神主義の傾向」であるとの説明で終わった。その続きを本稿においても、井筒俊彦氏(著者)の『イスラーム文化』(同書)を参考にしながら、適宜引用し、コメントを加えて行く。
但し、その前に、『コーラン』はメッカ期とメディナ期で、その醸し出す雰囲気がかなり異なっていることについて、すでに本章にて説明ずみながら、再度纏めておきたい。以下、簡略に箇条書きにしてみる。最初がメッカ期、⇒以降がメディナ期の特徴である。
- 神との直接契約(主人と奴隷) ⇒ 預言者を介して神と間接契約、その後同胞としての契約
- 終末論的(現世否定)⇒ 現世の心象が明るく変化
- 峻厳な正義の神 ⇒ 慈悲と慈愛に満ちた恵みの主
- 神への畏れ ⇒ 神への感謝
- 自己否定 ⇒ 自己肯定
- 個人の信仰 ⇒ 共同体(ウンマ)に組織された信仰
- コーランは警告 ⇒ コーランは導き
そして本稿で取り上げる「内面への道」は、メディナ期の精神に基づく「宗教を社会化し、政治化し、法制化し、・・・イスラーム法にまで仕立て上げていった正統派ウラマー(注:『コーラン』の研究・解釈を専門とする学識者)」たちが行って来た「外面化」へのアンチテーゼのような形で、むしろ内面的視座を重視しようとする人たちの間に出て来たと著者は言う。そしてこの「内面への道」を重視する人達は、ウラマーに対し、ウラファー(単数形はアーリフ)と呼ばれている。このウラファーは、「合理的、分析的思弁に頼らず、むしろその彼方に、事物の真相(=深層)を非合理的直感によって、・・・簡単に言えば霊感によって、事物の内面的リアリティーを把握して知っている人のこと」であると著者は言う。換言すると、「ウラファーとは、宗教をその霊性的、あるいは精神的内面性において体認しようとする人たちを意味」している。神秘主義と言い換えても良いかと思う。以下、同書から引用する。
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こうして内面的宗教、内面化された宗教を第一義的なものとするウラファーたちは、ウラマーたちのシャリーア(イスラーム法)至上主義、すなわち宗教としてのイスラームをそのままシャリーアと同一視、法即宗教と考えるウラマーの律法的精神に反発し、これと激しく対立するに至ります。・・・
しかしその反面、・・・考えてみればこの二つのまったく相反する文化パターンの矛盾的対立があったからこそ、イスラーム文化は全体として外面と内面、精緻をきわめた形式と深い形而上的霊性とをともに備えた一つの渾然たる文化構造体になることができたともいえるのであります。・・・
イスラーム文化内部のこの矛盾的対立の一方の極を代表するウラマーたちは、イスラームをそっくりそのままシャリーア体系に集約してしまうことによって、これに強固な社会制度としての形態を与え、それを世界史に有名なサラセン帝国の基礎として確立することに成功した人たちでありまして・・・政治の分野では体制派であり、保守勢力を代表します。
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一方でウラファーは外面主義者ウラマーに対抗する立場にあったため、その時々の政治的主権体制に反抗することを余儀なくされ、『コーラン』の教えに背く背信者、異端者として迫害されたようである。そのためか、「内面への道」を行く人々の間に生まれ育った文化パターン、イラン的イスラーム(シーア派)の文化パターンには悲劇的雰囲気がまとわりつき、運命的悲壮感のようなものが流れているそうである。また彼らは、ウラマーたちによって打ち立てられた共同体機構のなかで、自らを異邦人として感じ、そう自覚することが正しいとしていたようである。著者によれば、「一般に内面への道をとる人々はみな大なり小なり自分たちがイスラーム共同体に置ける異邦人であることを意識している」とのことだ。
参考までに、登場人物が多く、少々込み入っていて長いが、以下シーア派の悲劇を代表する「カルバラーの戦い」をネットから引用しておく。因みに、引用文中のイマームとはシーア的霊性の最高権威者を指す。
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イスラーム教団の正統カリフ時代、4代目カリフのアリーは、ムハンマドと同じハーシム家の出身で、その娘ファーティマの夫であったので、最も正統的な後継者として支持する者も多かった。しかし、ハーシム家と対立していたウマイヤ家出身の第3代カリフ・ウスマーンの暗殺の黒幕であるとみなされ、ウマイヤ家の後継者ムアーウィヤはアリーのカリフ位を認めず、自らカリフを称した。
アリーはムアーウィア討伐の戦いを起こすが、ウマイヤ側の停戦の申し入れを受け入れた。それに不満で戦いを主張したハワーリジュ派によってアリーが暗殺されたため、ムアーウィアは唯一のカリフとなった。ムアーウィアが680年に息子のヤズィードにカリフ位を世襲させることにした。
アリーの死後、アリーの血統の者のみをムハンマドの後継者であり、教団の指導者イマームであるとする人びとは、その長子ハッサンを2代目イマーム、その弟のフサインを3代目のイマームとして擁し、シーア派を形成していた。
フサインは680年、ウマイヤ家のカリフを認めず挙兵した。両者の戦いはバグダードの南約90キロの地点でのカルバラーの戦いとなったが、フサイン軍は敗北し、殺害された。ウマイヤ家はこの勝利によって、世襲王朝としてのウマイヤ朝の支配権を確立することとなった。
(以下引用)両者の戦いは、ヒジュラ暦61年ムハッラム月10日(西暦680年10月10日)におこなわれた。70余名のフサイン軍と4000のウマイヤ朝軍では、勝負の結果ははじめから明らかであった。しかもユーフラテス川への道を断たれたフサイン軍はひどい渇きに苦しんでいた。朝からはじまった戦いは昼過ぎには終わり、女・子供を残して、フサインとその従者は全員が殺された。フサインの首級はダマスクスへ送られ、首実検がすんでから40日後にカルバラーへもどされた。その遺体はフサインの血を吸い取った戦場に葬られ、やがてそこにはモスクが建ち、シーア派の人びとがお参りする聖なる墓所として現在に伝えられている。
3代目イマームのフサインが、カルバラーの戦いで戦死した命日であるイスラーム暦ムハッラム月10日は、シーア派の信徒にとっては特別な日であり、いまでもアーシュラーという追悼祭が行われる。その日はフサインの殉教を悼む劇が上演され、信徒は涙を流し、さらに町に繰り出してフサインの痛みを体験するために自らの身に鎖を打ち付けて血を流しながら練り歩く。これはスンナ派にはない、シーア派独特の行事である。
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こうした歴史もあるためか、シーア派の人々の歴史感覚は著しくパセティックで、「預言者ムハンマドが世を去って以来、自分たちの歴史、というよりイスラームの歴史そのものが正義に反する、歪められた、間違った歴史であり、自分たちは根本的に間違った世の中に生きてきたのだし、今も尚生きているのだという感覚が彼らの深層意識に常に伏在している」と著者は言う。更に、「また同時に、異邦人であることによってこそ、自分たちは本当に意味でのイスラーム教徒なのであるという誇りがここにはある」のだと著者は言う。