この世では私たちは幸せになるために人生を生きていると思っている。
だから当然ですが悪を嫌う。悪は幸せになることを邪魔するものだと思っているからだし それは自然なことでもあります。
家内安全や健康を願い 自分の望みが成就されるようにと祈る。
しかし悪いことや不都合なことはいつまでたっても無くならない。
それは何故だろうと考えたことはないでしょうか。
悪魔のように誰か悪を起こすことを意図しているものがいるのではないか それともこの世に悪があることは自然なことなのだろうか。
悪は我々の学びのために起こっていて それを排除しようとするのではなく起こったことを受け入れて その根本原因を理解することにより 私たちが成長するために起こっているとしたらどうでしょうか。
つまり私たち人間は学び成長する生き物であり 悪が学びのためのツールとしてあるのだ と。なにを学ぶのか。愛です。私たちは愛を学んでいるのです。
愛がすべての中で最も価値の高い価値観だからです。
私たちは善に生きよう正しく生きようとしているが 私たち自身が本来 善と悪の両方を持ったいきものではないかと。
自分や他人の 人間としての出来の良さ悪さを識別・批判するのでなく そのひとの全体あるがままを受け入れるように努めたらどうかと。
それが愛というものだと思う。
つまり私たちは悪の存在を学びのためのツールとして認めたうえで 私たちの中にある愛をどんどん育てていく。 そういう経験をすることが人生の目的ではないのだろうか。愛を学ぶことが成長をもたらすのです。
では悪が愛を育むツールであるかどうか見てみましょう。
悪が生まれる根源には必ず愛の欠如があることは多くの人が知っている。
自分は愛されてないと幼いころや思春期に思ったひとは多く 不思議にそのまま心に蓋をして大人になるのだ。しかしたとえば結婚してからそれが表面に出るのだ。そして再び愛の欠如の体験を繰り返すのだ。そしてその根本原因を理解しようとする人は少ない。すべては愛するか愛さないかなのだ。
何も結婚に限らない。結婚はそのための一つのツールに過ぎない。人によっていろんなツールが設定されている。
このように人間はありとあらゆる機会を利用して 悪を起こしそしてそれを使って愛をもっと学び成長しているのだ。
それこそ必要「悪」と言えるかもしれない。
相手や自分を責める前に悪がツールであることを認めるのだ。
悪はなくならない。でも少なくなるのだ。そして悪の内容も質も変わるのだ。
その理由は 悪を起こしているのは「神」だから・・・。
それを受けて実際に成長するのは私たち「天使」だから・・・。
続きます。
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