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昭和に出会える絵本や博物館

2016-03-25 08:49:08 | 昭和の想い出


昭和ロマン蔵(昭和の絵本美術館・昭和の夢町三丁目・駄菓子の夢博物館)
 ▲ レトロカーが並び、紙芝居をするおじさんが

▲ 昭和ロマン蔵

 ▲ 駄菓子の夢博物館

 ▲ 映画のポスターも沢山展示されている

昭和の夢三丁目館
"昭和の暮らし"をテーマにした施設で、昭和30年代の家屋を再現した"民家ゾーン"や、 廃校から取り寄せた机などを使って学校教室を再現した"教室ゾーン"、洋装店や駄菓子屋などが並ぶ"商店ゾーン"からなる。 "民家ゾーン"は「駄菓子の夢博物館」の館長が子供のころに住んでいた家を再現したもの。 照明で朝昼夜の移り変わりを表現したり、音声が出たりする。 "商店ゾーン"では実際に洋装店の服や駄菓子などが販売されている

案内





黒崎義介の絵本ー足立美術館


昔、里山に「ウサギ」と「猿」「狐」が住んでいました。
三匹は仲良しでした。
ある日、お腹をすかしたお坊さんがやってきました。
三匹は可愛そうだ、思って食べ物を探し回りました。
猿は果物を、狐は魚を獲ってきました。
でも、ウサギは食べ物を探せませんでした。
そこで、ウサギは「私にはなんにも差し上げる物が無いので」
言って、燃え盛る火の中に身を投じてしまいました。

夜になりました。
遺された狐と猿は寂しくなりました。
見上げると、大きなお月様が昇っています。
二匹は声をあげました。
「あ!ウサギさんだ」

挿絵は黒崎義介さんの筆に依っています。
ウサギさんは天女の胸に抱かれて、天空を月に向けて昇ってゆきます。


 ▲ 黒崎義介昭和の絵本美術館の入り口

 ▲ 館内は黒崎義介氏の描く童画が展示されている


昭和30年代のまちなみを蘇らせた「昭和の町」を訪れて 大分県

大分県豊後高田市にある昭和の町です。昭和30年代のまちなみを蘇らせた「昭和の町」。その頃の暮らしや商店街、懐かしい駄菓子屋さん、おもちゃ屋さん、キャンデーを売る自転車に鐘を見るとその当時にタイムスリップしたかの気分になれます。自分達が小さい頃お金を持ってよくおもちゃ屋さんに行ったり、駄菓子屋さんに行ったりしていました。懐かしい風景に癒されます。商店街と昭和ロマン蔵に分かれています。

「おふろやさん」 西村 繁男


「これから、あっちゃんは、おとうさんと おかあさんと
あかちゃんといっしょに おふろやさんにでかけます。」
はじめのこの一文を最後に、あとは文字がでてきません。
おふろやさんを細かく描いた絵が、ある日のおふろやさんの様子を伝えてくれます。
下駄箱にくつをしまい、脱衣所へ。
お年寄り、子ども、太った人、やせた人、おふろやさんにはいろんな人たちがいます。
湯船で騒いでおじいさんに叱られる子どもたち。
男湯と、女湯。
おふろやさんに集う人たちそれぞれの生活、それぞれの一日を感じ取ることができます。



講談社の絵本の時代

少年少女を「歴史の虜」にした絵本の時代があった!
昭和11年(1936)から17年(1942)まで<読む雑誌から見る雑誌>として豪華な絵本を少年少女向けに刊行。この時代に幼年期を過ごした著者が、歴史作家になるほど魅入られた絵本の世界と戦時下の庶民の生活を描く。 カラー口絵付き。
著者プロフィール 永峯 清成(ナガミネ キヨナリ) 名古屋市在住。歴史作家。
著書 『上杉謙信』(PHP研究所)『楠木一族』『北畠親房』『新田義貞』(以上、新人物往来社)
『スペイン奥の細道』『カルメン紀行』『スペイン ホセ・マリア伝説』(以上、彩流社)ほか。

























にっぽん60年前

 

 

第五章大蔵省出仕・失職・文部省・校長・浪人

大蔵省十等出仕 (十九歳の頃)

唐津の耐恒寮を辞して再び東京に帰ったのは、私が十九歳の明治五年(一八七二)の秋であった。その以前から、駅逓寮 の前島密氏から鈴木知雄へ、誰か英語のできる者がいたら紹介してくれと、しばしば頼んできていた。そこへ私が帰京したので、鈴木は私のことを前島氏に話した。
前島氏の方では、とにかく一度会ってみたいというので、私は鈴木とともに氏を訪問した。氏の話は、こんなふうなことだった。
「郵便の事務はまだはじまったばかりで、これから整備しなければならない。そのうちに外国人も来ることになっているから、そうなれば君にその通訳をやってもらいたい。それまでのところは差し当たり、アメリカの郵便規則でも翻訳してもらえれば結構だ」
私はすぐに承諾した。すると大蔵省に呼び出されて、時の大蔵大輔・井上 馨さんから大蔵省十等出仕という辞令を渡きれた。当時の駅逓寮は大蔵省の所管で、旧逓信省の場所にあった。
私は相も変わらず元気の盛りで、昼飯のときなどは近所の蕎麦屋から酒を取り寄せては遠慮なくやるというふうで、役所の人たちもその乱暴さには呆れていた。そのうち前島氏から翻訳の原文を渡されたので、私は、
「翻訳だけなら、毎日わざわざ出勤しなくとも、家でやってくればいいじゃないですか」
と申し入れた。前島氏は、
「うむ。それでもいいだろう。だが、仕事に決まりだけはつけておこう」
そう言って、毎月二百字詰めの原稿用紙二十五枚以上を翻訳して持っていくことで話がまとまった。
そのころ、私はまたフルベッキ先生のところに戻っており、邸内の長屋にいる他の者にも翻訳を手伝わせた。だが、しばらくすると、私が出勤もせず家にばかりいて仕事をしていることが、役人たちの間で問題になったらしく、前島氏が私を呼び出した。
「君が役所に出勤しないことや、所属の課が決まっていないことなどが、いかにも特別扱いをしているように噂されて、参っている。気の毒だが、今後は毎日役所に出てもらいたい。同時に所属の課もはっきり決めておこう」
前島氏はそう言って、ここではじめて私の所属も決まり、以降は毎日出勤することになった。

「免職辞令」の受書を拒絶

あるとき、前島氏が私をつかまえて、
「通訳や翻訳の仕事は、これから段々と増えてくる。君一人では手不足になるだろうから、誰かもう一人探しておいてくれ」
と言った。私は方々当たってみたが、通訳が満足にできる者というのは、そうザラにはいない。
そこで思い浮かんだのが、私が大学南校の教官をしていた時代の同僚の鴨池宣之という男であった。人柄もおとなしい好人物で、彼ならば通訳も相当にできる。そう思って探してみると、鴨池は華族学校で教鞭を執っていることが分かった。
私は早速、鴨池を訪ねてみた。そうして事情を話し、
「学校を辞めて、駅逓寮に来てはどうかね。学校の教官をしているよりは面白いぞ」
と口説きにかかった。二、三回会っているうちに、鴨池もようやくその気になって、ついに転職を決心した。
待遇については、先に私が大蔵省の十等出仕に任じられたとき、前島氏から
「しばらくはこれで我慢してくれ。いずれ外国人が来たら、考えるから」
との話があって、今度新たに人を探すについても、同じように考えてやってくれということだったので、鴨池にもその条件を伝えていた。
いよいよ鴨池の方を決断させたので、私は役所に行って前島氏にそれを話した。ところが、氏の態度はこれまでとはガラリと一変して、
「そんなことを言ったって、今は君一人ですら不用ではないか。それなのにまた人を増やして、不用な人間を二人もつくるわけにはいかんじゃないか」
満座の中で、そう放言した。当時の役所は、長官も課長も課員も、広い部屋の中で皆いっしょに仕事をしていたのだから、私は皆の前で大恥をかかされたわけだ。この意外な言葉に、もちろん私は慣慨した。
「では、なぜ頼んだのです。鴨池は今、職に困っているわけてはない。現に華族学校の教官をしている。あなたがもう一人探してくれというから、私が頼み込んで決心してもらったのではないか。それを今になって不用とは何事ですか。あなたの言動には、まったくもって納得がいかない」
そう大声で怒鳴りつけて、私はさっさと帰宅してしまった。そして即座に辞表とともに一通の書面を付けて、使いの者を頼んで役所に届けさせた。書面の文意はこうだった。
「今日の貴殿の言葉は、私には了解できない。貴殿は私の長官ではないか。しかも、私の方から『どうか使ってくだきい』と頼んで就職したのではない。貴殿の方からの依頼があって勤めることになったのだ。にもかかわらず、今日は同僚たちの前で「君は不用の人だ』と放言した。長官として、一人たりとも不用の者を使って、それで職責が済むと思うのか。私は、一日たりとも、貴殿のような無責任な長官の下にいることを潔しとしない。よって、ここに辞表を提出するから、直ちに許してもらいたい」
それから数日すると、役所の方から「免出仕」という辞令を持った使いが来て、その受書を寄越せと言う。こちらから辞表を提出しているのに、懲戒を意味する「出仕を免ず」という辞令を交付するとは、実にけしからん。私は受書は断じて書かぬと言って、拒絶してやった。
ともかく、駅逓寮は、そんなふうにして辞めてしまった。長官の方では免職したつもりであろうが、私はあくまで依願退職だと思っている。そんなわけで、駅逓寮の一件は、私の履歴書の中には、その後も一切書かないことにしている。

一生徒に還る―「膝栗毛」の英訳

大学南校はその後だんだんと整備されて、法学、理学、工業学、諸芸学、鉱山学というような立派な学問を教える開成学校となっていた。私も自らを省みて、今のままではいけない、もう少し勉強をしなおそうと考え、試験を受けて開成学校へ入学した。すなわち、以前の先生が生徒になったわけだ。
その時分、どうして生計を立てていたかというと、いわゆる翻訳業であった。
そのころ、開成学校の教師で、ドクター・マッカーデーという人がいた。宣教師として長く中国にもいた人で、学校では経済科を受け持っていた。その人から、中国の字書である『玉篇』の日本語読みをローマ字で書いてくれと頼まれた。その報酬が月十円であった。
もう一人、先年越前へ行ったグリフィス氏が、東京に戻って開成学校の理学の先生を務めていた。この人は日本に関する著述をまとめたいと考えていて、日本のいろいろな書物を持ち出してきては、私に口述で翻訳させ、それを自らノートに筆記していた。中でも一番時間を費やしたのは、『東海道中膝栗毛」の翻訳であった。私が口述で翻訳するとき、グリフィス先生の側にはいつも妹さんがいた。ところが、『膝栗毛」は弥次喜多の五十三次、随分卑猥な言葉もあるし、妹さんの前ではちょっと言えないような内容もある。私はその度ごとに、妹さんに席をはずしてもらい翻訳をした。

この方からも月に十円の収入があって、計二十円が私の学資であった。もっとも、私は依然としてフルベッキ先生のところにお世話になっていて、食事の面倒はすべてそちらで見てくれていた末松謙 澄くんと知り合ったのも、このころのことだ。フルベッキ先生のお嬢さんに英語を習うため、佐々木高行侯の令嬢がフルベッキ邸を訪れていて、そのお供をしてくる青年が末松くんであったのだ。
ある日のこと、末松くんを部屋に呼び入れて親しく話をした。彼は豊前から出てきたばかりで佐々木家の書生をしており、最近創立された東京師範学校の官費生の試験に合格したので、もうすぐそこへ入学するつもりだ、ということだった。
「そうか。で、師範学校を出たら何になるのだ?」
そう私が尋ねると、
「卒業したら、小学校の教員になれる」
と、答えた。
「今から小学校の教員になどなっても、つまらないではないか。君はたいへんな競争を合格したほど漢学ができるのだから、今度は洋学の方を勉強したらどうだい」
「そうしたいところだが、自分には学資がないから、そう思い通りにはいかないよ」
「よし、そんなわけなら、英学は俺が教えてやろう。その代わり、君が漢学を教えてくれたまえ。君がお嬢さんのお供をしてやってきて、ここで待っている間に、勉強すればいいじゃないか」と、ここで二人の意見が一致して、英学と漢学の交換教授がはじまった。

末松謙澄くんのこと―校長に膝詰談判

末松は、いよいよ師範学校入学の時期を迎えた。だが、その英語の進歩は著しく迅速であり、私は
「師範学校入学は、むしろやめた方がいいのではないか」
と勧めてみた。末松もだんだんとその気になり、佐々木夫人に相談すると、夫人は、
「試験に合格して、これからようやく官費生になろうというのに、今やめてしまうとは何事ですか」
と、たいへん立腹した。末松はそれから、師範学校の校長のところへ行って、同じく入学を辞退することを告げた。ここでもまた、末松はさんぎさんに叱られた。
「三百余人もの志願者の中から、採用したのは百五十人だ。入りたい者はいくらでもいる。君が志願してきたからこそ、試験した上で採用することになったのではないか。今になって急にやめるとは何事だ。こんなことが悪しき前例となって、合格した者が勝手にどんどんやめるようになったら始末におえない」
だが、私は末松をこう励ました。
「まだ合格の通知を受けたばかりのところじゃないか。断ったって構うもんか。若い者が小学教員で満足せず、大いなる志を持って奮励努力しようとしているのを妨げるとは、そちらこそけしからん。俺が行って談判してきてやる」
私は早速に校長のところへ押しかけ、大激論の結果とうとう論破して、末松の入学辞退を許可してもらった。
その後、末松と私は、西洋の新聞を翻訳して、それを日本の新聞社にネタとして売り込むことを思いつき、これを東京日日新聞が受け入れた。そんなことから末松は、やがてこの新聞社に入り込む形となって新聞人として活躍したのである。

文部省に入る(二十歳の頃)

ある日、私は久し振りに森有礼先生を訪問した。先生はアメリカに滞在すること二年余り、明治六年(一八七三)七月に帰朝されて、そのころは明六社というのを創立し、教育の振興に力を注いでおられた。会員には福沢諭吉、神田孝平(たかひら)、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、加藤弘之というような碩学を網羅し、これらの人々は演説会を開いたり、機関誌「明六雑誌」を通じて意見を述べたりした。明六社は、当時の新思想の大本山とも言うべき存在であった。
森先生は私と会うと
「君は、このごろ何をしてるのかね?」
と尋ねる
「実は、以前教えた生徒にも学問で遅れているような次第で、只令、開成学校へ入学して勉強のやりなおしをしております」
そう答えると、先生は、
「それはいいことだが、おまえなどは、もう生徒の時代でもあるまい。実は、先ごろ文部省にモーレー博士を雇ったが、その通訳がいない。おまえが文部省に入って、それをやったらどうかね」
と言う。これが、私が文部省入りするきっかけだった。時に明治六年(一八七三)十月、私が二十歳のころだった。

モーレー博士と開成学校の改革

私が文部省に勤めている間に、開成学校の校長として、伴正 順という人が任命された。この前後、開成学校の教員には、とかく、いかがわしい人物が雇い入れられて、校紀がたいへん乱れていた。
私はそんな風潮に憤慨して、喬木太郎という変名で、東京日日新聞紙上に何日かにわたって、これを痛撃して書いた。ちょうどその記事が掲載された日に、田中不二歴文部大輔が外国人に会う用件があって、私が通訳としてついていくことになった。同乗した馬車の中で田中さんから新聞記事の話が出て、
「あの喬木太郎という人物は、一体誰だろう?」
「あれは私です」と私は答え、さらに続けた。「今日の開成学校は大いに粛清する必要があります。
伴さんは悪い人ではありませんが、校長として学校の経営に当たるには不適任です」
「じゃ、誰を校長にすればいいのかね?」
田中さんが尋ねるのに、私は応じた。
「今、私といっしょにモーレー氏についている畠山義成先輩が適任でしょう。外には適当な人が見当たりません」
畠山さんは維新前に森有礼先生らとともに洋行した一人で、外国人に対しても自由に話ができた。かつまた、畠山さんは熱心なクリスチャンで温厚な人柄であったから、この人ならば教師たちの信任を得て力を発揮することもできるだろう。私はかねてから、そんなふうな思いを抱いていたのだ。
「そうか。じゃあ、ひとつ考えてみよう」
田中さんはそう言って、今後は新聞に書く前に直接自分に言うように、と釘を刺した。まもなく畠山さんが校長となり、文部省との連絡や外国人教師との意思の疎通も円滑になった。開成学校は、ここではじめて、事実上専門学校の体をなすに至り、世間からも認められるようになった。
この時代、文部省には、視学官と呼ばれる者が四、五人いて、終始全国に出張しては教育の実態を視察し、それを報告書にまとめていた。その報告書をすべて私が翻訳して、モーレー氏に伝達した。私も、せっかくモーレー氏が日本の教育制度の確立のため文部省に雇われてきた以上、十分に日本の事情を理解してもらって、わが国の歴史と国民性に適応する制度,組織をつくってもらわなければならないと、その点だけは怠りなく努めた

勝海舟先生に驚く―小間使いは令嬢

これも、たしか明治六年(一八七三)の末ころのことであったと思う。勝海舟先生の屋敷がまだ。赤坂氷川町にあった時分、モーレー博士が一度勝先生にあいさつに行きたいと言って、先方の都合を聞き合わせて訪問したことがあった。
もともとモーレー博士は、アメリカにいるとき、勝海舟先生の息子の小鹿さんの数学の先生であった。それで、日本に来たからにはまず勝先生に会って、小鹿さんの消息を伝え安心させたいとの考えがあった。
そのころの海舟先生と言えば、雷名天下に轟いて、世間からも崇拝されていた。私も、まだ一度も会ったことはなかったが、ひそかにその人格に傾倒していた。そこへ今度、モーレー博士の通訳として訪問するのである。
先生の家へ着くまでは、さだめし堂々たる構えで、玄関には厳めしい顔つきをした用人どもがズラリと控えているに違いないと思っていた。ところが、取り次ぎに出てきたのは、十五、六歳の綺麗な娘だった。身に着けているのは質素な木綿の着物ではあったが、モーレー博士のあいさつを受けて奥へ伝えにいく物腰が、いかにも気高く落ち着いた雰囲気であった。
やがて、木綿の小倉袴をつけた一人の爺さんが素足のままで出てきて、「どうぞ、こちらへ。お靴のままで」と案内する。座敷を通った縁線先近くにテーブルがあって、そこに椅子が三脚並べてある。
「さあ、おかけなさい」
案内人は私たちに椅子を勧めて、やがて自らも椅子に座ったので驚いた。最初、われわれの目には勝家の用人だとばかり映っていたこの老人が、実は勝海舟先生ご本人であったのだ
モーレー博士が丁寧にあいさつして、小鹿さんについて詳しい報告があった。私がその通訳をしていると、今度は相当年配のお婆さんが、白襟黒紋付の上にうちかけを着て、着物の裾をひきずりながら静かに現れた。勝先生は、
「これが私の妻で、小鹿の母です」
と紹介する。かたや、玄関番と間違えるような粗末な服装。かたや、白襟紋付で着物の裾をひきずりながら登場する。その対照がいかにも奇異で、私は呆気にとられてしまった。モーレー博士は、奥さんに対しても小鹿さんのことを報告し、勝先生夫婦は小鹿さんがお世話になったことの礼を述べる。そうして、そのあいさつがすむと、夫人はそのまま奥へ引っ込んだ。
それからまた、勝先生とモーレー博士との間答がはじまった。モーレー博士が数学の先生であることから、勝先生は、
「ちょうどいい機会であるから、自分がかねて解きかねていた問題を二、三お尋ねしたいのだが」
と言って、質問をする。なにしろ高等数学のことだから、私では通訳しようがない。すると、勝先生は紙の上に図を描きオランダ語か何かを書き入れ、あとは手真似で訊~。モーレー博士も、紙に何かを書いて答える。私は何分からず、ただ見ているばかり。これまでの通訳で、このくらい困ったことは、またとなかった。
それから文部省に戻って、同僚に勝先生宅を訪れてビックリしたことを話して
「一体、最初に出てきたあの女中は何だろう?」
と言うと、同僚は、
「それが勝さんのお嬢さんだ。初対面のときに人の意表をついて度胆を抜くことは、勝さん一流のやり方だ」
と話していた。
当時はまだまだ天下の志士なる者が、毎日のように勝先生のところに議論に行く。それで気分も自ずから殺伐となっているところへ男などが取り次ぎに出ると、かえって騒がしくなるから、お嬢さんを出す。すると、案外、皆おとなしくなって帰っていく、ということであった。
その後も、モーレー博士は勝先生と何度か会見しているが、以降、私は勝先生への通訳だけは一切お断りをしてしまった。

孤高の友と校長辞職の事情

明治八年(一八七五)十月、モーレー博士は博覧会に参観する用向きがあって外国へ出張することとなり、私も大阪英語学校長に転勤を命ぜられた。私は、早速赴任の支度に取りかかった。準備もすっかり調ったある日、私は後藤常(一条十次郎)のところへ暇乞いに行った。

後藤はアメリカから帰った後、しばらく私や鈴木といっしょに森先生のご厄介になり、大学南校教官時代もともに過ごした仲だが、明治三年(一八七○)には外務書記生としてフランス公使に随行し三年ほど駐在して帰ってきた。
もともとが漢学に力のある人で、英語やフランス語も操り、外務省では期待される人材でありながら、フランスから帰って以来、仏教の研究にのめり込み、一切世間との交渉を断ってしまっていた。私にとっては以前からの先輩であるし、どうにかしてもう一度世の中に出てもらいたいと思ってつねづね勧めてもいた。だが、後藤は、
「世の中に出る前に、まず自分が修養せねばならない。自分というものができ上がっていないうちに、役人などになるのは間違いだ」
と、頑として受け入れなかった。
私が今度大阪に赴任することを告げると、後藤はとても残念がってこう言った。
「君はかねて俺に対して世間に出て大いに働けと言ってきたが、俺は人間ができてからでないといけないと応じて、この議論の解決はまだついていない。君が大阪に行く前に、この議論にカタをつけよう。もし俺が負ければ君の言葉に従うし、君が負ければ君が俺の言葉に従う。それでどうだ」
「そりゃあ、もっともだ。大いに議論しよう」
私もそう答えて、一晩、夜更けまで激論を戦わせた。ところが、どうも私の方が分が悪く、ややもすると言い負かきれる。
「よし、仕方ない。君の言葉に従うことにしよう。きて、大阪行きはどうしたものだろう。君はどう思う?」
と、私が相談すると、後藤は言下に、
「すぐ行って断ってこい」
と言い放った。突然、辞するについては、それまで世話になった先輩や同僚になんと説明すればいいか。私がそんなことで躊躇していると、後藤はこう言った。
「理由は言うな。単に考えるところがあるからと言えばいい」
そんな次第で、私は文部省へ行って、理由も何も言わず辞職してしまった。大阪英語学校長の辞令を受けてから四日目のことであった。文部省の人たちは、この後、高橋は頭がおかしくなったと噂し合っていたという。
それから私は後藤の家に同居して、二人きりでもっぱら仏教書の研究に没頭した。だが、半年らいのうちに、仏教の主旨について両者の意見が合わなくなった。それで、とうとう私と後藤は快を分かつことになった。
ちょうどそのころ、東京英語学校の教官の話があり、それを引き受けた。それが明治九年(一八七六)五月のことだった。それから間もなく、私は祖母の勧めるままに二十三歳で結婚した。相手は西郷お柳(戸籍名。フジ)。当時私の家の方に引き取っていた腹違いの妹・お香の面倒をよく見てくれたことから、祖母の気に入ったのだった。

吉原通いの校長を追い出す

東京英語学校に在職中、私と同僚の赤羽四郎とで、学生たちに討論会をやらせようということを提唱して、これを実現しいろいろのことを論議した。ことに品行を慎み、風紀を正すべしという空気をつくることに努力した。
そのころ、東京英語学校の肥田照作校長が吉原へ行って豪遊したという記事が、「摘花新聞」という新聞に掲載された。これを見た一同は憤慨して、ロ々に
「人を教える立場の者が何だ。校長に質してみねばならない」
とわめく。赤羽と私は二人で肥田校長を訪ね
「新聞の記事は果たして本当か否か」
と、厳しく詰め寄った。すると肥田校長は
「残念ながら嘘とは言えない」と言う。
「ならば、やむを得ない。辞職を決断なさい」私たちはそう言って、さらにこうも付け加えた。
「君は学問があり、何でもできるのだから、別段校長をやらなくても他に就職の口はいくらでもある。もし他の道に転じようというのなら、及ばずながらわれわれもひと肌脱ごう」
その一方で、校長に辞任を迫った以上は、われわれ二人もこのまま学校に留まっているわけにいかないと、辞職の腹を決めた。しかし、この間の事情は当局にも明らかにしておく必要があるので、私たちは文部省の九鬼隆一氏にすべてを打ち明けた。すると九鬼氏は言った。
「近頃、君たち二人が討論会などを起こし、率先して校風を矯正し生徒の気概を高めようと努力していることは、すでに聞いている。ついては、今後もますます骨を折ってもらわねばならない。君たちのような志ある人こそ、学校には必要なのだ。肥田校長の新聞記事は私も知っている。悪いことであるから、いずれ処分しなければならないと考えている。でも、それは君たちの言葉に従ってやるわけではないのだから、この際、君たちの辞職は思い留まってもらいたい」
だが、私たちも一徹である。
「自分らは校長に辞職を勧告するとともに、自己の進退についても明言してある。いまさら、居残るわけにはいかない。あとは、一日も早くいい校長を迎えて、校紀を正してもらいたい」
そう言い残して、とうとう二人で辞職してしまった。その後、赤羽は外務省に転じ、私はしばらくはどこにも就職せず、無職浪人を続けた。
この前後、明治七年(一八七四)から同十年(一八七七)にかけては、わが国は、あるいは征韓論、あるいはまた思想上の見地より、硬軟、新旧両派の衝突をきたし、各地に騒乱が相次いだ。すなわち、佐賀の乱、熊本の神風連、秋月藩における宮崎一派の乱、そして萩では前原一誠らの旗揚げなどがあった。

*1 駅逓寮……明治維新後、交通,通信をつかさどる役所は、初め駅逓司と呼ばれ民部官(後の民部省)に属したが、七一年(明治四)の郵便制度の実施によって大蔵省に移され、駅逓寮となった。

*2 前島 密: 一八三五〜一九一九。十三歳で江戸に出て、医学、蘭学を学ぶ。一八六九年(明治二)民部省に入り、翌年租税権正兼駅通権正、郵便制度の調査のために渡英。七一年(明治四)帰国して駅逓頭となり、郵便制度の確立を図る。明治十四年の政変で大隈重信らと辞職、立憲改進党の結成に参画。

*3 大蔵大輔…大蔵省で大臣に当たる大蔵卿を補佐する、現在の次官に相当する役職。

*4 井上馨…一八三五〜ー九一五。長州藩士。維新後、新政府の参与、民部·大蔵大丞、大蔵大輔などを務めたが、西郷派·江藤新平らと対立、七三年(明治六)に辞職し、先収会社 (三井物産の前身)を設立。七五年政府に戻り、参議兼工部卿、外務卿。八五年(明治十八)の第一次伊藤内閣では外相、条約改正に失敗。その後、農商務相、内相、蔵相などを歴任。

*5 開成学校……大学南校は、まず一八七一年(明治四)の大学の廃止に伴い「南校」と改称し、七二年(明治五)には「第一大学区第一番中学」となり、七三年 (明治六)に「開成学校」と改称された。開成学校という呼称は、七四年(明治七)に「東京開成学校」となったものの、七七年(明治土)に東京大学が発足するまで続いた。

*6 ドクターマッカーデー 一八二〇〜ー九〇○。アメリカ、ペンシルベニア州出身。一八四三年に教会から中国に派遣。七二年(明治五)来日した際、フルベッキに推薦されて第一大学区第一番中学(後の開成学校)教師に。七七年(明治十)中国に戻り、外交に従事。八〇年(明治十三)にアメリカに帰った。

*7「玉篇」……中国で五四三年に完成した、一万七千の漢字を五百四十二に分類して、例文を付した漢字字典(三十巻)。梁の顧野王の編纂とされる。

*8 末松謙澄……一八五五〜一九二〇。一八七一年(明治四)に上京し、「東京日日新聞」に入社、社説の執筆者に。伊藤博文の知遇を得て官界に転じ、七八年(明治十) 外交官として渡英。八六年(明治十九)帰国後、伊藤博文の女婿として貴族院議員、週信相、内相などを歴任。

*9 佐々木高行……一八三〇〜一九一〇。土佐藩士。一八六七年(慶応三)に長崎の土佐商会の監督に藩から派遣坂本 龍馬と交流。維新後、長崎府判事、七○年(明治三)参事、司法大輔、岩倉使節団の一員として欧米視察。八一年参議兼工部卿。八八年枢密顧問官。その間、明宮(大正天皇)などの養育主任を務めるなど、明治天皇の信任が厚かった。

*10 東京日日新聞……一八七二年(明治五)に創刊された、東京初の日刊紙。創刊の翌年に泄田吟香が入社、七四年(明治七)の台湾出兵に初めて従軍して人気を呼び、福地桜痴が入社して社説を担当するとともに、「太政官記事」印行御用」を掲げて権威を高めた。当時の政府官報の役割を果たしていた。

*11 明六社…一ハ七三年(明治六)に結成された、当代一流の洋学者による学術団体。森有礼が呼び掛け、西村茂樹、津田真道、西周、中村正直(敬宇)、加藤弘之、箕作秋坪、福沢諭吉、杉亨二、箕作麟 祥の十人が集った。後に、神田孝平、津田仙らが加わった。「意見を交換し知を広め識を明にする」ことを目的に、毎月二回会合し、研究発表や講演会を行った。また研究の成果などを「明六雑誌」に掲載して、発行した。

*12 神田孝平…一八三〇~九八。一八六二年 (文久二)蕃書調所教授。維新後、新政府の議事取調御用。七〇年(明治三)「田租改革建議」を作成、地租改正の先駆となる。他方明六社社員として西洋経済学を移入した、啓蒙的な経済論を発表した。

*13 箕作秋坪…… 一八二五~八六。幕府天文方で翻訳に従事、一八六一年(文久元)の渡欧使節団に随行。維新後、岩倉使節団に翻訳方として随行、私塾三叉学舎を開いて教育にあたり、明六社社員として早期児童教育の必要性を主張。
*14 モーレー博士…… -八三〇〜一九〇五。アメリカ、ニュ一ヨーク州出身。ラトガース大学天文学教授。一ハ七三年(明治六)に日本政府に招かれて文部省学監。女子教育や幼稚園教育の必要性を主張、東京女子師範、同校付属幼稚園を創設。七九年 (明治十二)帰国。

*5田中不二麿…… ー八四五〜一九○九。尾張藩士。維新後、大学校御用掛、文部大 丞。岩倉使節団に随行。七四年(明治七)文部大輔。八〇年司法 卿、以降参事院副議長、イタリア公使、フランス公使、第一次松方内閣の司法相。

*16 視学官…現場の教師たちが適切な教育を行うように監督する役人。日本ではます一八七二年(明治五) 文部省に督学が定められ、翌年督学の下に視学が置かれた。この制度があまり機能しなかったことから、八六年(明治十九)に視学官が設けられた。

*17 九鬼隆一……一八五二~ 一九三ー。慶応義塾で福沢諭吉に学び一八七二年(明治五)文部省に入る。七八年(明治十一)パリ万博に派遣。古社寺保存会会長、帝室博物館初代総長などを歴任。

 


2 コメント

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黒崎義介 wiki (Unknown)
2016-03-26 07:38:34
黒崎義介(くろさき よしすけ、1905年3月25日-1984年8月12日)は童画画家。

経歴 編集

1905年(明治38年) - 長崎県平戸市に醤油醸造業=黒崎源三郎・フミ夫妻の六男として誕生。
1924年(大正13年) - 平戸中学を中退し、上京後に川端画学校に入る。
1926年(昭和元年)[元号要検証] - 川端画学校を卒業。
1927年(昭和2年) - 中央美術展で入選。
1929年(昭和4年) - 童画を描き始める。
1931年(昭和6年) - 川端画学校で知り合った斎藤登喜子と結婚。芝公園内の登喜子の実家に住むが半年後小石川久堅町光円寺旧本堂に転居。
1932年(昭和7年) - 豊島区の池袋モンパルナスに借家、以後数回同地内で転居を繰り返す。
1933年(昭和8年) - 学校美術協会に1年ほど勤める。
1934年(昭和9年) - 新ニッポン童画会に参加し、「コドモノクニ」、「キンダーブック」などに挿絵を描く。
1939年(昭和14年) - 豊島区長崎2丁目に自宅を新築移転。
1941年(昭和16年) - 安田靫彦(大磯町在住)門下生となる。
1943年(昭和18年) - 大磯町に疎開(1945年まで)。
1946年(昭和21年) - 第31回復興院展に初入選。
1947年(昭和22年) - 童画研究会を主宰。
1952年(昭和27年) - 藤沢市鵠沼海岸に転居。
1959年(昭和34年) - 鵠沼公民館開設に協力、地域の児童のための絵画教室や成人のための墨絵教室を開いた。
1960年(昭和35年) - 藤沢市文化財保護委員を委嘱される。
1962年(昭和37年) - 日本児童ペンクラブ相談役。日本著作権協議会よりパリユネスコ会議に派遣され、これを機に欧米13カ国を5ヶ月かけて旅行する。
同年 - 日本童画会解散、日本童画家協会再結成。藤沢市民美術会創立に加わる。
1964年(昭和39年) - 藤沢市社会教育委員を委嘱される。現代美術家協会「現展」出品、後に名誉会員となる。
1965年(昭和40年) - 藤沢北ロータリークラブ創立。初代理事となる。
1969年(昭和44年) - ニューヨーク市で「日本むかし噺童画展」を開催。
1975年(昭和50年) - 鈴木鎮一と親交を持ち、幼児教育研究所設立。
1977年(昭和52年) - 時宗総本山清浄光寺(遊行寺)宝物館運営協議会委員長となる。
1978年(昭和53年) - 文部省児童文化功労賞受章。
1980年(昭和55年) - 伊豆山神社拝殿に天井画390枚を奉納。
1984年(昭和59年)8月12日 - 脳梗塞のため鵠沼海岸にて死去 享年79(戒名:童画院慈厚義介居士)。墓所:藤沢市大庭台墓園
没後、旧居は夫人によって社会福祉団体に寄贈され、障害者自立支援施設「よし介工芸館」となったが、後に藤沢市遠藤に移転した。
大分県豊後高田市にある「昭和の町」のシンボルマークには黒崎義介の童画が使われており、2005年には「昭和の町」内に黒崎義介の童画を展示する「昭和の絵本美術館」が開館している。
著作 編集

童画報告軍艦旗の行くところ 中支・南支・海南島 フタバ書院 1941 
アソビ 川上四郎,長谷川露二共著 小學館 1941
ボクノヒヨコ 童画社 1942
ノリモノゴッコ 二葉書店 1946 (フタバノヱホン)
コドモトハタケ 二葉書店 1946 (フタバノヱホン)
なかよしどうぶつ 童画書房 1947
くまさんさるさん 主婦之友社 1947 (主婦之友の絵本)
花のこども 主婦之友社 1947 (主婦之友の繪本)
ハナ子サン 冨士屋書店 1947
ボクノノリモノ 自然社 1947
どうぶつのやきゅう 童画書房 1948 
子供のまつり 文化建設社 1948 (ヨシスケヱ本)
お山のこぐま 文化建設社 1948 (ヨシスケヱ本)
三吉の冒険 昭和出版 1948
くまさんさるさん川のたび 主婦之友社 1949 (主婦之友の絵本)
こどもとどうぶつ 東京絵本 1951 
とりのおやこ フレーベル館 1963 (トッパンの愛児えほん)
略画百科事典 まごころ社 1965
ふじさわのむかしばなし 第1-2集 藤沢市教育文化研究所 1974
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Unknown (Unknown)
2016-03-27 08:58:01
おふろやさん(こどものとも絵本)
西村 繁男 福音館書店 発売日:1983-11-01

読んであげるなら 4 歳~

(本文の書き出しは、こんな感じ・・・)

これから、あっちゃんは、おとうさんと 
おかあさんと あかちゃんと いっしょに
おふろやさんに でかけます。
 * * * * *
(以下、あらすじです)

それは「亀の湯」という名の、町中の銭湯。
絵が描かれているのは、主に男湯の様子。
この日、あっちゃんはお父さんと男湯へ。
下駄箱に靴をいれ、番台でお金を払い、脱衣場へ。
入浴料は大人140円。

体重計は、いわゆる「量り」型。
壁一面の大きな鏡。
お年寄り、子ども、太った人、やせた人、ちょっと怖そうなお兄さん!?・・・色んな人がいます。

浴場へ入ると、壁にはお決まりの霊峰富士山。
レトロな広告。
湯船でふざけていて、おじいちゃんに叱られた小学生たち。

石鹸を借りる人。
お年寄りを背負って入る人。
刺青のおじさん!?(入れるのかーっ?)


女湯から、
「おとうさん、出るわよ~」
みたいな感じで、男湯に向かって声を掛けるお母さん。
あっちゃんとお父さんも上がります。
そして入浴後には、お決まりのあれをゴクリ!

外はすっかり暗くなっていました。
暖簾の外には焼き芋やさん。
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