〈川俳会〉ブログ

俳句を愛する人、この指とまれ。
四季の変遷を俳句で楽しんでいます。「吟行」もしていますよ。

拾い読み備忘録(35)

2016年02月02日 20時19分53秒 | 専門書
マルクの描いたのは、感覚にとらえられるような姿で自然の中を走り廻っている一匹一匹の馬ではなくて、馬のようなもの、馬的なものの本質(それが何であるかをここで詳しく述べることはしませんが)であったのです。同じように彼は鹿についても、それぞれ一回きりの独自の性質においてみられた個々の鹿ではなくて、鹿的なもの、つまり鹿の本質そのものを描きました。この鹿の本質というものは、単に動物学上の種としての鹿において出会われるだけとは限らず、たとえば或る若い娘において、われわれが彼女の眼差しや歩き方の中になにか鹿のようなものを認めた場合にも、出会いうるようなものなのです。さらにファン・ゴッホも、彼が風にはげしく打たれている一本の木とか麦畑とかを描いたとき、彼自身も書きとめているように、その木の中にかくかくしかじかの性質をもった単一のその木を見ていたのではなく、一つのドラマを見ていたのであり、またその若い麦の中に一本一本の麦の穂を見ていたのではなくて、「言いあらわしようのない清らかさと柔和さ」つまり「いってみればまるで眠っている幼な児の表情にも似た感動をよびおこすようなもの」を見ていたのです(弟への手紙)。つまりゴッホは、風とたたかっている木と人間の運命(ドラマ)との両者の中に同一の現象をみていたのであり、また若い穂と眠っている子供との両者の中に同一の(清らかさと柔和さという)現象を見ていたのです。
(「現象学について」より)
「現象学的人間学」L.ビンスワンガー著 荻野恒一、宮本忠雄、木村敏訳 みすず書房1967年
                          富翁
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ドライアイの日々

2016年02月02日 17時50分13秒 | 川柳
空気の乾燥のせいか。目が「しわしわ」します。
目薬をしょっちゅう。困ったもんだ。

目シワシワ 瞼が痒いよ ドライアイ
安楽
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