イエスの父からの愛のメッセージ

真夜中に「書きなさい」の声で届けられたメッセージ。無宗教の者に届けられる、愛とはなにか、を多方面から知ることが出来ます。

120.動物が食べられる目的の為にのみ生かされ、育てられ、命を失っている現実を意に介しておられるでしょうか

2015-03-25 10:26:38 | Weblog

皆様、こんにちは。お久しぶりです。

今日もお越しいただき、ありがとうございます。

今回のメッセージは日頃、私たちが何気なしにスーパーで手に取るビーフやポークや鶏肉などのことについて、もう一度思い出すことを促しています。

ちょっとお話は飛びますが、ずいぶん前ですが、私は樹木と話をしたくて何度かやってみた時期がありました。

場所は足利市内の、親がまだ存命の頃に住んでいた小さな隠居家の裏山でした。そこは低い山が連なっており、彼らはその一部を庭園にし、しだれ桜や山桜、小さな池には小さな鯉などを放って楽しんでおりましたが、年かさが増すにつれ、庭の手入れも億劫になり、いつのまにか雑草の背丈は伸び放題、桜や梅だけでなく、竹林も荒れた様相を呈するようになっておりました。

でも、私はその自然の風情が好きで、訪れると、母が草取りに使っていた小さな椅子を持ち出しては、し~んとした裏山に登って、瞑想まがいのことをやっておりました。

そんな折のことでした。

しばらく静かさに身をゆだねて目を閉じておりますと、徐々に忘我の状態になっていきます。
どのくらいの時間が経ったのでしょう、がさっとした音にはっとすると、鎧に身をかためた古武士が、背の高さまである雑草をかき分けて、こちらに歩いてくる姿が目に入ってきました。
また、別な折りには、静かに瞑想の中にいてふと何かを感じて目を開けますと、それは美しい、巨大な天女を思わせる女性が、樹齢何百年もあろう山桜の枝に、透き通った衣を静かに揺らせて、腰をかけているが見えたりもしました。

絵巻で見たり、歴史の教科書で見たような天女とそっくりだったものですから、本当にそんな存在が居るのか、私と同じように、どこかで誰かが垣間見た人が描いたものだろうかと思ったものでした。

さて、その頃でした。
大それたことに、木と話をしてみたくなった私は、まず、竹林に入りました。
裏山には土が流れるのを防ぐ意味もあって、竹が植わっていました。つるっとして、たおやかで、青々としており、まず、そこに入っていきました。
手頃な太さでつるっとした竹に軽く両手と耳をつけて、しばらくじっと静かにしておりました。

すると竹の中で、何か音がこだましています。耳を澄ましますと、確かに何かが聞こえてきました。さらさら、か、そよそよか、ぽとぽと、つんつん・・・のどれでもない、でも、それらをあわせたような音・・・竹の先に高くそよぐ葉っぱたちの音か、土から揚がってくる水の音なのか、確かにしっかり耳に届いておりました。

しばらくこの音を楽しんだ後、私はこの竹に訊いてみました。「この場所は昔はなにがあったのでしょうか?どんなところだったのですか?」と。
すると驚いたことに、本当に、しっかりとした返答がかえってまいりました。
「私は新参者です。あそこの大きな古木に訊いてご覧なさい・・」と。

開けた目を移した先には、緑の茂みに中でひときわ目立つ、大きな何十メートルもの高さの木が、静かに立っておりました。どっしりと落ち着いた大木です。立ち上がって近づく私の足はよろよろし、でこぼこな土で木のサンダルが何度か脱げかけました。うす暗い木の根元でゆっくり腰を下ろし、根で盛り上がった土の上に両脚を広げて座りました。太い幹に腕を回すと、私の二の腕は半分ほどのところまでしか届きませんでした。ぼそぼそした感触の木の皮にそっと耳をつけて、話しかけました。

「ここの辺りは昔どんなところだったのでしょうか?」

返ってきた正確な答えは憶えておりませんが、確か、「昔も今も、大きな変わりがないが、自分はいつもここにいるだけだから、鳥たちに訊いてみると良い・・・彼らはいろいろこの辺りのことをよく知っている・・・」というような返事だったように憶えています。

そうそう、その時は、きっと日も暮れかかる、4時か5時をすぎていたのでしょう、
「私たちは早く眠りにつきます。」とその木が言っていたのを思い出しました。なんて早く眠るのだろう・・・と意外に思ったのを思い出します。眠りかけていた木は、それで、鳥たちに訊いてみたら、というお返事だったのかもしれません。鳥たちは昔のことをどうやって知るのでしょう。まさか、先祖代々言い継がれている、なんてことは人間の発想でしかないのでしょうか。

これらの体験から思いますのは、自然はつながっている・・・私たち、人間が思う以上に、自然の中の生き物は、木であれ、鳥であれ、彼らの間ではコミュニケーションが図られているかもしれないと思います。鳥も木々も、もしかしたら、私たちのように、気持ちや意識のようなものが違った形で存在し、彼ら同士の交流もなされているのかもしれない、とも思います。時間はどのように存在し、認識されるのでしょう。

さて、前置きが長くなりました。

今日のイエスの父からのメッセージをご紹介させていただきましょう。
ごゆっくり、お読みいただけますと、幸いです。

今回も、ありがとうございました。感謝申し上げます。

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さあ、始めましょう。
今日の話題は、また愛についてです。
そうです。愛は、常に新しい話題なのです。くめども尽きぬ話題です。

さて、それでは本題に入りましょう。

本題の愛についての今日の側面は免罪についてです。
免罪というのは一体どういうことなのでしょうか。
これは罪を免れる、許されるということです。
本当にそうでしょうか。
私の感ずる所では、皆さんのお使いの免罪の趣旨と、私の論じようとするところには多少のずれがあります。
それを論じようとすると、そもそもの原罪という考え方から始める必要があるようです。

原罪というのは何なのかご存知ない方も多いと思いますので、この事についてまず述べましょう。

人間は、もともと生きていること事体、罪を作らずに生きることはありえない・・・という考えが元々の意味です。
つまり、人が生きて身体を維持していく時に、他の命を犠牲にせずには生きていけないという部分がどうしても出てきます。
例えば、虫を捕まえて食べた過去に戻してみても、その虫は五分の魂を持つと表現されるように、それはそれなりの命を持つわけですから、その命をいただいて人の身体を維持するための一助にしていると言えます。
そういった考え方からすると、人は多くの命の犠牲の上に成り立って生存していると言えます。
これが原罪です。

この原罪を、私達は果たして、今まで意にとめたことがあったでしょうか。
牛や豚を食べて、「あ~美味しかった・・・」と幸せな笑みを交し合う家族に一体、どれほどの罪の意識がありましょうか。

そうなのです。私達はそんな毎日を実際に繰り返しているのに、全くそういった命を考えてのことはほとんどありません。
実際に毎日、そういった動物が食べられる目的の為にのみ生かされ、育てられ、また、命を失っている現実をどれ程の人が意に介しておられるでしょうか。

私は、これをとても悲しい現実だと感じざるを得ません。
かつては野に自由に命を謳歌していた・・・あなた方と同じように・・・全く同じ様に・・・動物達が、いつからか他の動物の餌になるためだけに生まれてくるという不合理さのサイクルの中に組み込まれてしましました。
これが良いわけはありません。

彼らにも心があり、子供があり、親がある・・・離散する悲しみが彼らの中にもありえるのだと思いやったことがおありでしょうか。

ビールを飲ませ、マッサージまでして大切に育てるのは、何の為なのでしょうか。
もう一度、考えてみていただけないでしょうか。

愛というものは、原罪を許すものです。
しかし、それは命の維持の為に必要なことは許されるということです。

山積みにされた食用肉が、あちらこちらに輸送され、取引され、贅沢な食の為に無駄にされたり、感謝の念のひとかけらもなく食べられる・・・それも、うまい、まずいと興に乗って語られながら・・・

同じ地球の仲間として、もう少し命について深く考えていただけたらと思います。

人間の仲間同士を大切にするのは勿論のことです。
しかし、その周辺に置かれている他のほかの仲間達・・・鳥や、牛や豚や、犬、猫、そして、猪やその他の多くの動物達は、なにも人間の為だけに命が与えられているのではないことはお分かりでしょう。
彼らは、彼らの命のサイクルと進化の為に表出しているというのを考えてみてください。
これは原罪云々というレベルを超えて、人間の本来のあるべき姿を逸脱した在り様だと言えます。

それでも罪の意識を多少でも保持しているのならまだしも、それさえもひとかけらもなく、自分達の快楽と贅沢の為にのみ、他の動物の命が奪われるのだとしたら・・・しかもそれが多くの人に当たり前のように長い期間行われるのだとしたら、それは原罪をはるかに越えて、誠にゆゆしきことになっていると申すしかありません。

愛というものをもう一度、思い起こす必要があります。
この地球は愛を学ぶ為の場所のひとつです。
愛を忘れるための場所ではありません。

愛とは他者をいたわり、そして思いやることです。
他者を自分と同じように取扱い、愛することが今求められています。
他者とは、何も人間に限ったことではないのはもうお分かりのことでしょう。
他のすべての存在物が他者です。
自分以外のこの地球上の仲間のことです。
その仲間が、同じようにこの場所を楽しむ権利が与えられているのを、もう一度思い起こしてください。

そして、お互い、自分の命の維持のために他者の命をいただくのは許されていることも、もう一度思い起こし、感謝してみてください。

この食卓にのったソーセージ・・・この中味はどこからやってきたものなのか・・・
このサラダの中の野菜はこの土にかつて大きく根を張って太陽の光に手を伸ばして自然の讃歌を唱っていたのを・・・あなたは思いやったことはおありでしょうか。

そうなのです。
あなたも、あの牛も、あの野菜も、仲間なのです。
あなただけの地球ではないことをもう一度思い出して、あなたがこの地で、太陽の光を受け、空気を吸い、水を飲み、食物を口に運ぶとき、心から感謝をしてみてください。

あなたの生活が変化してくるはずです。
心が豊かになるはずです。
食卓が豊かであっても、心がとても貧しい現実があまりにも多すぎます。

少し、きつい内容になりました。
それでは、今日は少し短めに、この位にします。

(後略)

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