イエスの父からの愛のメッセージ・Love Messages from Father

天から届けられるメッセージ。伝統、宗教から中立の、生命の裏にある真実を知ることが出来ます。「はじめに」をご参照ください。

113.愛はいかにして育てるか、育つか、について論じましょう

2014-01-12 20:22:36 | スピリチャル チャネリングメッセージ

こんにちは。
今日のメッセージをお届けできるのを有難く思います。

多くの人が思い悩んでいることの回答へのヒントがあるかもしれません。

私たちの毎日には必ず痛みや苦しみが伴うことが起きてまいります。
病気や不幸な出来事、軋轢などなど。
心が傷つき、怖れが広がり、やがて人は心身に病を得ていきます。

 


なんで?
なんでこうなるの?
一生懸命やっているのに。


こういった疑問に応えるヒントが見つかることを祈って、今日のメッセージをお届けいたします。

 

今日も訪れていただき、ありがとうございます。
ごゆっくりどうぞ。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

それでは始めましょう。

今朝も愛のメッセージです。

 

愛はいかにして育てるか、育つかについて論じましょう。

愛とは何か、愛というのはどんなもの、どんなことなのかについてはすでにいろいろな点からお伝えしてまいりました。

そして、今回はそういう愛をいつまでも良きものとして保つための方法、やり方について考えてみましょう。

愛とは、良きもの、気持ちのよきもの、望ましい形で来るものとは必ずしも限らないことはすでにご存知の通りです。

気持ちの良い、望ましい形で与えられる愛ならそのまま長く続いて欲しいと思うのは誰しもですが、望ましくない形、
苦しい形、痛みを伴うやり方の愛を手にした時、あなたは恐らく普通の感情としては、なるべく早く手放したい、その愛から逃れたい、要らない、とお考えになるでしょう。

しかし、前にもご説明した通り、愛とは必ずしもそういうものではなく、時には愛するが故に苦しいこと、痛みを伴うやり方、苦しみを体験するやり方でのみ呈されることがあります。愛するが故に子供のために親が行うものの中にはそういったやり方、愛し方があるのはご存知の通りです。

さて、そういう苦しい愛を持つ場合、あまりの苦しさ故に、その価値や意味、目的を理解できず、手放すことのみ考え、
実際に逃れてしまう人の何と多いことでしょうか。

本当に勿体ないことではあります。

本当に本来の目的からそれたことであります。

父の目的、愛から目をそむけ、逃げ出してしまうことになります。

そんな時、どうしたら本来の目的、本当の愛の裏にかくされた本当の意味に気づくことができるでしょうか

その大切なことを今から申し上げましょう。

 

人は本来、とても狭い見量で生きておられるとご説明したことがあります。

ふし穴を通してすべてをご覧にならざるをえない状況の中で生活をしているのだ、ということです。
それをお忘れになっているが故に、いろいろな事が可能になるが故に、その状況にあるのですが、
言うまでもなく、視界が狭まり、見えたり、理解できたり、展望できたりする範囲が極端に狭まるため、それまでのご自分の裁量や、理解力、企画力、行動力、思考力、等として表現されるすべての能力がかくされて、なきものに等しいような状態におかれてしまいます。

従って、今まで見えていた意味や目的がかくされ、本来の理解力、見識がなきも等しくなり、あなたは半分目かくしされたような状況の中で周囲に放り出されたようになります。

その中で、「これが愛ですよ・・・この裏にはすばらしい愛の目的がかくされていますよ」と言われたとしても、
全く何のことなのかわからないのは、ある意味当然と申せましょう。

そういう中で、例えば、愛を知るために病を体験するプロセスがあるとしますと、一旦、その中に入り込んだあなたは、その苦しみの中で果たしてその病を有難いものとして、感謝したり、その価値を評価できるものでしょうか。

それはなかなか難しいものでしょう

なかなか、すぐにはできないでしょう

苦しい!痛い!と顔をゆがめながら、有難う!嬉しい!と言える人はどれだけおられるでしょう。


さて、そういう時に、本来の目かくしをしない、明晰にものを見通し、かくされた意味や目的をしっかり見据えられるためにはどうしたらよいか・・・を申し上げましょう。

あなたもかつて、病に倒れ、苦しんだことがおありです。
あの時に発せられた私への言葉を忘れておられますか。

「病が癒えたら、私は人の為に働きたいと思います。働かせてください・・・」でした。

あなたは憶えておられないようです。
「そんなこと言ったかしら?言ったかもしれない・・・」としか思われておられません。

あなたでして・・・こうです。

苦しみの中で見え、思え、考えられること・・・

それは、なかなか普段のやさしい毎日の中では見えてこないものなのです。接することが難しい遠くにあるものなのです。

本当は、その普段見えないものが展望可能な所に行きたいために、人は病になりたがり、苦しみや痛みを体験したがるものなのですが、実際の人生に一旦入り込みますと、そういう本来の目的意識は心の深い所に沈み込み、心の表面には浮かんで来なくなるものなのです。

しかし、幸いなことに、しばしその苦しみや痛みを通り、そこから脱しかけた時に、あなたは大抵の場合、本来の意味を知ることが出来ます。

心の底にある眠った意識が普段与えられない刺激や訓練、鍛錬のようなもので、少し目覚めるからです。
その刺激は、ご自分が決めて人生をこぎ出した時の決意、目的設定を思い出させてくれます。

「あっそうだ・・・何か、この体験と関係ある大切なことがあったはずだ・・・」と何となく思い当たるようになります。

そして、こうなれば本来の目的が近づいてきて、あなたはその苦しみ、痛みから得られる代償を手にすることが
できるのです。

そうなのです。

それ程、痛み、苦しみの裏には、大きなごほうびが与えられているのです。

父はむやみやたらに、苦しみだけを与えるのではありません。痛みだけを体験しなさいと申しているのではありません。

その裏にひそんだ、大きな大きなプレゼントを差し上げたいが故なのです。


さて、そのことをご理解いただいた上で、その先にまいりましょう。


それでは、その愛を知り、病の本来の意味、目的を知ったら何になるのか・・・それがどういうものを先にもたらすのか・・・について申し上げましょう。


本来、愛とは形のないものです。

ある種、力はあるけれど、純粋なエネルギーであるが故に、見えるもの、触れるもの、手に持って、ホラ、これですよと
呈示できにくいことなのはご存知の通りです。

その「物」ではない愛を手にしたからといって、それでは次に何が来るのか・・・どんなことをもたらすのか・・・苦しみや痛みから手にしたものが、果たして先にいってどんなこととして形になって戻ってくるのか・・・について論じましょう。



あなたはかつておっしゃいました。「他人のために働きたい・・・役立ちたい・・・」と、

今となっては忘れておられる言葉かもしれませんが、あなたの実際の毎日はどうでしょう?

他人のために働いておられます。
お金のために、名声のために、お返しのために・・・という意識は全くという程なくなりました。
かつてはそうでなかったのは、あなたが一番良くご存知でしょう。

あなたはお変りになったのです。
苦しみ、痛みを通して、本当の心、本来の愛のあり様に少しずつ近づいているのです。

それが、必ずしも快いとは言えない体験の裏にひそむプレゼントなのです。

苦しみや痛みのみが持ってくることができるものもあることを知りましょう。


楽しいこと、うれしいことは誰でも歓迎するでしょう。

誰も嫌なこと、いみ嫌うことを進んで体験したいとは思わないでしょう。

しかし、本当は、本来はそうなのです・・・思うものなのです。

その向こうに見えるもの、そこに立つことによってのみ見えてくるもののために人は苦しみ、痛みを敢えて背負うのです。


それを思い出しましょう。

それでこそ、耐えられもしましょう。


お母さんに「がんばってネ」と背中をやさしくさすられながら、あなたは苦しさにあえぎ、耐えしのぶこともできましょう。このことを、次回こういう体験をすることになられたら、しっかり思い出して下さい。


愛するが故の試練

愛するが故の通り路



それを憶えておかれて下さい。

 

それでは今朝はこの位にしましょう。

(後略)

コメント

112.愛というものは、どこまで行けば終わるのでしょうか。

2014-01-10 20:23:14 | スピリチャル チャネリングメッセージ

長らくご無沙汰いたしました。
久しぶりにアップできますことを嬉しく思います。
いつも多くの方に読んでいただいているようで、こんなに光栄なことはありません。

あれから時は矢のごとく流れましたが、その間、いろいろなことを知り、学びました。
いくつかご紹介させてください。

まず一点は、よく言われることではありますが、実感できたことが幸いでした。つまり、
すべての人はエネルギー体を持ち、エネルギーで皆がつながっていること。

そして二点目は、エネルギーで繋がっているがゆえに、すべての人は、場所を限らず、コミュニケーション可能だ
ということです。

大変興味深いところは、このコミュニケーションはエネルギー体があれば、身体のあるなしに関わらず、空間を
超えて可能だということです。

つまり、平たく言いますと、この地上に生きていようと、その他の場所で生きていようと、・・・もっと平たく
申しますと、肉体を持って生きていても、亡くなっていても同様に通信可能なのだということなのです。
一例は、病気でヒーリングを受けに来られない場合でも、遠くにいても、エネルギー体でつながれば施術可能で、
症状が実際に改善されることからも体験として知りました。

また、このブログに沢山の実例がありますように、言葉として、あるいは概念として伝わってもきますし、伝えることも
可能だということです。

これにつきましては、追々、お話させていただきたいと思っております。

さて、今日のブログの内容に参りましょう。

このイエスが父と仰ぎ、対話を交わしたと伝えられる、このブログでお話しいただく父とも、エネルギーでつながって
いる故に可能になります。初めは、父の方からの話しかけから始まった会話ではありますが、今では事あるごと
父にこちらから話しかけ、お聞きすることも多くなりました。質問や、教えてほしいことをお聞きするのです。

でも、そんな一方で、正直、自分がやっていることを不思議に思うこともあります。
時折、本当かしら・・・と信じられない気持ちになります。
あの立派すぎる父と何故お話できるのかしら・・・と思うからですが、本来はどなたにも可能なはずです。
どなたでもやれるはずのことです。

まだ、しばらくは少数のようですので、今は、歓びとともに私が担当させていただきましょう。

それでは、今日もごゆっくり、お時間をかけて、何度もお読みいただけますように。

ありがとうございます。


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それでは、今日の愛の一側面についての言及を始めましょう。
愛とは、驚くことも時には含まれています。
愛とは、許しを越えた許しです。
そして、それはどこまでも続く道のりを越えて、私達の目の前に現れてくるものです。
遠く、遠くへず~っと広がって、果てしない所まで繋がっているかのようです。


愛というものは、どこまで行けば終わるのでしょうか。
愛というのは、どこまで行けば、これで充分、これで良し! というところまでたどりつくのでしょうか。

答えは、ノーです。
やっぱりですネ~、そうお答えになると思っていましたよ・・・と、おっしゃいますか。
もうこれまで、何度も愛はどこまでも続く、と様々な形でお伝えしてまいりましたから、大体察しがつくかと思います。

愛はどちらにせよ、大自然、宇宙、ミクロ、マクロの世界のように共通してとどまるところがありません。
ミクロの世界もマクロの世界も、いつか、とどのつまり、最終的な段階に届くだろうと考えられるかもしれませんが、
私の知る限り、
果てはありません。

どこまでも、どこまでも、続くのです。


それでは、あなたが今、発せられた質問・・・いつか、神が「愛を知って、いつか私の所に戻っていらっしゃい」と言った件は
どうなるのか・・・について、お答えしましょう。


神は、確かにある一定の場所、空間、波動領域に定着していることもあります。
その定着は、そこに行けば必ずいるというある段階のことですが、その場所以外にも神は遍在しています。
つまり、偏在と言うからにはどこの場所にもいると言うことですから、あなたがどこにいようと、神には必ず出会えるというのが
真実です。

従って、特別、神の所に戻ってこなくては会えないということはありません。

が、しかし、上記の「私の所に戻ってきなさい」というのは、場所的な示唆という意味の「戻ってきなさい」ではなく、その段階に
達してと、云いますか、そのことを知った上で私の所にまた来なさい・・・という風な表現とご理解ください。


神がどこにでもいる限り、あなたはいつでも神の所に戻ってくることができます。
神がどこにでもいる限り、あなたは今のレベルで、神の所に「愛が分かったよ」と報告しに戻ってくることが出来ます。
限界がない限り、「愛を知って、私の所に戻ってきなさい」という言葉は、実際に結論的に終結する場所がないのではないか・・・と思われるのも当然でしょう。

しかし、私は知っています。
終結は、それでもあるのです。

少なくとも、愛という表現に含まれる内容、愛というエネルギーの中に存在するものを「知る」と言う作業には終結があるとは思います。
ただ、「知る」ということには終結があっても、愛の広がりは「知る」だけにはとどまらず、その向こうが見えるようになります。
愛を知ることによってのみ、見えることが出てくる・・・愛が知れたところに立つと、また美しい風景が目の前に広がっており、旅人はまたそこから足を一歩一歩前に出して歩みたくなるのです。

学ぶというのは、その先があるのです。
あ~、シンド・・・ですね。

次から次へと、とどまる所がないのならば、いつ休むときがやってくるのだろうとお思いですか?


休む時はない と思ってください。

休みたいと望まれることはないでしょう。
愛を知れば知るほど、先が見たくなるでしょう。
もっと先、もっと前、と先に進みたくなるものなのです。
愛とはそれ程のものなのです。

ふ~ん・・・と ため息をつかれますか・・・。
あなたは、まだ愛の本質を知り始めたばかりのところにおられます。
時折、愛するって幸せなことだナア~とか、愛するって自分が幸福に感じられるのだナア~と、感じておられます。

そう感じることでもっと愛することも可能だろうと、自分で思っておられます。
その通りなのです。

愛を一知ると、二まで行けるようになり、二を知ると、三まで行けるようになる・・・という具合に、どんどん先に進めるように
なり、それに従って幸せ度が増してくるのですから、何もしんどかったり、苦になることがありません。

先へ先へと・・・自然に・・・
そうです・・・自然に進めるのです。

努力は特別、自覚して払うことも徐々に少なくなるはずです。



先日は、「愛することを学ぶには」という風な内容をお話しました。

その中では、愛を流すのに困難を覚えた時の、愛へと立ち還る方法をお伝えしました。
こういう際には、少しの心がけ、努力、心積もりを払う必要があるかもしれませんが、そういう心の転換が可能になれば、その心の癖や、ある所に留まって身動き出来ない停滞する状態から抜け出ることも、徐々に容易になっていくことでしょう。

さて、それでは、少し横道にそれました。
今日の本題に戻りましょう。

「愛を知って、神の元に戻る為の愛を知る」ということは、どういうことなのか・・・に言及致しましょう。

愛を知るということは、愛を与えるということが出来る為に必要な段階なのです。
愛を知ると、当然、愛の素晴らしさに感動し、自分ももっと与えたいと望むようになります。
すると、それまでの「愛する」という愛の与え方から、愛そのものを与え続けるという、次のステップが自然と出来るようになっていきます。

知ることは、与えるために必要なのです。

例えば、小さな子供がお母さんにお使いを頼まれたとしましょう。
その小さな子は、お母さんに渡されたお金を握り締め、近くのお店に走っていくことでしょう。
そこで、お母さんに言われたとおりの品を手に取り、お金を渡し、お母さんの元にまた小走りに戻ってきます。手には、頼まれた品をしっかり持っています。
いくばくかのおつりも、手にあるかも知れません。

それはある意味、「知る」ということにとても似ています。
お母さんに頼まれて、買い物をしてくるようなものです。
自分の意志というより、大好きなお母さんにお願いされたので、私は一生懸命お使いに行く・・・といった風なことです。
愛するということは、自分で、頼まれずに買い物に出かけるようなものです。
お母さんから依頼されるのでもなく、お母さんの手からお金を渡されるのでもなく、大好きなお母さんを喜ばせたいからでもなく、自分から、自分の意志、お金を持って、買い物に行き、自分の手で品物を選び取る・・・という風なことなのです。

これも、ある「愛する」ステップの一つにしかすぎませんが、「知る」ということは、買い物のお手伝いが少し出来るようになったということです。

私が望むのは、こうです。

あなたが、あなたの意志そのものから手を伸ばし、愛を掴み取ることなのです。
決して、私が「愛を知りなさい」「愛しなさい」「愛を与えなさい」と伝えることなしに、愛について一人歩きを始められることを望んでいるのです。

時はかかるでしょう。

努力・・・心がけも要るかも知れません。

でも、いつか、この時を振り返ることがあるなら・・・あの時は、何にも出来なかったけれど、今は色々出来る・・・とご自身で納得いくことがありましょう。



それでは次に、もう少し時間をいただいて、愛を与えるというのは・・・与えると言う言葉はどうも、物を与える、物をこっちの手から、あちらの手に渡す・・・様な感覚が付いていますが、そうではありません。


愛は、発生させることも可能です。

今まで、愛は流す・・・ここにもあそこにも上にも下にも在るエネルギーを自分の中に取り込んで、自分の中を通し出すだけで良いのだと申してきました。
ですから、ご自分の中で何も失うことは、決してないのだという点を強調してきました。
誠にその通りです。

しかし、愛はそれではとどまりません。
愛は自分で発生させることも、可能なのです。

それはまたシンドそうだナア~と、お考えでしょう。
それがシンドくはないのです。
もうあなたはある程度、それを自然にこなしています。

それは愛を流し続けることで自然に身に付くことですので、努力は特別要らないのです。
人を愛すること、人に愛のエネルギーを手渡すことによって、自分の中に愛のエネルギーが生じ、自然に取り込んだ愛に、また、あなたの素晴らしい愛のエネルギーが付加されて、より遠くへ、より強く伝播することが可能になってくるのです。

この「伝播」ということにも後日、より詳しく説明する必要があります。
愛を与えるということは、自然の中に愛を生じる・・・これは意図せず、努力らしい努力もなく、自然に出来てくるものを、神の愛のエネルギーに乗せて出していくということです。
それで、また愛の多様化が一つ進むことになるのです。

それでは今日はこの位にしておきましょう。
愛を一杯ここにおいていきましょう。

(後略)

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