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世界の覚書

道州制、易姓革命、外国人参政権には反対です。伝王仁墓に百済門を作るのは場違いであり、反対です。
 



週刊オブイェクトの「琉球王国の火力装備と平和国家の幻想」に刺激されて、『誰も見たことのない琉球―〈琉球の歴史〉ビジュアル読本』を読んでみた。

興味深い。沖縄史(琉球史)のニューウェイブという感じだろうか。琉球史の印象は(この本を読む前からだが)、本土でいうと、弥生時代から古墳時代が、中世と直接共存しているようなイメージだ。言うまでもなく、人類学的にも言語学的にも、文化の古層としても、沖縄は日本世界の一員である。ただ、歴史時代になった段階が遅すぎたため、以前の記憶が薄れている。しかし筆者は、そんな見方では満足しない。もっと複雑な感情を込めた記述となる。
古琉球は世界で最も日本に近い異国であり(p.80)
中世の古琉球に限れば、それは分からんでもない。沖縄を実効支配していたのは、まぎれもなく「琉球」であった(少なくとも島津以前)。だが「国際法」的に言うと、そこは微妙である。だからこそ、秀吉は琉球を日本の勢力圏と位置づける事が出来た。秀吉は琉球を理解する鍵かもしれない。※1

#ちなみに中世日本の意識では、基本的に日本の南北東西の果ては決まっており、東は外が浜(青森県)、西は鬼界島(鹿児島県)であったから、確かに沖縄と北海道は、当時は日本世界の外側に位置づけられていた。もっとも、古琉球の公文書は平仮名だったのが、興味深いところ。

琉球は明の海禁政策によって、明が育成した交易ネットワークの会社みたいなものだった。そこで琉球王国では、那覇にあった華人村=久米村の存在が大きい。久米村は土の城壁で囲まれていたという。さすが華人のコロニーだけあって、都市国家の伝統である。

あと、ちょっと興味深い話。

p.64-65:本土の僧侶が王国には常駐しており、仏教はノロ(神女)と共に首里城の重要儀礼に列席する立場だった。神の道と仏の法が王国を支える霊的な両輪となるのは、何やら日本的である。王家の菩提寺は円覚寺だった。僧侶(禅僧)は外交のキーマンでもあった。

p.149-151:琉球では琉球人の通訳は養成しなかった。通訳は、ヤマト向けには日本人僧侶、その他の大陸や東南アジア向けには、久米村の華人達があたっていた。これは、彼らが知識人という事もあるし、グローバルな先進文化の情報センターでもあった。「外国語」を覚える作業は、「外国人」に任せるというのは、しかし、ずぼらな話に聞こえる。朝鮮ですら、自前の琉球語通訳を養成しようとしたそうだ。なぜ「ずぼら」かというと、外交機密もへったくれもなくなり、ややもすると外交の基本を、外国人顧問団に任せてしまうという態になってしまいかねない。筆者はこれを「アウトソーシング」として肯定的に評価してしまう。しかし、私には、これでは国家が成り立たなくなるのも、むべなるかなとしか思えない。※2

追記:

1.世界で最も日本に近い異国というのは、徳川幕藩体制の中華主義による位置づけでもあった。
2.通訳を那覇に住まわせている「異国人」に任せるポリシーは、本国とのコネクションを生かせるメリットがある。この辺は卑弥呼の時代みたいなもので(その頃も日本列島には華人のコロニーがあったと考えられる)、究極の権威を「中華」に依存する事で、政権が成り立つ所がある。それは国の生き様みたいなもので、どうもこうもない所。

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コメント
 
 
 
Unknown (民す党)
2008-10-31 18:18:43
10年~20年くらい前に聞いた話ですが、現在の日本語「障子」は、沖縄では「あかり」とか言うそうです。平安時代に、「障子」は「あかり障子」と言ったそうです。平安時代の言葉が半分に分かれて残っていると。
 
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