風に乗ってドイツへ

2006年W杯に沸いたドイツを巡る旅

マルボルク城

2006-08-02 | ポーランド旅行(7/26~)
 AM 9:00 起床。歯を磨いていると、アンティも起きたようで「Good morning!」けれど、外は大雨・・・。マルボルク城に行く気が失せてしまう・・・。

 アンティは午後のフェリーでストックホルムに向うので、早くもチェックアウト。ロビーでチェックアウトの順番を待っていると、トムが現れた。トムは旅の記念にと、アンティにTシャツを交換しようと提案。心優しいアンティは、自分の黒のバスケチームのカッコいいTシャツとトムの何日も洗っていない小汚いTシャツを快く交換していた。あぁ、なんて不憫なアンティ・・・。

 雨が小ぶりになった頃、アンティと朝食を取りに、街をブラブラ。良い匂いのするカフェでは、同じホステルに泊まっていた男の子が優雅に朝食を取っていた。私達は無難にSUBWAYで朝食。ハーフサイズを頼んだ私は15cmのパンなのだけれど、アンティは30cm。30cmはさすがに大きい。体の大きな彼でも食べ切れないほどだった。

 ゆっくりと朝食を取り、ゆっくりとおしゃべりをしていると、いつの間にか時間は過ぎていて、アンティーがフェリー乗り場に向う時間になってしまった。昨日から、ずっと一緒に行動していたので、別れが寂しい。彼はバス乗り場、私は駅へ、固い握手と抱擁を交わして、それぞれの場所に向った。

 マルボルクへの往復チケットと、明日のグダンスク行きのICのチケットを購入し、列車を待った。どの列車に乗って良いのか少し不安があったため、優しそうなおじさんに声をかけ、チケットを見せながら掲示板に載っている列車で合っているかと私は尋ねた。おじさんは、笑顔でそうだよと。そして、待つこと20分。PM 1:40 私は、やってきた列車に乗り込んだ。

 マルボルクへは、列車で50分。PM 2:30 に着くだろうと、のんびりとまた数独を始めた。1.2.3.・・・、6はどこだろう・・・。ここには入れられないし、ここもまだ分からない・・・。そんなふうに、頭を悩ませながら私は暇を潰していた。マルボルクまであと半分という所で、検札官がまわって来たので、先ほど買ったチケットを見せた。すると、問題が発生。

 実はこの列車SKMというのは、ポーランドの国鉄PKPとは違う鉄道会社のようで、私の買ったチケットでは乗っていはいけないらしい。だから、新たにチケットを買いなおせと言われた。けれど、私は納得がいかない。同じ路線のチケットを既に買って、おじさんに確認して、この電車だと言われたのだ。買いなおすなんて、納得がいかない。そもそも、乗ってはいけない違う会社なら、改札やホームを買えるべきだ。あぁ、納得いかないぞ!と、私は開き直った。すると、検札官は諦めたのか、それ以上私に何も要求する事無く、隣りの列車に消えていった。しかたないので、次の駅でおりて、正しいPKPの列車に乗り換えよう。そんな事も頭をよぎったが、時間のロスだと思い、更に開き直って悠々と数独を解きながら、目的地までSKMに連れて行ってもらう事にした。

 PM 2:40 居心地の悪かった列車はやっとマルボルク駅に到着した。駅から城までは徒歩15分。幸運にも、午前中の雨雲はぬけたようで、すっきりとした青空が広がっていた。マルボルクの地図を、持っていなかったのだが、列車から見えた城を目指して、賑わっている通りをぬけると、目の前に赤レンガ造りの広大な城が現れた。

 マルボルク城のチケット売り場には、40名ほどの観光客が列を作っていて、また並ぶのかと少しうんざりしながら、待っていた。先ほどの列車の件で心臓に毛が生えた私は、順番がまわってきた窓口で、堂々と「学生用一枚!」と言って入場券を購入した。学生証の提示は求められなかったので、問題なく購入♪

 入場口の前には、鎧姿のお兄さんが二人。小さな男の子が嬉しそうに一緒に記念撮影をしていた。私も一緒に写りたかったが、少し恥ずかしくてやめてしまった。やはり撮っておけば良かった・・・。そして、門をくぐり中庭に入ると、そこにも鎧姿のお兄さん。このマルボルク城は14世紀にドイツ騎士団がポーランドを征服するために建てた要塞であり、この城を拠点としてポーランド・リトアニア連合軍と戦ったのだ。しかし1410年に連合軍に敗れ、ポーランド王室の物となったそうだ。そして、この城もポーランドの他の町と違わず、第二次世界対戦で破壊され、戦後再建されたのだ。そして、1997年に世界文化遺産に登録され、今ではポーランド有数の観光名所だ。


 城の一部は博物館になっており、沢山の琥珀細工の装飾品が飾られている。その大きさに驚きながら見て回った。隣には、お土産用の琥珀のアクセサリー店があり、高いだろうと覗いてみると、意外にも手ごろな値段で売られていたので、思わずピアスとペンダントトップのセットとリングを買ってしまった。しかし、これ総てで58ゾルティー(2400円弱)とは、驚きだ。

 そして、銃や剣・鎧の展示物を見ていると、見たことのある人物を発見。今朝良い匂いのカフェで優雅に朝食を取っていた彼だ。スイスから来た彼セミューは友達のマシューと二人で観光していた。そして、私も仲間に入れてもらって、3人でこのヨーロッパ最大のレンガ作りの城を回る事にした。私達は、こっそりツアー客の後ろについて歩いて、こっそりそのガイドの説明を何食わぬ顔で盗み聞きしていた。「このトイレ塔は、稼動することで、汚物を川に流すので、伝染病を防いだのです。」ドイツ語のガイドだったので、わからない所をセミューが英語で教えてくれる。
 とても広いこの城は、入り組んだ小道や狭い階段をたどっていると、意外な場所に出たりと、まるでダンジョンのようだ。レンガ造りのゴシック様式のお城というのは、まさにドラゴンクエストに出てくる城だ。そして、鎧姿の兵士達。井戸の上で雛を育てているフェニックスの銅像。これが動き出したら・・・と、少しファンタジーの世界に足を踏み入れた感覚になったいた。


 そして追加料金を支払って、塔に登ってみた。広大なこの城、小さな街マルボルク、その向こうには、だだっ広い牧草地。本当にポーランドには山が無い。地平線のむこうまで、ずっと平野が広がっていた。


 塔から降りて、ブラブラと敷地の中を散歩している、セミューのお兄さんの彼女が日本人だと言う事が分かった。「じゃあ、何か日本語知ってる?」と聞いてみると、「こんにちは、ありがとう、すみません」と基本的な挨拶。「あと車と、イタリア語で言う乾杯とかね」といたずらっぽく笑いながらセミューは言った。「cheers?」「うん、イタリア語のね。」「サルーテ?」私はアリシェ達から教わった言葉を言ってみたけれど、それじゃないらしい。「Chin Chinだよ」と、とてもいたずらな表情。あぁ、誰ですかそんな言葉を教えるのは・・・。

 そして、この大きな城を川向こうから写真に写そうと、城をでた。マシューは私と同じように写真を撮るのだ好きなようで、私以上にパシャパシャと沢山の写真を撮っていた。橋の手前には記念撮影用の顔の部分をくりぬいた絵が立てかけてあり、それに興味を示したセミューは一番趣味の悪い物を選んで、マシューに撮ってもらって楽しんでいる。その様子は私もしっかり写真に収めさせてもらった。今にも化けて出そうなセミューの表情がとても忘れられない。


 反対に、川の対岸から映したマルボルク城の写真は、天気にも恵まれ、とても満足のいく美しさだった。

 マルボルク城を堪能した私達は、駅に向った。セミューとマシューは、これから次の街に向う。私はまた、グダンスクのホステルに戻るため、お別れだ。ゆっくり別れを惜しむ時間も無く、慌ただしく彼らの乗る列車を見送った。私はその後20分待ち、今度はしっかりPKPの電車に乗ってグダンスクに戻った。

 PM 7:40 グダンスクに到着。真っ直ぐホステルに戻ると、今日もまた同室の男の子達が、ホステルの入り口のテーブルでポーカーをやっていた。私もやらないか?とまた誘われたのだけれど、ルールが良く分からない。彼らはポーカーだと言っているけれど、手に持っているカードは2枚だったり3枚だったり。私の知っているポーカーは5枚のはずなんだけれど・・・。と言う事で、彼らのポーカーには参加しなかった。
 そして、ホステルで準備を整えた後、夕食に向った。彼らはまだポーカーをやっていた。彼らに「何か食べに言ってくるね」と伝えると、ポーカーを隣りで見ていた女の子も一緒に行くと言うことで、二人で出かけた。

 彼女の名前はレンダ。ドイツ人だ。私は片言のドイツ語、レンダは片言の英語を駆使して会話していた。何処が英語で、何処がドイツ語か、お互いわからなくなりながら。
 「ルイスはポーカーばっかりしていて、つまらない!昨日も今日もポーカーだよ!」と、随分不満がたまっているようだ。私達は、適当なBARを見つけてビールで乾杯。レンダは17歳だけれど、この国の法律では飲酒は可・・・なはず。けれど、まだ苦手なようであまり進まない。ベジタリアンの彼女は、野菜のピザ。私は何か良く分からない物を適当に頼んだら、マッシュルームの乗ったハンバーグだった。うん、適当に頼んだ割には美味。

 そして、PM 9:30 に店の閉店時間の為に追い出され、夜のグダンスクの街をレンダと散歩した、遠くの方では雷が鳴り出した。また一雨くるのだろうかと、思ったそのとき、雨粒が落ちてきた。急いで夜のグダンスクの街を写真に収め、雨に濡れながら急いで帰った。


 ホステルに帰ると、ルイス達はテーブルをロビーに移し、まだポーカーをやっていた。レンダはもう呆れ顔。あっという間にやんだ雨、私とレンダは他の旅行者と共に入り口でおしゃべり。ドイツ人率がとても高い。あるカップルはベルリンに住んでいて、しかも隣りの駅というご近所さん。もう一組のカップルはハノーファー住んでいる学生さん。会話についていけません・・・。

 PM 11:00 には、会話についていくのに疲れたのか、本当に疲れていたのか、大人しく部屋に戻って就寝。水シャワーは勘弁してください・・・。

グダンスクの酔っ払い

2006-08-01 | ポーランド旅行(7/26~)
 AM 8:30 に眼が覚めると、雨が降っていた。今日はこれからグダンスクに向うのだけれど、あの荷物を持って傘をさすのは憂鬱だ。

 グダンスクのからの彼女はまだ帰っていない・・・。本当に何をしているのだろう・・・。同室のニュージーランドからの二人組みの女性達はまだ寝ているので、静かに荷物のパッキング。

 AM 10:00 に Nathan's Villa Hostelをチェックアウト。指輪紛失事件でお世話になった彼らに挨拶を、と思ったが見つからなかった・・・。仕方なく、そのままホステルを後にした。

 AM 10:50 発のICは遅れているようだ。掲示板には30分の遅れと表示されていた。ホームには私と同じように、バックパックを担いで旅をしている旅人が、遅れている列車を不安そうに退屈そうに待っていた。

 結局、列車は50分遅れで到着し、AM 11:40 ワルシャワを出発した。今回の列車はまるでドイツのICEのように、比較的新しい2列2列のコンパートメントに別れていない列車だった。隣りの席には綺麗な女の子。グダンスクにある家に帰るところだと言う事だ。警戒する必要の無いお隣さんに安心して、暇な移動時間にクラコフで買った数独(=ナンバークロス)を黙々と解いていた。そして、それを解く事に疲れたら、またも居眠りを開始した。こんなに列車の中で無防備に寝ていて本当に良いのだろうか・・・。

 ふと、眼が覚めると隣りの彼女は通路を挟んだ隣の席に移動して、2席を使ってくつろいでいた。お陰で私も2席使って、ゆっくりくつろいで眠れた。グダンスクまでの約4時間、のんびりゆったりウトウトウト・・・。

 グダンスクにはPM 4:10 に到着し、隣りの彼女が「これからどうするの?」と尋ねたので、「ホステルを探さないと。」すると答えた傍から、ホステルの客引きの女の子が近づいてきた。クラコフ、ワルシャワと、ポーランドではホステルの勧誘がとても多い。今までは既に予約をしていたので、話を聞かずに素通りしていたのだけれど、今日は少し聞いてみた。聞いてみると、昨日調べておいたホステルではないか。16人部屋の料金で4人部屋に泊まらせてもらえるとのことで、彼女の勧めるまま、このホステルに宿泊を決定。列車で隣りだった彼女と別れ、客引きの女性に連れられるままホステルへ。

 ワルシャワで降っていた雨はまだここには達していないようだ。

 駅から約10分、ホステルに到着。チェックインを行うが、既に4人部屋は満室ということで、結局16人部屋になってしまった・・・。しょうがないか・・・。けれど、16人って多いよね・・・。

 部屋に入ってベッドメイク。同室には3名の男性が眠っていた。PM 4:30 でもダラダラしている旅人もいるもんだ。残りもすべて男性だったら、どうしよう・・・。そんな不安もあったけれど、早速ホステルの中を探検。キッチン、トイレ、シャワールーム。ここは学生寮のようで、夏季休暇の間、ホステルとして開放しているらしい。正直、綺麗とは言い難い。
 そして、1階の階段脇にPCを発見。誰も使っていなかったので、メールチェック。・・・。・・・。日本語が表示されません・・・。Windowsならわかりそうなものの、OSも違うし、ブラウザーはFirefox?お手上げでした・・・。
 あーでもない、こーでもないと、PCと格闘していると、一人の日本人女性に声を掛けられた。旦那さんと二人で旅をしているそうで、「このあたりに二人で泊まれるホステルを知りませんか?」という事だったのだけれど、私は『地球の歩き方』に載っている所を提案するくらいが思いつかない・・・。実は彼女達、イスラエルに住んでいて、あの紛争から逃げる様に旅に出たらしい。出国できて良かったですね・・・。彼女達は、ツインルームを探しているらしいので、ドミトリーしか空いていないこのホステルを後にして、また他の宿を探しに向っていった。

 さて、そろそろ街の観光にくり出そうと、ホステルを出ると、そこで一服していた男性二人に呼び止められ、一緒に出かける事に。一人はアメリカ人トム、もう一人はフィンランド人のアンティ。でも、このアンティ、多分ワルシャワの駅で見かけたはずだ。来ない列車を退屈そうに、荷物に座って待っていた人だったような・・・。そんな事を考えていたら、トムに「いつ着いたの?」と聞かれ、「4時にワルシャワから着いたよ」と伝えると、アンティが「あれ?同じ列車だった?」「そうだよ。私、貴方の事覚えてるよ♪」そんな話しをしながら、私達よりここに長く滞在しているトムに連れられるまま、グダンスクの町を歩いた。


 このグダンスクの街も、第二次世界大戦で90%が破壊され、戦後元通りに修復された港街だ。バルト海に面したヴィステルブラッテというグダンスク港の突端に、1939年9月1日、ナチスドイツが奇襲をしかけ、第二次世界大戦がはじまった街である。けれど、今ではとても美しい街だ。ワルシャワのホステルの人達も口をそろえて言っていた。


 トムに連れられるまま、歩いていた私達は、いつの間にかモトワヴァ運河に到着していた。やはり港町、なぜか心落ち着く。運河の脇には、琥珀のアクセサリー店。ポーランドは琥珀の特産地で、特にこの近辺での琥珀は有名だそうだ。驚くような価格で手に入る。

 そして、またトムに連れられるまま、ブラブラとモトワヴァ運河にそって南下し、緑の門をくぐりドゥウーキ広場へ。沢山の観光客で賑わっていた。トムがある観光客に写真を撮ってとお願いされているうちに、私もすかさずネプチューンの噴水と市庁舎を写真に収めた。


 そうして、トムに連れられるまま、辿り着いた広場ではミュージックフェスティバルが行われていて、沢山の屋台と、特設ステージ。私達もここで夕食を取る事にした。

 屋台のメニューはポーランド料理が主だったので、アレと、コレにしようと決めた時、全く同じ物をアンティが頼んだので、先を越されたとなぜか負けた気分になってしまった。ビゴスというキャベツとソーセージを煮込んだ料理と、名前は忘れてしまったチキンの串焼き、そしてもちろんビール♪


 私達の席の隣りには、地元の主婦仲間6名が家事を忘れて楽しみに来ていた。そんな彼女たちとも仲良くなるトム。ホッペにキスしてとせがんでいる。私には「日本ではキスするとき舌使うの?」と聞いてくる。まるでセクハラ親父です。私とアンティーは呆れて苦笑い。因みにトムは36歳、アンティーが24歳。セクハラ親父のトムをほって、私とアンティは出身地の話。彼はフィンランドのタンペレ出身。「ムーミンの町?」「ムーミンの町は、そこからちょっと離れてるよ」そんな話をしながらビールは2杯目に。後ろの席には、ドイツから休暇で来ているおじさん。私が「ドイツ語を少しなら話せるよ」と伝えると、沢山話しかけてくれた。娘さんはとても退屈そうで、時々パパの腕を引っ張って、早く行こうとせかしていた。まだまだ可愛い9歳の女の子。
 トムが私に赤いシロップの入ったビールを飲んでみろと言うので、ベルリナーヴァイセが苦手な私は気が進まなかったけれど、とりあえず注文。・・・。やっぱり甘くて好きじゃない・・・。結局、トムの飲んでた普通のビールと交換し、3杯目。随分、酔っ払ってきた・・・。ノリの良い音楽と、ノリの良い主婦仲間。楽しい食事。気付くと空はすっかり暮れていた。気付くとビールも4杯目。
 すっかり暗くなったPM 10:00、フェスティバルも終わりに近づき、私達もホステルに戻る事にした。はい、久々に酔っ払ってます。けれど、またトムに連れられて帰るだけなので楽チン楽チン。トムが近道をしようと、とある建物のピロティーを抜けたところで、・・・。こけた・・・。暗がりで段差が見えなかったのだ。驚いたアンティがすかさず手をかしてくれた。あー、本当に久しぶりに酔っぱらいだ。楽しい楽しい。こけても楽しかった。

 そして、無事ホステルに辿り着いて、トムとお別れ、アンティとは同室だったので一緒に部屋へ。部屋は既に電気が消されていて暗かった。眠れない同室の旅人達は、廊下で机を囲んでポーカー。私達も誘われたけれど、酔っ払いの私には出来ません・・・。

 そして、シャワーを浴びて就寝。・・・、シャワー、水しか出ません・・・。冷たい冷たい・・・。お陰で酔いも冷めました。

ホステルの仲間達

2006-07-31 | ポーランド旅行(7/26~)
 スペインからの彼女たちは早朝にバタバタと出発してしまった。私は目覚める気力は無く、そのまま眠り込んでいた。

 今日の予定は特になし。そう、EASY JETの都合で一日延びたこの旅行、ワルシャワでの滞在を一日延ばす事にしたのだ。けれど、ワルシャワは首都の割りにいまいち観光名所が少ない・・・。昨日行きそびれたツィタデラ10号棟博物館は今日は休館日・・・。月曜日は休館している所が多いので見るべき物は少ない・・・。体力的にもかなり疲れていたし、軽く雨も降っているので、のんびりする事に決定だ。

 AM 11:00 まで部屋でダラダラと過ごし、遅い朝食を取りにダイニングへ。トーストを焼いて、コーヒーを入れて、テーブルに着いたとき、向かいのテーブルに座っていた男性から「Are you French?」と声をかけられた。正直、耳を疑った。私がフランス人?何処をどうみてフランス人?やっぱり聞き間違えたのかな?キョトンとしている私に彼は「Where are you from?」と聞いてきた。私は「日本から」、彼はイングランドからのようだ。やっぱり最初の質問は私の聞き間違えだったのだろうか?彼の言い回しは、私には慣れなく何度か聞き返しながら、軽く会話を交わした。母国語として英語を使う人達は、言い回しが全然違う。慣れていない私には、何を聞かれているのかさっぱりだ。聞き返すと、違う言い回しで質問してくれるので分かるのだけれど・・・。そんな彼は、彼女と旅をしているようだったので、あまりお邪魔にならないようにと退散。

 そして、ロビーでメールチェックと、明日向うグダンスクのホステルを調べて、場所と値段をチェック。予約はせずに、着いたらすぐに向おう。多分空いているだろう。
 そうしていると、一人の男性に声を掛けられた。イタリア人のマッシモ。「今日は何処行くの?」そう聞かれたので、「後で駅に切符を買いに行くだけで、予定は無いよ」「じゃあ、後で一緒に行こう!」マッシモと、1時間後に一緒に出かける約束をして、とりあえず別れた。

 部屋に戻ると、グダンスクからの女性が買い物から帰ったのか、朝食?昼食?を取っていて私にバターミルクを勧めてくれた。たまにヴァニーナが買っているバターミルク。なんとなく怪しげなので私は試したことが無かったのだけれど、「彼女が飲んでごらん」と勧めてくれるので、一口頂いた。「薄めの甘くない飲むヨーグルト」そんな印象。「美味しいね」そう伝えると、「この会社のは美味しいのよ。もう一つの会社のはいまいちだけどね。気に入ったのなら、全部飲んで良いわよ♪」昨晩に引き続いて、また頂いてしまった・・・。

 ホステルの中をブラブラしていると、昨日指輪を見つけてくれた彼が、「今日は出かけないの?」「うん・・・。博物館は休館日だからねー、あとで近くのワジェンキ公園にでも行こうかな」「あー、あそこは綺麗な公園だから昼寝でもしておいで♪」ナミビアの短距離走選手だったフレデリクスに似たこの彼、一見怖そうなんだけれど、本当に優しくて面白くて私は大好きだ♪

 そして、待ち合わせに10分遅れてきたマッシモと駅に向って歩き出した。

 マッシモはイタリアのトリノの出身。オリンピックや「8月の後半に、イタリアに行くんだけれど、ミラノとローマどっちに行けばいいと思う?トリノには行く時間がなさそうなんだけれど・・・」そんな話をしながら駅に向った。朝方の雨はいつの間にか止んでいて、きつい日差しが戻っていた。

 駅の前の大通りは横断歩道が無く、地下通路で対岸に渡れるようになっているのだけれど、マッシモは信号の無いところで、横断を強行。一昨日のアレサンドロもだったが、イタリア人は降りたり登ったりするのが嫌いらしい・・・。

 駅の切符売り場では、結構な人が並んでいたけれど、窓口が多く開いていたので思った以上に早く順番が回ってきた。「明日の10時か11時のグダンスク行きの切符を一枚!」・・・、英語は通じなかった。じゃあ、ドイツ語で!と思ったところで、隣の窓口にいた女性が、通訳してくれてドイツ語を使う事無く、明日の切符を手に入れた。ヨーロッパにきてからというもの、何か不都合があると、周りの人が進んで助けてくれるのでとても助かる。手を差し伸べる習慣があるというのは、なんて素敵なのだろう。

 そして、今日の命題を終えた私はマッシモとブラブラ街を散歩。もう何度も通ったクラクフ通りを歩いていると、左足の甲が更に痛み出したので少し休憩・・・。やはり、腱鞘炎になっているのかな?少し休んで、また歩く。マッシモが「お腹が空いてきたから、ピザでも食べない?」と。やはりイタリア人、ポーランドに来てもピザが良いらしい・・・。適当な店に入ったけれど、トルコ風ピザ屋のため、マッシモの好みに合わず退席。
 結局、そのままホステルに戻り、私達の2時間の散歩は終った。ホステルに帰り着いたのはPM 4:00を過ぎていた。

 部屋に戻ると、グダンスクの彼女はベッドの上で1/6サイズのスイカを食べていた。更にもう一切れあるそうで、多すぎるから私も食べてと、1/8サイズのスイカを渡された。ベッドの上に買い物袋を敷いてスプーンで美味しく頂いた。昨日から貰ってばかりだな・・・。1/8サイズのスイカは私には大きすぎて、半分くらいで挫折してしまった。その間、彼女との会話はヨーロッパの男性の話。「オランダの男はいいわよ♪優しくて♪」既に21歳の娘のいる彼女だけれど、そんな歳には全く見えない。私は「スウェーデンの男性はどう?」なんて聞いてみた。スウェーデン人には美形が多いので・・・。彼女曰く、「カッコいいけど、性格が難しいのよねー。」「じゃあ、ドイツ人は?」「ドイツ人も性格がねー。あなたは、ブロンドが好みなの?」「ブロンドが良いって訳じゃないけど、スリムな人がいいなー」「男は逞しくなくちゃ!まぁ、私も若い事はスリムな男性が好きだったけどねー。じゃあ、アフリカンはどう?」「アフリカンは逞しい人が多いから、ちょっとね・・・。」「あら、私の知ってるアフリカンは細かったわよ。それで優しくて温かくて、良い男だったわー。」「その彼とは、もう会ってないの?」「ワルシャワにいるから、会おうと思えば会えるわよ♪」そんな会話が延々と続いた。実はこの彼女、いつも夜はいないのだ。夜出かけて、AM 10:00 頃帰ってくるのだ。何をしているのかは聞いてないのだけれど、この会話からあらぬ想像をしてしまう・・・。けれど、面白い話を聞けて私は楽しかった。

 彼女との会話も一段落し、私はまたブラブラとロビーのあたりをふらついていた。そこでであったのが、ギリシャからやってきた男性二人組み。ステリオスとピーターだ。一緒に夕食を食べないかと誘ってくれたので、同行することにした。まだ夕食には早いので、ワジェンキ公園をブラブラしようと提案。
 ステリオスとピーターは大学時代の友達で、ステリオスは今イングランドで働いているらしい。しかも富士通で!名刺を貰った。仕事で日本語を使う事は無いけれど、日本人の彼女がいるようで、いくつかの日本語を知っていた。
 そんな彼らと、ワジェンキ公園の植物園に入り、ウェディングの撮影らしき物を発見。綺麗なウエディングドレス姿の女性とその相手、カメラマンが3名ほど。あまりの綺麗さに、盗撮。


 公園をブラブラしたあと、お腹が減った彼ら共にレストランへ向った。すると突然、ステリオスが「食べるな」と言い出した。そう、ギリシャでは、レストランの事を『タベルナ』というそうだ。なので、私は、「じゃあ、タベルナで食べよう♪」とおかしなことを言いながら、タベルナを探した。タベルナでは、私はさっきのスイカのお陰であまりお腹が減っていなかったので、今日もピエロギ。でも中身はお肉じゃなくてポテトとチーズの物にしてみた。うん、美味しい。でも、やっぱりお肉の方が良いかな。


彼らはガッツリとした十分な食事を取っていた。私のお腹には到底入りそうも無い。ビール2杯も飲んでご機嫌な私とステリオス、ピーターは飲めないらしくビール1杯の後はコーラを飲んでいた。お酒に弱いヨーロッパ人は初めてだ。

 そして、お腹も気分も満足になって、ホステルに戻った。今晩の夜行バスでリトアニアに向う彼らは荷物を担いで出発だ。ウクレレを持って旅をしているステリオスが中庭で披露してくれた。リトアニアについたらビーチで泳ぐ予定の彼ら。北に上る事になるので、天気が悪いと冷えるだろうな。暑くなると良いね。

 彼らと別れ、部屋で一休み。PM 11:00頃、グダンスクの彼女は「マクドナルドに行ってくるわ♪」と行ったきり、数時間以上帰ってこない・・・。

この手に残る物

2006-07-30 | ポーランド旅行(7/26~)
 AM 4:00、携帯が鳴った。同室の彼女達が目覚めないように、急いで電話に出ると、日本からの定期連絡だった。こんな時間の電話だったので、何かあったのかと心配したけれど、特に用は無いようだ。また後で電話をくれると、この時は2分で終了。

 AM 9:00 に起床したのだが、少し曇った天気の為か、あまり気分は冴えなかった。早くも旅の疲れが出てきたのかもしれない。けれども、まだ予定の半分を過ぎただけだ。あと半分、高いモチベーションを維持したまま旅を続けられるのだろうか・・・。
 今日もパンとジャムとコーヒーだけの質素なホステルの朝食。朝食に関しては、ドイツのホステルの方が格段に良い。けれども宿泊料金とは別に支払わなければいけなかったり、宿泊料が随分と高かったりで、甲乙つけがたい。また、このホステルやクラコフのホステルでは無料でインターネットを使える。予約サイトで調べた際に、それを条件に宿を決めたのだけれども、70%以上のホステルで無料インターネットが料金に含まれていた。ドイツだと別料金でしかもインターネットカフェと比べて少し高いのだが、ポーランドではこれが普通のようだ。なので、朝食以外のことについては本当に満足させてもらっている。

 そしてAM 10:00 に、日本からの約束の電話。一人旅をしている事に、少し孤独を感じてしまう・・・。朝から、あまり気分がすぐれなかった為か、気持ちのベクトルは内に向いてしまっていた。

 それでも旅は続くわけで、昨日までの洗濯物をランドリーサービスに出し、靴下などの小さな物は洗面所で洗濯した。このことが、後々面倒な事になってしまうのだけれども・・・。

 少しホステルの部屋でダラダラと過ごし、PM 0:30 を過ぎた頃に、私はやっと重い腰を持ち上げて、観光に繰り出す事にした。まず向う先は文化科学宮殿。ワルシャワの町で最も大きな建築物だ。ワルシャワ市民から街の景観を壊すと嫌われているこの建築物は、当時ソ連の大統領であったスターリンからのありがた迷惑な贈り物なのだ。正に東ヨーロッパの権威の象徴そのものだった。


 その宮殿の脇の道を入り、近代建築が建ち並ぶ一角をブラブラと歩き、高級ホテル街を通り抜け、歩きつかれたPM 2:00 に一休み。
 さて、これから1834年に完成し、4万人もの政治犯が収容されてた大監獄要塞であるツィタデラ10号棟博物館にでも向おうかと思ったその時、ふと右手の中指が寂しい事に気がついた。いつも付けている指輪が無かったのだ。鞄の中や、ポケットの中にも見当たらない・・・。きっと洗面所で外した時に、置き忘れたのだろう・・・。もう既に誰かに取られてしまっているかも知れないけれど、もしかすると親切な人が受付に預けてくれているかも知れない・・・。きっと見つからないだろうと思いながら、トラムに乗って急いでホステルに戻った。

 まずは、洗濯した洗面所の周辺を探したが見当たらない・・・。そして、自分の部屋のベッドの周辺やロッカーの中、思い当たるところを探したがやはり見つからない・・・。そして、受付の女性に指輪を知らないかと尋ねたが、心当たりが無いと言う・・・。そこにいた男性従業員も一緒に探してくれたが見つからない。彼は「今はなくした事を忘れて、ガイドブックを広げながら街を観光して、今日を楽しみなさい。そして、帰って来た頃に僕達が君に良い知らせを伝えるから」そう言って励ましてくれた。けれども気分は朝より更に落ちていく・・・。そして、取りあえずインターネットをしている他の宿泊客にも手当たりしだい聞いてみた。けれども、やはり皆知らないと・・・。きっと誰かが持っていってしまったんだ・・・。

 ホステルの中庭で心を落ち着かせようと、独り考えていた。この手に残らない物、それはそれだけの運命だったのだと。探しても見つからない物は、私の元にあるべきじゃなかったのだと。本当に大切な物や必要な物は、必ずこの手に残るはずだから。そう自分に言い聞かせていた。

 少し落ち着いた心で、気分転換にインターネットでもしようかと、受付の前を通った時、先ほど私を諭してくれた彼がやって来て、「気分はどう?」と気遣ってくれた。あまり、心配も掛けれないので、「そこそこだよ。」と返事をした。「そこそこかー」彼はそう言って、私の前にこぶしを突き出した。いかにも中に何かが隠されているような感じで。彼の指を一つ一つ開いていくと、やはり中には探していた指輪だ。もう見つからないと諦めかけたところだったので、この手に戻ってきたことが信じられなかった。見つけてくれたのは受付の女性で、洗濯機の下に落ちていたそうだ。私は嬉しさのあまり、彼女に抱きついて何度もお礼を言った。気がつくと涙が溢れていた。心を落ち着かせる為に、砂糖のたっぷり入った紅茶を貰い、受付の横でしゃがんで飲んだ。少し落ち着いて、戻ってきた指輪をしばし眺めた。戻ってきてくれた。戻ってきてしまった。見つかった喜びとは裏腹に、少し複雑な気持ちが心の中に存在した。

 そして、やっと落ち着いた心でPM 3:30、再びワルシャワの町へ向った。PM 4:00 に閉館してしまうツィタデラにはもう行けなかったので、ヴィスワ川沿いにある人魚像でも見ようかと、ブラブラと広い公園を抜け、40分ほど歩いて川に向った。


 戦う人魚像の前で少し休憩をしていると、自転車でやってきた一人の女性に声を掛けられた。日本から来た事を伝えると、「あー日本人ですか~。私は昔日本語を勉強していました」と上手な日本語を話し始めた。リディアという名前の彼女は、4年間ポーランドの大学で日本語を学んだ後、1年間熊本大学に留学していたそうだ。「あの頃はもっと上手に日本語を話せましたが、今は忘れてしまいました」とそれでも上手に話せている。彼女は『電通のような会社』に勤めているけれど、日本語を使う機会が無いから、近々イギリス経由でNHKを受信しようと考えているそうだ。彼女はNHKのドキュメンタリー番組がとても好きだそうだ。日本に留学したのは10年前だと言うが、今もなお学ぼうとする彼女に私はとても感心した。
 「10年で、日本は随分変わりましたか?女の子達はどんなですか?」そう質問されたので、最近の日本の事を伝えた。秋葉原でメイド喫茶が流行っているとか、女性は美白ブームで夏でも日傘や長い手袋をして自転車に乗っているとか、化粧品も美白製品が売れているとか。彼女はとても驚いた様子で、「じゃあ、化粧品会社は儲かっているでしょうね」と。そして、話題は資生堂の話へ。ポーランドでは、ランコムやディオールよりも資生堂は高いのだと。資生堂は質が良いと思われているとか、日本ではあまり感じない事を教えてもらえた。私は、ポーランドの化粧品会社の名前を教えてもらった。けれども、彼女は質が良くないからあまりお勧めしないとのこと。
 そして、彼女が最近気になる日本の事について、尋ねてきた。その話題とは『引き篭もり』。なぜそうなったのか、その人達は何をしているのかと質問は尽きない。これは私の偏見かもしれないが、『小さいころからあまり外で友達と遊ばず、人と上手くコミュニケーションがとれないまま大人になってしまった』とか『欲しい物はインターネットで申し込めばすぐ届くので、外に出る必要性がなくなった』とか『一度引き篭もると、外に出るのが怖くなってしまう』とか、私の知っていることや考えを伝えた。すると彼女は「ご飯はどうしているの?」私は「親が作っているんです。30歳を超えても親と住んで、引き篭もりをしている人が沢山いるんです。」そう彼女に伝えると、とても驚いていた。「そう、そしてその親と喧嘩をして殺してしまう事件が最近増えていて、困った事になっているんです」と付け加えた。そして、彼女はとても複雑そうな表情を私に見せた。
 彼女の目に、日本という国は一体どういう風に映っているのだろうか。

 リディアは、「今晩友達が遊びに来て一緒に夜ご飯を食べるのだけれども、良かったら来ませんか?」と誘ってくれたのだが、彼女の家が少し離れていて、タクシーに乗る必要があった為、残念だけれど遠慮させてもらった。夜、独りでタクシーに乗るのは、やはり少し心配だった。

 自転車に乗り颯爽と走っていく彼女を見送り、私は再び歩き出した。

 ヴィスワ川を北上し、昨日アレサンドロと回った旧市街地で露店を物色し、キュリー夫人博物館の前を通り、恐らく中国だろう団体旅行者に紛れて写真を撮った。街のいたるところでは、大道芸人が思い思いのパフォーマンスで私たちを楽しませてくれる。


 旧市街地を通り抜け、ワルシャワ蜂起記念碑で1944年にソ連の援軍を得られずドイツ軍に無残に敗れた兵士たちの像を見て、クラシンスキ公園・サスキ公園を回った。


 サスキ公園にある無名戦士の墓を守る衛兵の交代式には10分ほど間に合わなかったのが残念だ。


 そして、テクテクまた歩いてホステルに向った。今日はどれだけ歩いただろう、左足の甲の腱が痛み始めていた。そして、朝からいまひとつ気分の晴れないこの一日。何故だろう。何故こんなに気持ちが内に向いているのだろう・・・。
 そして出た答えは、ちゃんとした食事を取っていなかったこと。今日はまだ、朝食のトーストしか食べていなかった。昨日もトーストとプレッツェルとサラダのみ。そんな食事で、これだけの距離を歩いているのだから、元気もなくなるだろう。

 そう考えて、PM 9:45 ホステルに戻り、ホステルが勧めるレストランで食事をする事にした。受付の女性は、ホステルに泊まっていることを伝えると、10%引きになると教えてくれたのだが、レストランのウェイターには英語が通じず、割引は無かった・・・。けれどもこのウェイター、笑顔が可愛く良く働く。あまりじっとする事無く空いたお皿やグラスなどこまめに、すべてのテーブルをチェックしていた。ヨーロッパでこれだけこまめに働くウェイターを見たのは初めてだった。私はここで無難にスパゲッティカルボナーラを頼んだのだけれど、空っぽの胃には少し重たかったようだ。残り3口ほどがどうしても口に入らなかった。

 満腹になったお腹をさすりながらホステルの部屋に戻ると、スペインからの彼女達が明日の出発の準備をしていた。「明日は6時に出発するから、ばたばたするけど許してね」そんな事を言っていた。荷物を詰め込む彼女達、かなりの大荷物だ。昨日受付の女性が、私の荷物の少なさに驚いたのも無理は無い。みな大きなバックパックやキャリーバックで旅をしているのだ。私は小さなバックパックと手提げ鞄だけだ。荷物は少ないに越した事はない。それでも、この荷物で私には十分重たいのだが・・・。

 そんな慌ただしく準備をする彼女達に、買ってきたチーズを「味見してみる?」と誘われ、試してみた。随分と重いチーズだったが、とてもい美味しかった。「気に入ったのなら、あげるわよ♪」遠慮なく頂いてしまった。

 そうして、いろいろあった一日がやっと過ぎて行った。

In Warsaw

2006-07-30 | ポーランド旅行(7/26~)
A little trouble happened to me in Warsaw...
But It's OK.
It was already solved.
Now I can enjoy sightseeing without worry.

But I am a little tired.
Because everyday I walk more than 10 km under the sunshine.
I walk so far that I ach my left instep...

Then I'll move to next town on Tuesday.

Take care and see you.

ワルシャワへ

2006-07-29 | ポーランド旅行(7/26~)
 AM 10:00 スカイホステルをチェックアウト。
 バックパックを担いで、中央駅東側のバスターミナルに向った。AM 11:00 発のワルシャワ行きPSKバスに乗車する為だ。バスターミナルにはAM 10:30 に到着し、少し時間を持て余したが、バスが到着するのをのんびりと待っていた。バスが到着したのがAM 11:05。乗車の為に並んでいると、後から来た乗客に順番を抜かされ、少し苛立った。バスには既に前の停車地から沢山の人が乗車しており、その空いている席を埋める形で私達が乗車する。そして、私の2人前の乗客で打ち切られた・・・。そう、このバスに乗れなかったのだ・・・。30分も待っていたのに、後から来た人に抜かされ、乗れなかったなんて、とても悔しい・・・。のんびり構えすぎていた・・・。もっと、貪欲に並ばなければいけなかったんだと、とても後悔・・・。私の前のバックパックを担いだ女性も落胆して、電車で向うと言う。私も便乗して彼女と一緒に急行電車で行く事にした。しかし、その電車の料金がバスの倍と言うのは痛い・・・。バスより短い時間で行けるというのは魅力だけれど、痛い出費だ・・・。便乗させてもらった女性はラトビアからの旅行者で、夕方のワルシャワ発のバスでラトビアに帰るので、時間が無いらしい。

 そして、私達はPM 0:00 発のワルシャワ行きの電車に乗り込んだ。正直、ポーランドの電車は古い。一昔前の国鉄の特急電車といった感じだ。ドイツのICEを多様した私には少し物足りない・・・。座席は6人掛けのコンパートメントに別れており、通路は随分と狭い。コンパートメントには、私達の他にも3人の乗客がおり、開かない窓に悪戦苦闘していた。結局、車掌さんにボルトを緩めてもらって事無きを得たのだけれど・・・。


 定刻通りに発車した列車の車窓に流れる風景は、ドイツのそれとあまり変わらず、のどかな牧草地がダラダラと続いていた。そして、ここでも流れる風景に飽きた頃、私は眠りについてしまった。そして、PM 3:00 が近づいた頃、列車はワルシャワ中央駅に到着した。ラトビアからの彼女と駅を出たところで別れ、私は独り本日の宿であるNathan's Villa Hostel に向った。今日もうだるような暑さで、バックパックを担いだ背中には汗がにじんでいる。駅から15分ほど南に歩いたところで、ホステルを発見した。

 このホステルはまだ新しく、とても清潔で受付の女性も可愛らしく、一目で気に入ってしまった。5人部屋のドミトリーも女性専用の部屋で安心だ。そして、何と言ってもシャワーブースの綺麗なこと。クラコフのホステルでも十分だが、やはり綺麗に越した事はない。今日から3泊、快適に過ごせそうだ。

 受付に置いてあるチラシを物色していると、一人の男性に「何処から来たの?」と声を掛けられた。「日本から。あなたは?」そう聞き返すと、「当ててみて?」と。顔をしっかり観察して、ラテン民族ではないと判断して、「オランダ?ハンガリー?チェコ?」など適当な国を挙げてみた。けれどもどれも違い、正解は「イタリア」とのこと。確かに、その人懐っこそうな性格は確かにラテン民族だった。そして、その陽気なイタリアンのアレサンドロと街を観光することになった。

 まずはアレサンドロの為に両替所を探す。土曜日の今日は開いている店が少ない・・・。けれど、なんとかホステル近くの両替所を発見。そして、近くの教会から旧市街地を目指した。ひたすら北北東に進路を取って、歩く歩く。途中の路地で休憩がてら、座って私のMP3プレーヤーで日本の音楽を二人で聴いたり、地動説を唱えたコペルニクス像の前で写真を撮ったりした。因みに、このコペルニクスはワルシャワから3時間ほど離れたポーランドの中心にあるトルンという街の出身だったそうだ。そのコペルニクスの台座から私が降りるとき、さすがはイタリア人、アレサンドロは抱きかかえて降ろしてくれる。しかも、なかなか手を離してくれず、随分恥ずかしい思いをさせられた。


 その後、ショパンの心臓が眠る教会の前でまた記念撮影。こんな場所でも、アレサンドロは陽気なイタリアン・・・。


 そして、ユネスコの世界遺産に登録されているワルシャワの旧市街地に到着した。PM 5:00 にホステルを出発して、既に2時間が経過していた。
 王宮広場で演奏されているバイオリンの音楽に合わせて、アレサンドロにダンスを教わった。ダンゴやサルサ、沢山の観光客がいる中で下手糞なダンスを披露するのはかなり恥ずかしかったのだけれども・・・。

 PM 7:30 でもまだまだ明るいワルシャワの街。気温も随分と高い。アイスを食べながら、バルバカンと呼ばれる要塞に囲まれた旧市街地をブラブラ。この旧市街地は、第二次世界大戦で破壊され、戦後元通りに修復された街である。ポーランドという国は、第二次世界大戦とは切っても切り離せない過去を持つ国だ。それでも以前の町並みを取り戻し、今は沢山の観光客が集まっている。旧市街地の中央広場では特設ステージが組まれ、今夜はコンサートが開かれていた。バイオリンを奏でる出演者、沢山の頭で良く見えなかったのが残念だ。クラコフの旧市街地と比べると、こじんまりとした印象を受けるワルシャワの旧市街地、沢山の観光客がひしめいていた。


 そして、バルバカンの門を通り抜け、今度はひたすら南にあるいて、ホステルに向った。

 そして、ホステルに帰り着いたのはPM 9:30 を回っていた。ホステルの中庭でアレサンドロとおしゃべりをしていると、あっという間にPM 10:00 を過ぎてしまった。気がつけば、少しお腹が減っていた。そういえば、今日はちゃんと食事をしていなかった。朝はホステルでトーストのみ、昼食は電車で食べたプレッツェルのみ・・・。どうしても、一人で観光していると食事を取る事を忘れがちになってしまう・・・。もう遅い時間なので、食べなくても良いかと思ったが、それは身体に悪いだろうと、お腹が空いていないアレサンドロを残して一人ホステル近くのKFCに向った。そこでしっかり野菜を食べないとと思い、サラダとコーラを食す。どこの国でも、ファストフードは簡単に見つけられて、食事を取るのが面倒な時には重宝するものだ。

 今夜の同室の旅行者は、ポーランドの北にあるグダンスクからやってきた女性が一人と、スペインからの女性が3人。皆私よりも随分と年上だった。
 まだ、ワルシャワの後に向う土地を、グダンスクかスロバキアに入るか決めかねていたのだけれど、グダンスクからの彼女から、とても綺麗な街だと勧められ、バルト海に面したグダンスクに向おうかと決めた。結局ポーランドを縦断することになりそうだ。しかも、またクラクフに戻らなければならないので、往復するわけだ。エアーのインとアウトの土地を変えるべきだったと少し後悔したけれど、仕方ない。気ままな一人旅だ。その時の気分や、気持ちに正直に動いてみよう。

岩塩採掘場

2006-07-28 | ポーランド旅行(7/26~)
 AM 9:00 起床。既にイタリア人の彼女のベッドは片付いていた。もうチェックアウトしてしまっただろうか?部屋を出て行く気配すら感じず深い眠りについていたんだな。最近はドミトリーでも、ぐっすり眠れるようになってしまったようだ。人の環境への適応能力というのは恐ろしい・・・。

 またホステルのトーストで朝食を済まし、のんびりとリビングで過ごしていた。そこに、イタリア人の彼女も戻ってきた。朝早くから町を観光してきたそうだ。あっちに行ったり、こっちに行ったり、彼女の旅は忙しい。そして、ゆっくりするのも束の間、AM 10:00 にはチェックアウトし、イタリアに帰ってしまった。サヨナラが言えて良かった。

 私もそろそろ出発の準備でもしようか、今日の予定はワルシャワに向うバスの予約と、ユネスコ世界遺産であるヴィエリチカ岩塩採掘場だ。

 AM 11:00 に ホステルを出発し、クラコフ中央駅の裏側にあるバスターミナルに向った。数名の旅行者が並ぶ窓口に並び、私の番を待った。
 私の番が来て、明日ワルシャワに向いたいと伝えると、何故かインフォメーションに聞けと言われた。言われるがままインフォメーションに行き、明日の朝のバスでワルシャワに向いたいと伝えると、バスの時刻を教えてくれ、チケットはバスの中で買えと言われた。予約は出来ないようだ。出発時刻は AM 9:00 と AM 11:00 だ。朝には弱いので、AM 11:00 に乗ることにしよう。バスの乗車賃は40ゾルティー、日本円で1600円。安く移動ができそうだ。予約が出来なかった事に不安は残るが、早めに来ておけばなんとかなるだろう。

 そして、昨日教えてもらったヴィエリチカ行きのバス乗り場に向って、またテクテク歩いた。
この時既に PM 0:45 を回っていて、予約できなかったバスに対して、酷く時間を取ってしまった事にうんざりしていた。

 ヴィエリチカ行きのバス停に着いたのは、PM 1:00 を回っていて、同じくバスを待つ人にここであっているか尋ねて、バスが来るのを待った。待つこと10分。ヴィエリチカとフロントガラスに表示されてたバスが到着したので、運転手さんにこれに乗っていいのか訪ねると、何故か違うという。あとからくるバスに乗れと言っているようだ。英語が通じないので、良く分からないが、そうするしかないようだ。そして、次に来たバスでも同じ対応・・・。一体、どれが採掘場に行くバスなのだろうか・・・。そして、その次に来たバスにやっと乗り込む事ができた。違いが分からない・・・。とりあえず、同じように採掘場に向うらしき人も乗り込んだので、その人達について行けば良いだろう。

 バスに揺られる事30分。目的地に到着。もうすでに PM 2:00 だ。ここでも入場チケットを求める為に長い列が待っていた。またもや日差しのきつい中、並ばなければ・・・。

 チケット売り場で、英語ガイドのツアーを申し込み、その料金が『地球の歩き方』に載っているものより15ゾルティーも高く65ゾルティーになっている事に驚き、言葉は分からないでもポーランド語のツアーにするべきだったかと少し後悔。けれども、チケット購入後すぐにそのツアーが始まったので、時間のロス無く中に入る事ができた。


 ヴィエリチカ岩塩採掘場は、1250年頃から1950年頃まで稼動していた大規模採掘場だ。地下通路の全長はなんと約250Km。その一部の2Kmほどをツアーガイドに連れられて観光するのだ。
 私達は、まずは一気に地下64mまで、目が回りそうになりながら階段で降りる。地下に進むに連れて、随分と涼しい。七部袖のパーカーを持ってきていたが、それでも少し寒いくらいだ。同じツアー客には高校生くらいの女の子8人のグループがいて、とても元気だ。けれど、柱に落書きをするのは、いただけない・・・。いくつかの壁や柱には、これまでの観光客が書いたと思われる落書きが沢山あった。日本人はあまり訪れないのだろうか、日本語を見つけることは無かったのだが、アルファベットの落書きの中に、ひときわハングル文字の落書きは目立った。韓国で落書きは流行りなのだろうか。いたる所で見つけられて、興ざめする。
 それはさておき、採掘場の中には、観光客を飽きさせない工夫が所かしこにされており、岩塩彫刻で工夫達の様子が表されていたり、工夫の手伝いをしている小人達の姿を見る事が出来た。その工夫たちの像で当時の岩塩採掘の方法などが分かりやすく展示されていた。


 なかでも素晴らしかったのが、聖キンガ礼拝堂である。この採掘場の中には、いくつかの礼拝堂があるのだが、なかでも一番大きな物がこの礼拝堂だ。縦54m×横18m×高さ12mという、地下の洞窟とは思えない広さだった。そこに飾られている祭壇や像もすべて岩塩で作られている。10分ほどこの礼拝堂で休憩を取ったのだが、その時にあの騒がしかった女子高生達が美しい賛美歌を披露してくれたので、周りの観光客から一斉に拍手が起こったのだ。美しいハーモニーが、岩塩の壁に反響し、本当に素晴らしい合唱だった。


 そして、地下110mのところには最大の塩水湖があり、暗闇の中からライトと共にショパンの『別れの曲』が流れた。そう、ショパンはこのポーランドの出身なのだ。随分と昔のトレンディードラマで利用されたこの曲だが、もしあの時あのドラマを見ていなければ、クラッシクに疎い私には、きっと分からなかっただろう。そして、少し物思いにふける時間が流れた。
 地下124mまで降りたところでこのガイドツアーは終了する。実際には、地下327mまでにこの採掘場は続いているそうだ。最後にはカフェやお土産屋が並んでおり、満足した観光客は一気に簡素なエレベーターで地上に戻るのだ。実に2時間に及ぶガイドツアーだった。ありの巣のようなこの採掘場は、やはりガイド無しには回れないだろう。そのため、入場料が高いのだけれど、納得。いや、でも少し高いか・・・。

 約2時間ぶりに、私達は日差しのきつい地上に戻った。少し冷えた体を、ベンチに座って温めていたら、ロシアからのご夫婦に声を掛けられた。あいにくあまり時間が無く、ゆっくり会話をする時間が取れず、彼らは行ってしまったのだけれど・・・。

 そして、近くのお土産屋で塩の結晶など簡単なお土産物を買い、クラコフの町に戻る事にした。

 クラコフの町に帰り着いたのは、もうPM 6:00 を回っていた。旧市街地を横断し、朝食から何も食べていなかった私は、道で売っているプレッツェルを買い、歩きながら食べた。随分とお腹が減ってきた。一度、ホステルに戻り、手ごろな店を探しに行こう。

 ホステルで少し休憩をとった後、受付に6日後からの2泊分の予約をお願いし、再び夜ご飯を求めて町を彷徨った。ホステルで貰った割引券に乗ってある、Barとかいてバルと読む1軒の大衆食堂のような店に向ったのだが、何故か見つけられず、適当にビールが飲めるBarを探して歩いた。結構すぐに見つかり、かなりこじんまりとした店だが、ビールが安く飲めるし、そのほかの料理も手ごろだ。良い店を見つけたかもしれない。


 私はビールとお肉のピエロギ(ハーフサイズ)を注文。これで9ゾルティー、日本円で360円。私は、周りの人が食べている物を密かに覘きながら、美味しそうだな、またクラコフに戻ってきたらこの店に食べに来ようと考えた。

 そして、PM 9:15、満足したお腹でホステルに戻った。明日のチェックアウトの為に荷物の整理。今晩はドミトリーなのに何故か一人。かなり寂しい・・・。

クラクフの街で

2006-07-27 | ポーランド旅行(7/26~)
 AM 8:30 になった目覚ましを止めてしまって、二度寝に突入・・・。

 しっかり目覚めたのは、AM 9:10。ホステルのトーストで朝食を取り、ゆっくり市内観光に出発した。旧市街地に入り、マーケットスクエアにある聖マリア教会やその前でお客を待つ馬車を写真に残し、観光客で溢れかえる広場を縦断した。

 昨日の日記にも書いたが、クラクフの旧市街地はユネスコの世界遺産に登録されている。1386年~1572年のポーランド王朝時代に繁栄し、1597年に首都がワルシャワに遷都されるまで経済・文化の中心だったそうだ。そして、第二次世界大戦で他の都市が破壊される中、ドイツ軍の司令部が置かれていた為、クラクフの街は破壊される事無く、中世からの町並みが今もなおそのままの姿で残っているのだ。

 そんなクラクフの旧市街地を縦断し、途中本屋で絵葉書を買ったりしながら、丘の上に建つヴァヴェル城を目指した。城の入り口では、沢山の観光客が館内の入場券を求めて、長い列を作っていた。私も彼らの後ろに並び、自分の番が来るのは何分掛かるだろうかと考えていると、昨日出逢った彼女達に再会した。彼女達と共に今日も日差しのきつい中、順番が来るのを汗をかきながら30分程待っただだろうか。やっと私達の番になり、王宮の入場券を購入。勢いで学生料金の8ゾルティーで入場してしまった。私達はもちろん国際学生証などは持っていない。受付で「学生ですか?」と聞かれるので、「ハイ」と答えて、学生料金になったのだ。

 まずは、歴代のポーランド王の戴冠式が行われた大聖堂。1320年にゴシック様式で着工された建物だが、後にルネサンス様式やバロック様式も取り入れられた融合建築。尖塔の違い等でお勉強。観光シーズンのクラクフは本当に観光客が多く、この大聖堂も沢山の人でなかなか落ち着かない・・・。けれど、きらびやかな装飾品は見事な物で、流石に王の戴冠式が行われていた場所だと納得。地下には歴代の王の棺が納められていそうだ。





 そして、王宮の見学に向った。私達は一般向けの1階と3階にのみに入場できるチケットを持っていた。歴代王の肖像画などを見てまわる。一部には王が収集したタペストリーが展示されていた。けれども、はっと目を引く物はこの王宮の中には見つけられなかった。他の観光客が言うには、Krolewskie Apartmenty Prywantneと言われる2階にある王の私室は素晴らしいとのことだったが、残念ながら入場制限があり、私達がチケット窓口に並んでいる時に既に定員に達してしまっていたので、王の私室には入場できず。

 城の庭園から、街を見下ろす。旧市街地の裏側となるヴィスワ川を挟んで、穏やかな川面を模した屋根を持つ近代建築が見えた。あれが日本美術・技術センター、通称マンガ館だ。日本人有名建築家の磯崎新設計のこの建物、あとでスケッチをしに行こうと決めた。



 日本人女性二人組とはこの城で別れ、その後は独りで気ままに観光。

 城を降りる道では伝説の竜の像を見逃した。クラクフのお土産屋で、よく竜のぬいぐるみや置物を目にするのだが、それはヴィスワ川にすんでいた竜の伝説からくるものだ。その竜は、付近の美しい娘をさらって食べていたそうだ。そしてひとりの靴職人の弟子が街の娘を守ろうと、その竜をだましてタールと硫黄を染み込ませた羊を食べさせたそうだ。喉が渇いた竜が川の水を飲み、体が破裂してしまったという。そして街を救った彼は、王の娘と結婚して、めでたしめでたし。といった伝説。因みに、私の今日着ていた服は、なんんと竜のイラスト入りのノースリーブ。特に図ったわけではないのだが、まるでわざとそうしたかのようで、少し恥ずかしい・・・。

 そして、ブラブラテクテク向ったのが、旧市街地を挟んでホステルの反対側にあるカジミエージュ地区。ここは映画『シンドラーのリスト』の舞台となったユダヤ人ゲットーがあった場所で、実際にここで撮影もされた。旧市街地とは異なった少し不穏な印象の町並みだ。そして、建替え工事や修復工事で更に落ち着かない。けれども、観光名所となっているため、あちらこちらで手ごろなカフェが見つけられる。戦後60年、平和になったと感じられるのだけれども、本当にそうなのだろうか。ユダヤ人がやっと手にした国イスラエルは今また紛争が起こっている。

 PM 2:30 を回って、小腹が空いた私は、見つけたカフェでガーリックトーストと黒ビールを食した。適当に頼んだビールが黒ビールだったのだ。暗い過去をもつ場所で黒ビールか。

 お腹が満たされた私は、ポーランド最古のユダヤ教会スタラ・シナゴーグに向った。今はユダヤ博物館となっているこのシナゴーグ。
 スタラ・シナゴーグは簡素な造りだ。ユダヤ人の礼拝所というものはすべてこのようなのだろうか。建物の見取り図で、東側の壁が一番古いと表示されていたが、綺麗に改装しているので、その古さは感じられない。展示物や礼拝堂の椅子などには、ユダヤ教のシンボルであるダビデの星(正三角形が上下逆さまに重なった六つの角を持つ星)が刻まれていた。部屋の中央には大きな鳥かごのような礼拝堂。ここで少しイスラエルの平和を祈ってみよう。ユダヤ教徒ではない私が祈ったところで効果があるか分からないけれど。

 少し重くなった心で、私はカジミエージュ地区を後にした。ユダヤ人とユダヤ教、そして迫害、そして今も起こる紛争。ユダヤ教の聖地エルサレムとイスラムの聖地メッカはなぜ同じ場所だったのだろう。それが原因であの場所はずっと平和を手に出来ないでいると思うのだけれど・・・。まだまだ私の知識は足りなくて、今回の紛争の原因も実はまだ良く分からない。帰ったらしっかり調べよう。

 そんな事を考えて歩いていると、道を間違えた。渡りたかった橋より1本離れた橋に着いてしまい、ヴィスワ川にそってまたヴァヴェル城を目指してテクテク。それにしても暑い・・・。朝に買った水も底をついたし、また買わなければ・・・。けれども、欲しいときに限って、店は見つからないもので、また無駄にテクテクと店を探し歩いた。見つけた店で、500mlの水を購入。一気に半分飲み干してしまった。

 そして、向った先にはマンガ館。歩きつかれた私はエントランスの前でやっと座って一休み。もうPM 5:30。ここでしばらく休憩がてらスケッチ。閉館時間のPM 6:00 には数人の人が中から出てきて、私を不思議そうに眺めてる。目が合うと笑顔をくれるので、笑顔で返事。そして、黙々とペンシルを走らせていた。

 PM 7:00 にマンガ館を後にし、ヴィスワ川を挟んでヴァヴェル城の写真を撮った。西日で輝き川面に映る城が揺らめいて、とても美しい写真が取れたと自己満足。



 ホステルに戻ったのは PM 7:30 を過ぎていた。ゆっくりするのも束の間、私は夕食に出た。

 旧市街地に入ったところにある、こじんまりとした店を選んで入ってみた。中には、恐らく韓国からだろう団体旅行者が店の客の70%を占めていて、残りはイングランドかららしき数名のバックパッカー。私は中庭の座席に座り、ウエイトレスの対応を待つ。けれどもなかなか来ない・・・。韓国人たちと同じグループと思われているのだろうか?
 イングランド人のテーブルにケーキが運ばれてきた。韓国人達からのプレゼントらしい。陽気なおばさんが、お礼を言う彼らに手を振っていた。すると、韓国人男性がウエイトレスに何か伝え、それを見ていた私にもチョコレートケーキが振舞われた。お礼を言いたかったが、ケーキが出てきたその時には彼らは店を出て行ってしまった・・・。
 そして、私の注文を取るウエイトレス。たのみたいのはビールとピエロギ。けれど、PM 8:00でキッチンが閉じてしまって、サラダかフライドポテトくらいしか出せないというので、フライドポテトを選択。少し質素な夜ご飯・・・。思いがけずケーキを頂けた事に良しとしておこう。

 PM 8:30 には店が閉店するため、そそくさと退散・・・。

 少し疲れた今晩はホステルでゆっくりしよう。
 同室は昨晩も一緒だった一人旅の女の子。スペインからの彼らは既にチェックアウトしており、今日は二人だけ。イタリアから来た彼女と少しおしゃべり。明日私が訪れる予定にしているヴィエリチカ岩塩採掘場を既に回った彼女に写真やポストカードを見せてもらったり、クラコフから出るバスの乗り場を教えてもらったり。今回の旅で訪れた場所の話を沢山聞かせてくれた。彼女はあまり英語は得意じゃないようだけれど、それでも大体の会話が成立するものだ。そして、8月下旬に私もイタリアに行くと伝えると、「イタリア人は英語が話せない人が多いから、旅をするのは大変だよ」と教えてくれた。まぁ、なんとかなるだろう。アリシェやカミラがいるだろうし・・・。
 そんな風に旅の出会いを楽しみながら夜は更けて行った。


今日歩いた街

EASY JET で KRAKOW へ

2006-07-26 | ポーランド旅行(7/26~)
 昨晩は、ほとんど眠れず、PM 9:00 に起床。結局3時間しか睡眠が取れなかった・・・。まるで、遠足前の小学生のようだ・・・。
 旅の準備と部屋の片付けが意外にも早く済んだため、トイレ掃除までしてPM 11:15 に家を出た。今日は普段利用するテーゲル空港ではなく、ショーネフェルド空港だ。

 PM 12:10 空港駅に到着。ショーネフェルド空港は結構新しい空港で、簡素だけれども広い。表示の示すままに進むと、オレンジで統一された出発ロビーに到着。荷物預かりカウンターでチェックイン。意外にも、パスポートの提示だけで予約が確認された。そして、小さな紙切れが搭乗券の代わり。セキュリティーゲートをくぐり、搭乗口に向う。少し時間があったので、小さな免税店を覗いてみたが、ユーロ高のせいか割安感が無い・・・。まぁ、買い物に行くわけでは無いので良いのだが・・・。
 搭乗口から見えたEASY JETの機体はとても可愛く、ついつい声を上げてしまい、近くに座っていた女性に笑われてしまった・・・。そして待つ事40分。やっと搭乗開始だ。


 タラップを上り、空いている窓際の席に陣取った。EASY JETは座席指定をしない為、早い者勝ちで好きな席に座れるのだ。私は羽より後方の席に座り、飛行中の風景をゆっくり楽しむつもりでいた。座席はいたってシンプルで、オーディオなどのサービスは一切無し。座席スペースも私には十分だが、少し身体の大きな人なら大変だろう。幸い、スリムな男性が隣りだったのだが、私は彼が来るまで大きなおじさんが座らないようにと願っていた。
 そして、滑走路を移動している最中、寝てなかった為か早速眠りに落ちてしまい、離陸の瞬間を見逃した・・・。ベルリンの街を見下ろす事ができず、少し残念だ。帰りこそは見逃さないようにしよう。
 飛行中の殆んどの時間をまたもや睡眠に費やしてしまい、風景を楽しむ時間は無かった・・・。途中、エアポケットに入ったのか、機体が急降下し、後ろからの悲鳴で目が覚めた。これ位の降下なら動じない自分に感心だ。
 ドリンクサービスもまわって来たのだが、有料だった。運賃に見合ったサービスなので、文句は無い。2時間の空の旅なら問題ない。無事に着いてさえくれれば、それで十分なのだ。

 そしてとうとうPM 3:00 Krakowに到着。空港で、取りあえずのお金として、50ユーロをポーランドの通貨であるゾルティーに両替する。手に入ったのは181ゾルティー。手数料もあったが、大体1ユーロ3.6ゾルティーと考えると良いようだ。市内の銀行ならばもっと良いレートで両替できるだろうけど・・・。

 そして、その両替所で2人組の日本人女性に出会った。一人は私と同じくワーキングホリデーでベルリンに住んでおり、もう一人はドイツの大学を目指して、既に2年ベルリンに住んでいるという。彼女達と共に、日本語を話すメキシコ人に行き方を教えてもらいながら、Krakowの中央駅に向かった。彼女達の滞在するホステルも私の滞在するホステルと近く、駅から徒歩10分弱の良い立地にあった。そして、チェックインを済ませてから、一緒に夕食を食べに行く約束をした。
 今日から3泊するホステルはSKY HOSTELだ。先に宿泊料を支払うのだが、JCBカードが使えると分かり、すかさずJCBカードで支払った。ベルリンでは殆んどのホステルはカード払いが出来ないのだが、Krakowは凄い・・・。VISAやMaster Cardならまだしも、JCBが使えるとは思っても見なかった。
 そして、部屋に荷物を置き、ベッドメイクをして出発だ。因みに今日の同室の旅人は一人旅の女性1名と、バルセロナからやってきた男性3名と女性1名のグループだ。

 PM 5:30、約束どおりに待ち合わせ、ユネスコの世界遺産に登録されている旧市街地を散策がてら手ごろなレストランを探す。途中、ドラッグストアーで歯磨き粉を購入。家にあるそれが無くなりつつあったので、物価の安いポーランドで買おうと決めて持って来なかったのだ。やはり、安い。ポーランドもバーゲンシーズンのようで、そこらじゅうのお店が50%引きや70%引きのポスターを掲げていた。私達もついつい店に入って物色。物欲を抑えるのに必死だ。

 そして、歩き方に乗っていた大衆食堂のような店で夕食を取る事にした。彼女達が頼んだのは、ポーランド風トンカツ、ピエロギ、私はミートボールのクリームソース煮だ。少しずつ交換して、それぞれの料理を試したが、その中では、トンカツが一番美味しかった。ピエロギはポーランド風水餃子で、ピロシキを揚げずに茹でた感じだ。これも結構美味しかった。ミートボールは少ししょっぱかったけれど・・・。
 食事を堪能した私達だが、唯一この店で不満だったのはビールを置いていなかった事だ。そして、ビールを求めてマーケットスクエアのオープンエアーのカフェへ。観光客用の馬車が走るのを眺めながら、ポーランドのビール。幸せだなぁ。観光している気分一杯だ。突如、声を張り上げて行進する一団が現れた。赤いベレー帽に黄色い猛獣柄の旗のような物を肩からかけている。そして、像の前で腕立て伏せをしていた。軍隊だろうか?
 その赤いベレー帽の男性達がその訓練を終え、私達の隣の席でビールを飲みだし、枯れ枯れの声で、私達に声をかけて来た。あいにく、英語もドイツ語も少ししか通じなかったのだけれども、なんとか意思の疎通を図り、彼らが軍の学校を終え、これから9ヶ月派兵されるという事を教えてもらった。もしかすると、少し違っているかもしれないが・・・。そして、彼の汗臭いTシャツに私達の名前を書いて、彼の終了式を祝った。名前は漢字で書いて欲しいとの依頼だった。そして、彼の名前も漢字で当ててプレゼント。彼の名前はヤノシュ。シュは守が良いとすぐに思いついたが、他は何が良いだろう。私達は相談して、結局『矢野守』と与えた。軍人としての彼に、良い名前を当てたと思うのだけれど、「やの まもる」と言う男性が日本で本当にいそうだと、その字を見て笑った。

 そして、PM 9:30 ドイツより少し日が短いクラクフは既に夕暮れを終えていた。私達も、重い荷物での移動と、初めての街の散策に疲れ、ホステルに戻った。

 随分と疲れていたのだけれど、私の興奮はまだ冷めず、ホステル近くのマーケットでビールを買って、一人で晩酌。500mlのビールが3.30ゾルティー。日本円で約130円だ。ポーランド、素敵な国だ。