公共曲 & 狂騒曲

一度も練習を休まなかったオーケストラの演奏者は、本番に欠席した。 そんな笑えるような笑えぬような不定期ブログ。

第四話 田園調布

2006-03-16 15:19:36 | Weblog
第四話 元祖ハイソ・田園調布 3月16日(木)

「田園調布に家が建つ」
往年の漫才コンビ、星セント・ルイスの代表ネタだ。
同じ東京でも、田園地帯に住んでいる私にとって、
やはりこの街は、異次元のような印象を受ける。

成城、白金、田園調布。
「三大ハイソ」(私が勝手に思う)の一つ、田園調布を訪れた。

田園調布駅。駅は地下化されたが、由緒あるこの駅舎は、復元され残された。

駅前の道を、とりあえずまっすぐ行く。
何度か来たことはあるが、いつ来ても思うことは、
「人が歩いてない・・」である。
いや、文字通りネコの子一匹いないというべきか・・。
フツウに歩いているのに、妙に落ち着かない。

ともかく、ここは超有名人の住む街だ。
長嶋茂雄、野村楽天監督、五木ひろし、中内功(ダイエー会長)、鳩山由紀夫、中井喜一・・。
本人が常時いるかいないかは別として、まさに「日本の顔」のスターが集まる。
(長嶋邸)

駅から西への放射線と、半円弧を描く町並は、
大正14年、英国人都市計画家、エビニーザー・ハワードの提唱により、
明治の財界人・渋沢栄一とその息子・秀雄の二代に渡って開発された。
「田園都市とは、自然を多分に取り入れた都会のことであって、
農村と都会とを折衷したような田園趣味の豊かな街をいうのである」
というコンセプトだった。

よくわからないが、とにかくその豊かな街を歩く。
ここを歩くと、自然に背筋がまっすぐ伸びる。(ハイソですから・・)
この日はおだやかな春の陽気。ネコくらい、いそうだと思ったがいなかった。
代わりに、下校途中の小学生に会ったが、この子たちの暮らしっていったい・・(ウラヤマシ)

どの家も、不審者対策は万全なのだろう。分厚い塀や門扉、鎖。
当然ながら、「セコム」も万全。さすが長嶋さんの街。
「セコム、してますか?」

しかし、だ。
歩いている人はいない。
家のセキュリティは万全でも、歩いている子供達に何か起きたら、
誰がとっさに助けるのか。目撃者さえいない街。

そんな、ごく自然な?不安を抱いていたら、
後ろからスーッとパトカーが近づいてくる。
(もしや職質されるかも・・。何と答えよう。ブログのネタ探しに歩いてます、で信用してもらえるのか。
それとも、道に迷ったと答えるか。いや、田園の空気を吸いに来た、とでも答えておこうか・・)

なぜ、フツウに歩道を歩いている善良な一市民の私が、
こんなに怯えてしまうのか。なんだこの街は・・。
 と思ったらパトカーは私を追い越し、
「門の前に車を停めている運転手さん、移動して下さい!」とスピーカーから叫ぶ。
違法駐車に、住民から110番でもあったのだろう。
さりげなく警察を呼ぶなんて、さすがハイソ田園都市!

もはや、場違いな街の中で、思考回路を失ってしまった私。

駅前に戻る。人を見てホッとする。
駅前は、いろんなおしゃれな店が増えた。
以前来たときは、何もなかったものだ。
女優・中井貴恵が、昔「笑っていいとも」で、
「田園調布ってなーんにもなくて、つい最近サーティワンができたんですよ」
と言っていた。どんな田舎駅前でも、コンビニやマックがあるような時代にだ。

結局のところ、セブンイレブンのおにぎりなんぞ食べる住民ではない、ということか。
んー、すごいぞ田園調布。

しかし近年、この街にも「屈辱」が訪れた。
東急東横線に、特急が新設された時、田園調布は通過となった。
乗降客が少ないのと、隣駅の自由が丘に停まるためだ。
東急の「顔」だった駅も、数字の現実の前には勝てなかった。

映画「探偵物語」で、薬師丸ひろ子が電車に飛び乗るシーンが撮影された駅。
その駅から、私は渋谷行の電車に飛び乗る。
まだ、姿勢はまっすぐのままだった。

参考 田園調布地域密着サイト
    田園調布ガイド
 
      結局逃げ帰ってきた、ハイソに無縁な私

第三話 金八先生

2006-03-09 16:47:12 | Weblog
第三話 3年B組 金八先生 3月9日(木)

♪暮れ~なず~むまちの~ ひか~りとかげの~なか・・

昭和50年代、TVで超人気ドラマとなった、「3年B組 金八先生」
武田鉄也演じる、桜中学3年B組・坂本金八先生と生徒の物語。
その後、岸田智史、さとう宗幸らが演じる続編もあったが、
やはり、「金八先生」の人気は根強かった。
20年以上経った今も、新番組になるなど長寿番組となっている。

この舞台となった、東武伊勢崎線堀切駅。
この番組が人気だった頃、この地を訪れた。
堀切駅のベンチは、「マッチ大好き」などの落書きだらけだった。
ロケを見たことはなかったが、
大勢のファンが取り巻いていたのだろう。

で、先日久しぶりにここを訪れてみた。
前回のタマちゃんも荒川だったが、ここはもっと下流の、東京都足立区。
どうも、イナバウアー静香様の感動から、荒川つながりにこだわっている。

・・というのはウソで、タマちゃんも今回も全くの気まぐれで、偶然ネタにしようと思ったものだ。


駅前の土手は、昔はもっと広かったのだが、
舗装されて、面影をなくしている。
しかし、京成線の鉄橋から上流に行くと・・、

はい、ここは昔と変わらないままだ。
ここを金八先生が歩いたり、マッチやトシちゃんがケンカしたり(・・したっけ?)
今は勝ち組と負け犬を行ったり来たりの、杉田かおるが歩いたのだ。

厳密に、ヒジョーに冷めた目で見れば、
この地区の子が、通学路として、この土手を歩くような事はあり得ない。
帰りの道草ならともかく、朝も登校の生徒が歩くシーンはあるが、
こんな土手歩いたら遠回りだ。遅刻してしまう。

ともあれ、金八先生はいいドラマだった。
当時のスタッフが、「ドラマの中で、やりたい事はやってきました」と、
満足そうに語っていたが、たしかにそんなシーン満載だった。

冒頭の、「贈る言葉」は永遠の青春メロディだが、
私は、この二作目の主題歌・「人として」の、それも二番の歌詞が好きだ。
 ♪私は 大地に影おとし 歩く 人なんだ・・
  

世の中も中学生も、そして教師も、四半世紀の間にずいぶん変わってしまった。
でも、「中学生」という甘ずっぱーい思い出は忘れずにいたい。
もう、私も中学生の子供の親だものな。

もう、陽が暮れ始めた。いつまでもノスタルジックに浸るのはやめよう。
さあ、カラスもなくから帰るとするか・・。

  おっと、これでは江戸川の「寅さん」だ。

  
参考 「金八先生マニアックス」 「金八通」 
    「桜中学を残そう」(撮影モデル校・足立二中の存続と金八記念館推進委員会HP)

          贈る言葉も忘れ、いそいそと卒業した私

第二話 タマちゃん

2006-03-02 09:50:48 | Weblog
第二話 タマちゃんラプソディー 3月2日(木)


「タマちゃん」。
まだ記憶に新しい、アイドルのアザラシである。
日本中・・と言いたいが、実際には首都圏のアイドルだった気がする。

2002年8月、多摩川・丸子橋付近に現れたアゴヒゲアザラシ。
「タマちゃん」と呼ばれ、しばらくは多摩川の人気者になった。
しかしその後、神奈川の河川を転々としたあと、
最後は荒川の、埼玉・秋ヶ瀬橋付近に居座り、
2004年4月を最後に、人々の前から姿を消した。

秋ヶ瀬橋は、私の家から車で30分ほどだ。
この、タマちゃんが居つく前から、犬を連れて遊びに行った場所である。
タマちゃんフィーバーの時も行ったが、
「タマちゃん焼き」なる露店や、グッズ販売の店まであり、
いつも静かな秋ヶ瀬公園は、時ならぬ賑わいを見せていた。

あれから2年。                             
久しぶりに現地を訪れたが、
見物客が座って眺めていた土手は、丈の長い草が生い繁り、
まったく面影はなかった。
というより、元の河原に戻ったのである。

タマちゃんが寝そべっていた、係留中の船は今も同じ場所にある
結局、誰もタマちゃんに触れた人間はいなかったが、
この船だけは、毎日タマちゃんを乗せていた「生き証人」だ。

鉄橋は、JR武蔵野線の荒川鉄橋。
JR在来線の鉄橋としては、日本一の長さを誇る。
その下に、一年間寝ぐらを求めたタマちゃんもまた、
日本一有名なアザラシになった。

多摩川近辺の学校では、これを機会に川の汚染などを学習するようになったし、
タマちゃんファン同士の、サークルも出来たようだ。
もぐってどこかへ行ってしまったタマちゃんだが、
残した水の輪は、今でも各地に広がっている。

写真はこちらで詳しく紹介されている タマちゃんギャラリー

多摩地区に生まれ育ち、妙にタマちゃんに親近感を覚えた私。



第一話 カップラーメン

2006-02-24 10:18:42 | Weblog
2月からブログ「シャープ&ふらっと」を開始した。
新聞や雑誌のコラムのような、ちょっとお堅い感じの文章に憧れ、毎日せっせと書いてみたが・・。
いろいろな人のブログを見て、「もっとお気楽に、ダラダラと、楽しいもの」も、書いてみようかなと思った。

そこで、本日より「裏ブログ」として、もう一つの話を綴っていこうと思う。
こちらは不定期、話題もいろいろ。
どっちが本当の自分なのか・・。綴っていくうちにわかるだろう。
自分再発見の旅・・ はじまりはじまり。


 第一話 カップラーメン 2月24日(金)

やはり、最初の話題は、庶民の味方「カップラーメン」。
本ブログでは思い出のラブレター、日記ではモーツァルトの話で始まったというのに、こちらは、インスタントでスタートする。 
では、お湯を入れてジーッと・・。


初めてカップラーメンが発売されたのは、日清「カップヌードル」
1971年9月。
私は、この発売時に、買って食べたという古い人間である。              

当時小2だったが、店頭に山積みされたコップ型の容器を見て、
最初、お菓子の缶詰だと思った。
一つ買って、家に帰って、
あけてびっくり玉手箱(←ありふれた表現)。
中身はラーメンだった。

とにかくお湯を入れて、食べてみたが、「うまい!」
薬くさいような味だが、なかなかイケる味だった(←これは死語)。

その後、ニッポンはカップ麺大国になった。
近年は、有名ラーメン店のカップ麺も多い。
宣伝効果はあるのだろうが、店のプライドはあるのか。

子供達は、「チキンラーメン」が大好き。
  ♪すぐおいしい~、すごくおいしい~         

私は「一平ちゃん」が好きである。
  ♪いっぺん食べたらやめられな~い

明日は何を食べよう。「行列のできる○歌山ラーメン」にしようか。
それとも、「仙○辛味噌ラーメン」にしようか。
んー、なんと日本全国グルメ旅なんだろうか。


三分間、待つのだぞ。    ・・って、これは「ボンカレー」か。

           一分半でフタをあけてしまうせっかちな私。