断想さまざま

研究者(哲学)の日々の断想

ボンクラーズと米長邦雄(2)

2012-02-25 | エッセイ
 さて、ボンクラーズと米長氏の対戦の後、ある新聞のコラムにこんな内容の記事があった。「たしかにコンピューターは強かった。だが、観ている人間を感動させるような手は一手もなかったではないか。」ここで「感動させる」を「創造的な」という語で言い換えてもいいだろう。するとこの記事は、コンピューターは機械的な計算では強いかもしれぬが、創造性においては人間に劣るという、常識的な見解を代弁していることが分かる。だが、そもそも「創造的」とはどういうことなのだろうか。
 普通に考えれば「創造的」とは、「誰も考えつかなかったような新しいものを創りだすこと」である。しかし将棋は(その数がどんなに多いにしても)有限な手順の内部で戦われている。創造という言葉には、無から有を産み出すというニュアンスが含まれているが、有限なものの内部にありながら、無から有を産み出すというのは、語義矛盾であろう。にもかかわらず私たちは、卓越した発想の一手に「創造的なもの」を感じるのである。これはどうしたことなのか。
 将棋というゲームのコードを、「ルール」という意味でとらえるならば、たしかに全ての手はコードの内部に置かれている。この場合「新しい手」は、客観的にはどこにも存在しないということになる。(すなわち「創造」は原理的に不可能である。)しかし将棋にはもう一つ、別のレベルでのコードが存在する。「定跡」(ないしは広い意味で常識的な指し手というべきもの)である。たとえば将棋では初手は7六歩か2六歩がふつうで、常識的にはこれが一番有利と考えられているが、ルール上可能な指し手はほかにもたくさんあるのである。鬼手といわれるような手が「創造的」なのは、後者の意味でのコード、つまり習慣的な思考方法を突き崩すものだからである。客観的にはそれは、有限のオプションの内部で(つまりルールというコードの内側で)指されたものに過ぎないから、「無から有を」産み出すものとはいえず、「新しい」とは言えないが、主観的には、既存の常識的考えを逸脱する発想という点で「新しい」と感じられるわけである。




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