私の思いと技術的覚え書き

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狩野川放水路のこと

2018-08-24 | 沼津そして伊豆周辺
 沼津の住民で狩野川放水路を知らぬ者はいないだろうと思っている。これのおかげで、放水路下流の沼津市街地は、放水路開発以前に度々起きて来た水害の被害から100%ではないものの概ね逃れて来たことは、狩野川放水路完成(1965年)以来50年余の歴史が証明しているだろう。

 さて、狩野川流域での水害は、1958年(昭和33年)に生じた通称狩野川台風により大災害を生じている。この災害は、放水路よりさらに上流となる修善寺・熊坂地区の被害が甚大で死者も沢山生じたのだが、下流の函南町や沼津市街地でも、それなりの水害を引き起こした。そして、実はこの大災害の以前、1951年(昭和26年)には、狩野川放水路の建設は着工していたが、未完成であったということだ。さらに、この狩野川台風の大災害を受けて、着工中の放水路は、従来設計の分流水量を、1000㎥から倍の2000㎥に増加させたという。具体的には、放水路床面を2m掘り下げ、導水トンネル断面を広げ2本から3本に増加させたという。そういう訳で、狩野川放水路は1965年(昭和40年)7月に竣工した。総費用は700億と記されているが、現在費用だとその10倍以上だろう。

以下に写真の順序に従って若干の解説を付してみたい。

①放水路の導入口方向より眺める。この場所は、狩野川が約90度カーブしており、放流口の口野に最も近い位置になる。正面堤の上に放水路管理所がある。

②放水路管理所外観。見ていないが、ここの2階に放水路導入水門の操作制御板がある様だ。屋上には放水路開門中に警告するサイレンと、たぶん沼津市街とを通信するマイクロウェーブの電波塔がある。ちなみに、このマイクロウェーブ(極短波)だが、沼津市街とは直線で視認できないため、近くの大男山中腹にある反射板とたぶんその反対側に存する反射板で反射させて通信しているのだろうと想像する。なお、電波塔下に放水路資料館があり、関係資料等が陳列されているので関心ある方は一度覗いてみるのも一興かと思う。

③放水路流入口の固定関。この高さまで狩野川水位が上がると、放水路側に水は流れる。

④放水路可動関。この関を開け閉めして、全体の放流量を調整する様だ。

⑤大雨で増水した際の放水路への分流時の様子。パンフレットより転載した。

⑥放水路流入口の端上より下流方向を眺める。未放流時は、この通り干上がった状態だ。奥の方に導水トンネルの一部が見える。なお、右側の山が大男山というらしいが、中腹に看板みたいなマイクロウェーブ用の無地の反射板が見える。

⑦下流の導水用3連トンネルを見る。この3連トンネルは、もっと下流の口野放水口にもある。

⑧放水路工事中の写真(パンフレットより転載)。当初のトンネルは2連だったことが判る。

⑨工事中の写真(資料館の掲示写真より転載)結構大きな土木工事で、元請けは大手ゼネコンだろうけど、地域の土建会社も潤ったのではないだろうか。口野側の放流口には、かような巨大ケーソンが埋め込まれた様だ。長年の浸食対策上だろう。

⑩口野側の山上から、下流および上流方向の放水路ができる以前と以後の写真で、今回最も関心を持って眺めた写真だ。(資料館の掲示写真より転載)この放水路できる以前の口野付近の写真を見ると、結構人家があったことが判るし、それなりに漁港みたいになっていたことが判る。

以上です。












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