中年のぼやき

独身の中年男のぼやきをカキコいたしやす!ワインとゴルフが中心かな?

三華会・・・・@B・エポック

2011年07月21日 07時42分26秒 | Weblog

昨夜は定例ワイン会でした・・・・

 

今回は白ワイン特集

アリゴテ、シャルドネ、ゲブルツラミネート、ソービニヨンブラン、サバニャン、南仏の混合と楽しみました・・・・

 

料理もYシェフが頑張ってくれました!!

 

イギスアラのタルタル、ガスパッチョ仕立て・・・・夏らしい綺麗な赤が食欲をそそります。Yシェフのガスパッチョは旨い!!

 

これも、夏らしい鮎のコンフィ・・・・

 

極め付きが、この、フロマージュ・ド・テッド ラヴィゴッドソース・・・・豚の頭、耳、豚足などが煮込んであってゼラチンで固めたテリーヌ?・・・・で、表面が焼いてあってパリパリ・・・旨すぎ・・・

 

素晴らしい夜でした。

 

 

このブログの講師たる轍さまのコメントが嬉しい毎日です。・・・・・知らしめたい・・・な!

また、武田邦彦氏の考えも真っ当な考えだと思っています。

http://takedanet.com/2011/07/post_078a.html

 

 

もうひとつ・・・心配事が・・・生保会社にかなり、お金を預けている(退職金制度など)けど、大丈夫かなあ??・・・大前氏が、国債を買いすぎている生保会社に警告を出しています・・・

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110718/277952/?ST=business&P=1


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5 コメント

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ニッポンジンは生来寛容なのである!① ()
2011-07-22 07:25:25
武田さんについては、田中さんと同様、実は非常に突っ込みどころが多いものですから、あえて避けておりました。
今回のエントリーについても、最初のほうから書き出してみましたら、新書本3冊分程度になりそうな勢いでございました(笑)。
ここでは、それをグッと抑えて、総論的なところで対抗言論を展開してみたいと存じます。

>なにが真実だとしても、このようなひどいニュースが流れるだけで気が滅入ります。
>なんでもっと明るく開けた社会を作りたいと思わないのでしょうか?

★科学者の端くれ、イヤ高名な科学者の武田さんがどうしてこのような疑問を呈されるのか、よく分からない、イヤ本当は後知恵として轍にはよぉ~~~く分かるのです。

なぜ人は自分のことはともかく他人や環境に対して至って合理性を期待するのか・・・偏に人は誰しも、合理的に言動するのではなく、感情の摺り合わせの結果として言動しているからでございます。
上記のような武田さんの気の滅入りもいらだちも、轍のコ、コ、この制御不能の指先も(笑)、自らが誰よりも合理的な判断ができる、その合理的な判断を他人や環境に理解させることができる、というOver Confidence(自信過剰)とBelief(思い込み)という全く合理性に適わない情動が心のコアに存在するからであります。
この自信過剰と思い込みという心理バイアスを大同小異誰しもが有しているのですが・・・このような不都合なテーゼからは理屈では分かっていても誰しも目を背けたくなるものです・・・轍も然りでございます。。。

そうであるならば、「社会」の形式的な意味が、(企業などの法人を含めた)人の集まり、だというならば、その実質的な意味は、「魑魅魍魎とした人の感情の坩堝(るつぼ)」だといえます。
その意味する帰結は何なのか・・・それは、「人や社会は、隘路(あいろ)に遭遇しない限り、変わることはできない」ということです。
誰もが一方向へ目線を据えざるをえないほど、このままではもうダメだ。。。と実感するような苦難に遭遇しなければ、人も社会も変革の機会を得ない、ということであります。
隘路(あいろ)とは、旧来のやり方では到底打開できない苦難な道、のことでありますが、このような道に遭遇しているはずの我が国の現状は、まさに我々が新しい時代に見合う変革の絶好の機会であるはずです。
そうであるにもかかわらず、それを遅々として進ませないのは・・・ギリシャなどのユーロ圏PIIGS5カ国に見られるように・・・人の「変わりたくない」エゴであります。
その根底には、「変わらなくてもどうにかなるさ。今までも大丈夫だったじゃん!」「アメリカやドイツやフランスの政治家やマスコミが情報操作して我々を陥れている。諸悪の根源はこいつだ!!!」などといった自信過剰や思い込むが潜んでいるわけです。

繰り返しますが、近年我が国が少子化傾向に突入したのは、1975年であります。
世代間の人口を維持することのできる「人口置換水準」には、一女性が生涯に出産する子どもの平均数である「合計特殊出生率」が2.07ほど必要であります。
大まかに申せば、それよりも大きければ人口が増加し、それよりも小さければ人口は減少する筋合いであります。
70年代初頭のそれは2.14と以後人口増加する見込みがありました・・・が、1975年にいきなり2.0を下回り、その後も低下傾向となります・・・1974年がどうも気になるのでございます・・・この年に何があったのでしょうか?
答えはこれです→→→「日本人口の動向―静止人口をめざして」(1974年)日本人口の動向―静止人口をめざして (1974年)人口問題審議会(著)http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E3%81%AE%E5%8B%95%E5%90%91%E2%80%95%E9%9D%99%E6%AD%A2%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%96%E3%81%97%E3%81%A6-1974%E5%B9%B4-%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%AF%A9%E8%AD%B0%E4%BC%9A/dp/B000J9P9SA/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1311214543&sr=1-1
講学上出生率低下の原因はいろいろ言説されるわけですが、我が国の少子化傾向の契機を作ったのは、実は我が国の政府であった、そして、この「人口白書」を受けてマスメディアがいわば「静止人口」政策ともいうべき政策を実現させるべく我が国の抱える人口問題を大きく報道したため、国民の間に「このまま人口が増えれば、エネルギー、食糧、そして雇用が枯渇してしまう」との恐怖に伴う危機意識が定着してしまった・・・このバイアスによって国民の間で子どもを産まないことを美徳とする「空気」が醸し出された・・・これが我が国を現在人口減少社会に陥らせた始まりの始まりでございます。

繰り返しますが、人口が増加しパイが自ずと拡大する時代に装置された制度は、今や疲労し使い物にならない状態になりつつあります。
なぜならば、人口が減少し始め自ずとパイが縮小する時代に突入したからです。
そのような時代にいずれはなることは予見しえたこと、なのになぜ事前に国を挙げてもっと早く制度改革などの手を打つことができなかったのか・・・それは、マインドが変わらないからです。
理屈では誰でも理解できることでも、誰もが有するマインドである自信過剰と思い込みが実行に移すことを許さない。
「まだまだどうにかなるさ」「いつでもできることから・・・」などと誰もがやり過ごしてきたのが、この約40年間であります。
このように、一旦植えつけられ定着した恐怖や危機意識といった「思い込み」は、なかなか自らあえて払拭することはできないものなのです(これって昨日のエントリーとリンクします。)。
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ニッポンジンは生来寛容なのである!② ()
2011-07-22 07:26:14
武田さん曰く、
>自由で明るい社会というのはどういうものでしょうか?
>私は 
>1) 誰もが意見や思想を持っていて、どれが正しいとか間違っているとかは本人の自由である、
>2) それを自由に表現したり、研究したりすることができる、
>3) お互いに意見に違いがあることを認める、
>4) もし「制服向上委員会」の活動がイヤだったら、その活動を見に行かなければ良い、
>5) 他人に極端な迷惑をかけないのなら、その人の自由である、
>ということと思う。
と・・・要するに、武田さんがおっしゃりたい「明るく開けた社会」「自由で明るい社会」とは、文字通り「寛容」性に富んだ社会、ということでしょう。

誰しもが明るく開けた社会、要するに「寛容」な社会を構築すべきだということは理屈では誰もがよぉ~~~~く分かっている。
しかしながら、轍は、「寛容」な社会が必ずしも武田さんのおっしゃるような「自由や人権を所与として」もたらされるものというわけではない、と思っておりましてぇ・・・。

それを屁理屈で申せば・・・、
社会がそもそも主観的で非合理的な人や企業の集合体である以上、社会は寛容性を例外視する。
したがって、社会はそもそも予断、偏見、そして差別を内在するものなのであり、これらは決して外からの圧力(明治期以降我が国がなした西洋文明のキャッチ・アップ、自由や人権などの観念輸入など)でなくなるものではないのである。
無理にこれを失くそうと苦心したところで、往々にして失くそうとする特定の人や集団のエゴが必ず顕在し、逆予断、逆偏見、逆差別の形でそのエゴが既得権益化したりする。
これも主観で動かざるをえない「人」が構成する社会であるが故である。
そうであるから、寛容な社会とは所詮ユートピアなのだ。
そうであるならば、寛容性などないのだということを所与として人は相互に生きていかざるをえない。
だからこそ、人は感情的には許せなくてもあえて許してあう社会を切望するのである・・・との「現実的な諦観としての寛容な社会像」が轍の中に生まれるのでございます。

武田さんは、
>第2次世界大戦に参戦した日本は310万人という膨大な数の犠牲を出し、それまでの日本社会の未熟さを反省して、「表現の自由、学問の自由」など、政府や社会の権力に対して自由に活動できる基本的人権を獲得したのです。
>それは、戦後の明るい社会をもたらしました。
と、あたかも西洋流の自由や人権を享受することによって、我が国は寛容な社会を志向したかのようなおっしゃりようなのですが・・・本当に自由や人権の享受が寛容な社会を誘因するのでしょうか?

轍は、自由も人権もそんな概念のなかった明治時代以前の我が国ほどの寛容な国はなかったと思っております。

高校のとき古典の授業で読んだ「平家物語」や「源氏物語」に登場してくる人物が誰も彼もが、とんでもないド変態なわけです(笑)。
仮に現代で同じ内容の小説や漫画でも書いて出版でもしようものならば、必ず東京都が「不健全」図書に指定するはずであります。
そして、古くは平安時代から伝承した江戸時代の「春画」のとてつもない露骨かつえげつなさといったら筆舌に尽くし難く、当時の西洋人が輸出を禁じたほどであります。
ド変態でも何でもなんでも許してしまう文化・・・それが我が国固有の寛容さであります。
かと思えば、中世以来移ろいゆくものに対して「無常観」を感じるという日本人固有の美意識を示します。
また、万葉以来「わびさび(侘寂)」といった究極の諦めの文化さえ誕生させてしまう・・・諦めというと文字通りの諦めではなく、最小限の資源の中に究極の美を見出そうとする姿勢でございます。
かと思えば、江戸時代同時期に我が国の庶民ほど識字率が高い国家は世界にはありませんでした。
教育を受ける自由や学問の自由の概念のない時代です。
国民あまねく一律に教育を行き渡らせることを使命とする文科省や日教組(笑)などありません。
西洋的な封建社会でいうと、抑圧され閉ざされたイメージで庶民が読み書きを学ぶことなど想像できませんが、我が国ではそんなイメージとは真逆の奇跡的な文化が江戸時代まで栄えたのです。
そんな文化的な素地にあっては世界に目を向ける若者が出現するのも偶然ではなく、結果彼らが我が国固有の文化的な側面を18世紀以降勃興する西洋の近代「合理」主義を輸入することで殺いでしまっていったのは、これまた皮肉なことでして。。。

このように例を挙げ始めたら限がありませんが、いずれにしても、自由や人権の概念が全く存在しない時代、明治時代以前の日本には、世界的に稀有なとてつもなく寛容な文化、社会が栄えていたのは事実です。
自由や人権といった概念を人があえて設定でもしなければ寛容さを説明できない西洋とは異なり、我が国固有の寛容さは、まさにそのような概念設定がなかったからこそ花開いた自発的なマインドなのだと思います。
西洋では、いわば何でも定義付けすることから始まります。
神の存在を西洋では一神的に観念することに由来するともいわれます。
我が国では多神的に捉えることが、まさに寛容さを生む要因なのかもしれません。
神とは何かと問われても、一義的に捉えることができません、というよりも、捉える必要がありません。
ものごとを一義的に捉え、一概念として確定すると、ひとつの「枠」ができ、その枠からは逃れることができなくなります。
まさにその逃亡の感覚が、「自由」の概念の始まりともいえそうです。
我が国にはそんな概念設定をしなくとも、そもそも「枠」がないのですから、西洋的に申せば、我が国は生来「自由」なのです。
何を信じても何をしても怒られない・・・「踏み絵」とはあるじゃん!・・・確かにこのような不幸な歴史的な事実はあるのですが、裏を返せば、万葉の時代以来我が国では外部からの異質の文化が輸入される度にトライ&エラーを繰り返しながら我が国固有の文化として定着させてきた歴史があった、輸入当初の拒否反応は我が国固有の多神的に秩序を維持するための自発的になされた必要悪だった、との見方もできるわけでございます。

18世紀以降醸成した西洋の「合理」主義は、古代ギリシャから延々と伝承される「枠」の文化でございます。
自然の猛威よりも他民族他宗教間との争いのほうが過酷かつ絶えない社会にあっては、内外で弱きものに対する過大な制約がございました。
人は誰でも何でもなしうることができること―自由―への憧れは凄まじかったことでしょう。
制約する人の先天的な有限性の中に人工的に自由や人権の概念を強いて設定することが、西洋の近代史のすべてだったといっても過言ではない。

これに対し、万葉以来の我が国固有の「寛容」の文化は、四季折々の自然豊かな・・・これは嘘でございます!
我々日本人は激しく変化する自然の猛威に苦心しながら「飢えて」ここまでやって来ました(日本人が西洋人に比して腸が長かったり、脂肪を蓄えやすかったりするのは、その名残だといわれております・・・。)。
内外の人間間の争いよりも過酷な戦いの相手は、「自然」でございました。
変幻自在の自然の前では我々人は全く無力であることを、日本人は遺伝子レベルで理解している・・・時折見せる自然の寛容さを人の営みに援用しながらもそれでもなお人の対自然に対する無力感を払拭することができないことをも甘受するという諦観が見事だと思います(自然には絶対に敵わないのだから、庶民の住まいは自然に逆らわない諦観に満ちた造りでございました・・・)。

このような西洋の無限に憧れる有限性、我が国固有の無限性といったことに鑑みると、本来ならば経済のグローバル化についても今回の大震災についても我々日本人はもっとうまく「付き合う」ことができるはずなのですが・・・どうも我々は西洋の近代合理性に毒されてしまったせいか、どうにもこうにもなんともし難い感であります。

具体的な政策として、IT化が拍車をかけるグローバル化という事実の前で我が国が本来あるべき寛容さを取り戻すために必要なのは、実は江戸時代以前の我が国は上手に世界の文化を受け入れながら我が国固有の文化を醸成していたのだから、現代でも思い切って人、モノなどのすべての流動性を高度化すべく「TPP」へ積極参加することだと思いますが・・・西洋の近代合理性に最も毒された既得権益者らの抵抗が激しいわけでございます。
当然賛否両論ありますが、TPPによって既存の「枠」ともいうべき既得権を解除させるという意味で、TPP参加は、我が国固有の寛容さを取り戻しかつ試される絶好かつ最後の最後のさ い ご の機会なのだと思うのでございます。
震災復興策も、国の中央でああたらこうたら言ってないで、本来被災地域の被災者の方々に任せておけばよい。
そうすれば彼らがこれからの時代にあって子孫のためにこの地域がどうあるべきなのか、そのためにどうすべきなのか自発的に感じることでしょう・・・。

我々ニッポンジンは、寛容な社会を目指すのではなく、本来内に感じるべきなのです!
本来ニッポンジンは何があろうが大丈夫なんです!大丈夫なんです!だいじょ・・・なにやら朝っぱらから轍の非合理性が爆発しております。。。
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困難は分解して考えてみましょう! ()
2011-07-22 07:26:53
大前さんのご見識に轍如きが物申すことなど畏れ多くこれっぽっちもあるはずもないのですがぁ・・・それでもなおこの指先がぁ~~~勝手にぃ。。。orz

>生保各社が国債への依存度を高めていくのは大きなリスクである。
>顧客には「万が一のリスクに備えて」といって保険を売っておきながら、保険会社が自らのリスクを放置しておくのは矛盾以外の何ものでもない。

★繰り返しますが、累積した政府債務、そのほとんどが国債ですが、のせいで、我が国の財政は制御不能に陥っている、と思います。
巷間我が国の場合は、現在財政危機にあって債権者の過半数が外資であるギリシャと異なり、国内機関投資家であるメガバンク、地域銀行、生保などの金融機関がその債権者として約75%を占めるのだから、実際の政府債務はBS上の負債に対して5%に過ぎない、などという極めて無責任な言説が流布していますが全くのデタラメでございます。
債権者が外資であろうがなかろうが、最も重要なのは、今後も継続して国債の消化がなされるのかどうか、であります。

長期金利が1%押し上げられただけで、金融機関の総額の評価損が約8兆円増加するという試算がございます。
そして、仮に4%程度上昇すれば約32兆円の評価損となり、我が国の金融機関のほとんどがあえなく「債務超過」に陥り、挙げ句には日本発の世界金融危機と相成ります・・・。
我が国の場合、毎年度税収が約40兆円に対しそれを上回る44兆円を借金しながら歳入とし、その中から国債の利払い金約21兆円を返済しているのです。
要するに、もはや借金ができない水準であるにもかかわらず、「日本国は潰れない!」というガラスの信用力と将来の徴税権を担保としてさらに借金を重ねながらそのツケを将来に先送りしているわけでございます。
このガラスの信用力が破綻すれば、すなわち我が国の金融機関が我が国を何らかの理由で見限る事態ともなれば、簡単に国債相場は下落し始めます。
大前さんのご指摘の通り、、我が国生保業界の雄であるニッセイが外資と資本提携するということは、ニッセイの経営陣に外資から人が送り込まれることになるわけですから、まさにそこはグローバル・スタンダードな経営判断が下される運びになるでしょう。
従いまして、事実上財政ファイナンスが不能に陥っているような国の国債を資産運用のポートフォリオの大半に位置付け続けておくはずがありません。

講学上「現代ポートフォリオ理論」(ごく簡単に申せば、困難は分解して処理することが合理的であることから、資産もリスクを低減すべく分散すべきだとの理論。)というものがございまして、これに照らせば、財政危機にある国の国債にほぼ集中投資するなどというのは極めて異常な事態であるわけです。
顧客から集めたおカネを漫然とリスク許容度を度外視した状態で放置しているのですから。
ということで、今後も長期金利上昇リスクを抱えた国債に依存する生保の資産運用の実態は、顧客に対する不誠実極まりない不健全な経営判断をなしているといえるのです。

で、問題はここからでございます・・・実はこのような生保の資産運用の実態と同じような問題を抱える金融機関がございます。
それは・・・地域銀行(宮崎で申せば、宮銀や太陽銀行、ですね。)でございます。

2010年9月発行の日銀の「金融システムレポート」(http://www.boj.or.jp/research/brp/fsr/data/fsr10b.pdf)によりますと・・・2009年度中に金利上昇リスクが、メガバンクが約2,500億円、地方銀行がなぁ~~~んと!約5,000億円上昇した、ということです。
要するに、地域銀行はメガバンク以上に国債依存度が高いということを如実に物語っております・・・。
地域銀行が国債依存度が高い理由は、偏に地方経済が疲弊しており貸し出しが減少しているからでございます。

日銀も地域銀行の国債依存度の高さについて警鐘を鳴らしておりますが・・・ニッセイやメガバンクと異なり、外資との資本提携などの機会がほぼない地域銀行が今後国債依存度を低減するような経営判断をするとは到底思えません。
メガバンクの場合、その市場を自ずから世界に拡大しておりますので、自ずと経営の健全性をグローバル・スタンダード化せざるをえません。
従いまして、国債依存度も低減している最中であるわけです。

もはやメガバンクは我が国の国債から逃亡し始めているといえるのです。

地域銀行で思い出しましたが、この点はゆうちょ銀行も地域銀行と同様国債依存度が高いわけです。
そもそも旧大蔵省のお財布代わりでしたから・・・。

メディアは報道しませんが、今後地域銀行による国債への集中投資の実態が顕在すると思いますが、そうなったときにはそれはもう・・・。。。orz

ちなみにぃ~・・・轍も家内も、生保にも医療保険にも加入しておりません。
今後も加入することはないでしょう。
医療保険くらいはぁ・・・とお付き合いでかなり以前に検討したこともございましたが・・・(「高額療養費制度」があるというのもありますが、)まぁ1,000万円程度の自己負担ならば自費でよいとして、それ以上の医療費がかかるようならばもはや死ぬだろう(笑)と諦観いたしましてぇ~・・・加入するのを止めました。

アッ!!!保険に加入するもしないも、拙論をお読みの方々の自己責任で!!!!(こう付言していないと、法令に抵触する虞がございますので・・・。)

失礼致しました。
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ついでに・・・ ()
2011-07-22 07:43:10
「枠」に関連してこの記事を投下いたします・・・。

<全英屈指の難コースで見えた、今、石川遼に足りない二つのもの。>
http://number.bunshun.jp/articles/-/147624

失礼致しました。
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ふーーん ()
2011-07-22 07:53:48
轍さま、長文、力作・・・感謝です!轍様の指達が自由闊達に動き回る・・・・頭の中の構造(中身、詰まり方)が小生のとは違うようで・・・恐れ入ります!!


国債に依存している、生保、地方銀行も危ない・・・資産はどうすればよいの??って感じですね!!

日本人は生来、寛容・・・なるほど・・・


でも、今朝も、憂鬱になりそうな・・・本当に、日本は大丈夫なの??って
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