極楽のぶ

~全盲に甘んじ安寧を生きる

歴史文書を守れ!クアトロ・ラガッツィ (11)

2018年06月16日 | 歴史
 さて、1月6日のことでしたね。憶えていらっしゃいますか(笑)もう、めんどくせぇですね、すみません。今回は、クリスマスの起源に触れてみます(クアトロ本著とは少しはずれます)

 バリニャーノが記した教皇への手紙の最後の期日1月6日、 暦を見て「ああ、そうだった」と思ったような軽いわけではなく、もっと深い意味があった。

 「聖書」によれば(私は未確認ですみません)、イエス・キリストの誕生を祝うため、「東方の三王」が揃ってやってきた、とあるらしい。それが1月6日で、クリスチャンでは誰もが知る記念日だそうだ。

 無論、「東方」とは、オリエント、ペルシャ、インド、中国、そして日本?と、時代の進展とともに「東方」の「意味(領域)」は変ってきた。
 これは、キリスト教布教と相まって、古くはローマ帝国、近世はスペイン・ポルトガル帝国の版図の拡大から持たれた自然のイメージだっただろう。
 バリニャーノは、「ついに、真の東方(極東)の王の使節来訪を実現させよう」と思ったのだろうか?
 実はそうでもなさそうだ。彼自身はこの期日を記すことで、少年たちの旅(自分も同行するのだが)に「聖書(神)のご加護あれ!」との祈りを込めただけに違いない、と、思うのだ。

 前回書いたように、バリニャーノはこの使節の成功確率、可能性、実能力を勘案し、少年(12歳~14歳)の4人を外交使節に選んだ、九州のキリシタン大名、大友、大村、有馬の各武家の血族から3人と、さらにひと、武士階級ではあるが血脈の明らかでないひとり(極楽版では彼の名だけをジュリアンと記しておきます、最後を飾ってもらいます、もちろん若桑線っ製の御著では4人各々の洗礼名も個性も詳しく描かれますからね)・・を、選び、合計4人の使節、正使2人+副使2人とした。
 この編成ではバリニャーノは、彼らを「三王の使節3人」としていない。ただ、戦国時代だから、九州豪族を土地の「王」と呼ぶのは、そう間違いでもない、信長は自分で「国王は俺」と名乗っている(笑)。大友宗麟(そうりん)は自分で行きたい!と願ったほどだった。

 さて少年4人は生まれながらに洗礼を受けた、キリシタン第二世代である。また、有馬のセミナリオ神学校でトップエリートの成績、まさに秀才たちだった。豪族の血縁であるが、やはり時代が時代の武士階級、三代目が高い確率でロクデナシとなる現代政治のようなボンボン政治家が羽を伸ばせる環境ではなかったようだ。名もないが芯が通っていた。

 彼らなら命がけの渡海にも耐え、その間にラテン語・聖書にも精通するだろうとバリニャーノは信じた。まだ少年である、立派な日本語・日本の作法、武士の作法、和装や刀剣の扱いも学んでいかねばならなかった。
 立派な外交使節である。ガキの使いでは許されない。一行には、そうした「教育スタッフ」も乗り込んだ。誰もが死の覚悟だった。
 少年たちは、確かに王族(武家)の血脈ではあったが、各「御家」にとっては、万が一海の藻屑と消えてもまったく惜しくない立場でもあった、これが戦国日本の竜骨だった、しかたなかろう。御家存続こそが基準概念だったのだ。

 興味深いのは、西欧で発展していた活版印刷技術を学ばせるための少年も使節に加えられたことだ。彼は実際見事に技術を習得して帰国するのだが、日本では夢は果たせなかった。確か、マカオに亡命し、活躍したはずだ。
 ドイツに発展した活版印刷技術はむしろルターのプロテスタント布教に利したもので、ドイツ語が安定し、庶民の知力が潤沢化したという代物。カトリックにとっては敵の技術だが、そんなことは言ってられなかった。時代はジャーナリズムの世界に突入していたのだ。
 何度も紹介したが羽太雄平著「本多の狐」は、この活版印刷をネタに江戸開幕の歴史スペクタクルフィクション、時代考証がら合っていて面白い! 家康が知の普及を恐れてこの活版印刷を無きものにしようとする・・

 閑話休題です(本題に戻りまs)
 バリニャーノはグレゴリオ13世に利発な日本人をなんとかひとりでも会わせることであり、なんとかひとりでもローマを見て帰国し、イエズス会のことばが嘘でないことを伝えてほしい、経路のスペイン・ポルトガル王へは、秘かな表敬訪問に抑制する(大騒ぎされないように)つもりだった。
 バリニャーのはリアリストで、リベラリストだった、およそ権威主義からは遠かった。本当の宗教家というのは原理主義からは程遠い、普通の人格者なのだと、彼から学ぶことは大きい。4人の少年が、真の父と慕い、愛した理由がよくわかる。人間の感情は二万年前からほとんど変わらないのだろう。このひとのためならば死ねる、と思わせるひとだったようだ。
 
 ところで以下は、極楽耳学問だが、イエスの誕生日は実は12月25日ではなく、夏だったって知ってますか? では、12月の暮はなんだったのか?というと、そもそもはエジプト文明、さらに欧州においては冬が長い、冬は太陽の力が弱まる時期だと思われていた。
 そして、冬至が過ぎると、毎日毎日、太陽の力が復活してくるのがわかる。12月25日ともなると、明らかに日が長くなる、ひとびとはこれを喜び祝ったものだった。
 一方、収穫祭のころは感謝祭があり、当初は、子供たちがおとなにお祝いを贈る儀式だったのだそうだ。 おじいちゃん、お疲れさまでした、の子供の「肩叩き」のようなものだったのだろうか?
 やがて物資が豊かになると、おとなが子供にプレゼントを配るようになり、これが太陽の復活を祝う年末の祭りと接近する用意はできていた。
 ユダヤ教時代は当然クリスマスはない、エジプト文明では、シリウス(冬の星、オリオン座の左下にある、8光年しか離れていない、恒星のなかで最も大きく見える星★を特別な星とした。この伝説の子オシリスを抱く母イシスの像(絵柄)が、聖母マリアとキリストの誕生の絵とそっくりだそうだ。
 ユダヤ教の中で生まれたキリスト教がそのエジプト文明の「母子の絵柄」をモチーフにしたのはよくわかる。
 そして、このキリスト教をヨーロッパに布教する際、上記の「太陽を喜ぶ儀式」がキリストの誕生日に変わっていったというのである。サンタクロースの登場と、トナカイや雪ソリの登場はまた別の要素の合体だから面白い。
 なんでこんなことを書いているかというと、東方三王がやってきたのが1月6日だという追記(だろう)は、12月25日がクリスマスだと定まってからの概念だとわかり、面白いと思ったからだ、いや決して冒涜するつもりはないです! 時に連鎖があって素敵だと思うだけだ。

 ところでこのクリスマスの祝いを聴いて、信長は非神仏で統治したはずの安土に、総見寺を建て、自ら神を名乗り、自分の誕生日を祝わせ現世利益(りやく)を仕切った。信長は日本人で誕生日を祝った最初の人物である。古来も信長以後も日本人は全員1月1日に一緒に年を取るのが、「数え歳」の理念である(笑)

 「生きたまま神格化」の信長暴挙はもう有名だが、若桑先生によると、この史実は、なんと日本側の史料には無いんだそうで、じつは、ルイス・フロイスの記録のみによって我々は知っているんだそうである!!!。びっくり!

 やはり「安土」は日本史にはそぐわないとして、記録から消されたのだ。興味深い!「記録の破棄」は権威の常套手段であった。毎回、現代と通ずるものがあって失笑してしまう。 が、これは恐ろしい、誰かに都合の良いように書かれた歴史、が残っているだけだとしたら、おいそれと信じてはいけないということになる。

 ともかくキリスト者にとっては、東方三王の礼拝は、聖書にある重要なメッセージだったのだ。
 極楽は、このシリーズ前半でフィレンツェに触れたとき、勘違いで「間違い」を書いた。 重要だから、あえてそこを直さず、ここで改めて記します、すみません。

 フィレンツェで、少年使節が、あのできたばかりのウフィッツィ回廊を歩き、ボッティチェルリの「春」の間(部屋)に入ったとき、同じ部屋の奥に置かれていたのは、ベネチアの女性の肖像画(極楽勘違い)ではなく、「東方三王の来訪の図」だったのだ。
 少年たちは、みなこれを鑑賞してどう思ったのだろう? すでにすっかりビートルズになっていた4人だった、そうか、これだったのか? 俺たちは、、と思ったろうか?

 しつこく言いますが若桑先生の一大特徴は、美術史家のため、映画を観ているように、シーンの絵柄がわかることです、これは他に類をみません!!さすがです。

つ・づ・く
コメント    この記事についてブログを書く
« 歴史文書を守れ!クアトロ・... | トップ | 歴史文書を守れ!クアトロ・... »

コメントを投稿